第54話 義景、旅立つこと

 話の内容に圧倒されてか、すこしのあいだ父子は、どちらも押し黙っていた。

 やがて、老父のほうから口を開いた。


「明義よ」

「ハ……」

「わしは自分の気持ちを裏切ることはできぬ。わしを裏切った鎌倉一族や、景義を許す気は毛頭ない。この恨みは黄泉よみの底までも持って行く」

「……」


「だがお前たちは、わしの思いにこだわるな。機に臨み、変に応じ、大庭とも手を携え、三浦とも協力し、長江家繁栄の道を、その都度つど選べ」

「父上……」

「頼むぞ」


「はい、確かに……」 

 言おうとして、明義の声は喉の奥につまった。

 『頼むぞ』という、その言葉……。

 父から物を頼まれたことなど、今まで一度たりともなかった。

 喜びと同時に、悲しみが、あふれ出た。


 あたりは、いまだ闇に満たされていた。

 父の横で、明義はいつのまにやら眠りに落ちた。

 父の夢の話に引き込まれてか、明義もまた、同じ夢を見た。


 鎌倉のまぶしい海に、一艘の小舟が浮かんでいた。

 その舟の上に、見間違えようもない男の背中があった。

「父上――」

 明義は呼ぼうとして、ふと、やめた。


(……御仏みほとけのような顔をされておられる……)

 波に踊る光に照らされて、父の顔が、見たこともないような、やすらかな微笑を浮かべている。


 巻きあがる波に、飛沫しぶきが跳ねる。

 若者が棹をさし、老人が舵を握り、舟は沖へと進んでゆく。

 遠ざかってゆく。


 光のなかに呑みこまれてゆく舟影を、明義は砂浜に膝をついたまま、いつまでも、いつまでも、敬虔な心で見送るのだった。

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