第46話 みお、光を放つこと

 みおは、口元に指先を当て、義母のほうを見ながら、呆然とうなずいた。


「……はい、わたしも驚きました」

 と、みおが素っ頓狂な声をあげたので、なにやら雑仕女ぞうしめあたりから、くすくすと自然な笑いが漏れたようである。


 有常は顔を輝かせ、よくやったと褒め称えんばかりに、愛妻の手を両手で握りしめた。

 みおの勉学の、日頃の努力を知ったればこそ、かれの感激は、なおいっそう深かった。


 浄蓮は筆を借り、色紙にすらすらと書きとめると、声に出し、二度、三度、その歌を繰り返した。

「雪水に、足つめたくも、みをつくし……水の深みを、知る身なればと」


 ――雪水にしじゅう足をつからせて、冷たく苦しい思いをしている、あの澪標みおつくしのように、どんなにつらい目にあっても、私は身を尽くしてあなたを支えていくでしょう。

 なぜなら、あなたの人生の平坦ではなかった道のりの奥深さ、そしてあなたの愛情の深さを知っているのは、なのですから……


 ……と、それは素直に、高らかに、自分の心を歌い当てていた。


 そしてそこにはまた、先ほど雪水の川につかって澪木を打っていた領民たちへの、いたわりの心さえもが、感じられるようであった。


「心のこもった、よい歌です。今日一番の歌が出ましたな」

 浄蓮は屈託なく、おおいに笑った。


(……今日……一番?)

 ッと睨みつけた波多野尼におかまいなく、浄蓮は太い声、世慣れた口ぶりで話をまとめた。

「さあ、お話は、この辺にしましょう。みなさま、この件につきましては、それぞれに、よぉくお考えになられるとよろしい。失礼ながら、私は長旅の後で少々疲れております。寺へ戻らせていただきます。次郎殿」

「は……」


「御母上のお言葉は、最愛のあなた様の為、お家の為を思って、悩みぬいた末の、この度のお言葉です。このように深く思いをかけてくれる母君ははぎみをお持ちで、うらやましいかぎりですぞ。

 そしてまた、みお御前の素晴らしい歌は、御前の勉学の並外れた努力と、まっすぐな御心の表れです。

 御母上と、みお御前、おふたりの深いお心をよく汲んで、しっかりとした決断を、強い気持ちをもって、あなた自身がお下しなさい」


 みをつくしの歌を書き留めた色紙を、有常に託し、浄蓮は颯爽と立ちあがった。

「お送りいたします」

 と、有常も付き添った。


 みおは三度みたび、庭のほうへ目をむけた。

 そこにはただ梅の花が、風に吹きこぼれているだけであった。


 心にかなった歌を、読み当てることができた、そのおかげだろうか……先ほどまでどうしようもなかった胸の悶え苦しみが、驚くほど、すっきりと取れていた。


 みおは、すこしの涙を拭いて、義母のほうに向き直り、頭をさげた。


「わたしは今より、夕餉ゆうげの支度にとりかかりますれば、みなさま、かがり姫も、どうぞごゆるりとなさってくださいね。

 先ほどわたしと太郎丸とで、春の若菜を摘んでまいりました。今日の春菜はすこし……けれど、旬の新鮮なものでござりますれば、どうぞぜひ、お召しあがりくださりませ。それではまた後ほど」


 雑仕女たちのいたわりの手に支えられながら、みおは、いそいそと退出した。




 ――松田次郎有常は、波多野の姫を、正妻に迎えた。


 しかしてそれよりのちも、糟糠そうこうの妻と長子を粗略に扱うことなく、松田領の半分を与え、できうるかぎりの尊敬と真心をもって、寵愛したのである――





※ ノート


『皇国地誌』(明治政府による官撰地誌)


「松田有常は、松田郷に住んで、領主であった。

 有常に、ふたりの子があった。

 嫡男は、弟のほうで、妻の出自がよかったため、嫡男として本家を継がせた。

 もうひとりは、身分の低い女性に生まれたため、兄ではあったが、庶子として分家した。

 これが、松田に「惣領」と「庶子領」の地名がある由来である。

 これ以前には、松田は一村だったことは、疑いない」


原文;

「松田有常松田郷に住みて領主たり、有常二子あり、太郎某は弟なれ共 妻の出なるにより太郎として本家を継がせた。

 次郎某は妾腹なる故に兄なれ共庶子として分家す。

 是惣領庶子に村の名の由りて起これる所以ってなり、此れ以前は一邑にして松田と称えしこと論なし」



 惣領を継いだ弟(嫡男)は、松田小次郎・政基まさもと

 母は、波多野五郎義景の娘。本作では、「かがり姫」。


 庶子領を継いだ兄の名は、伝わっていない。

 本作では、有常とみおの息子、「太郎丸」。

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