末章一 みをつくし

第38話 みお、若菜を摘むこと

第四部 絆 編


末章一 み を つ く し




   一



 新しい季節は、すでにはじまっていた。


 かろやかな春の風をひきつれて、酒匂さかわ川の土手道を踏むのは、ひとりの雲水うんすいである。


 使い古した錫杖しゃくじょう袈裟けさ菅笠すげがさも、長旅のちりに汚れてはいるが、背筋がまっすぐ、しゃんとして、どことなしに清らげに見える。

 腰につけた鈴の音色も、さわやかである。


 三十すぎの男ざかりであるが、俗世の垢にまみれず、目元がいかにも涼しい。

 すれ違う農夫たちも、なにかしら尊いものを感じて、おのずと道をゆずり、頭をさげてゆく。


「――浄蓮坊さま」

 呼ばれて雲水は、遠くの春霞はるがすみに目をこらした。

 むこうから手をふるのは、若い女だった。


「御前」

 みおだった。

 丸桶を肩に抱え、春風に足取りかろく駆け寄ってくる。

「おひさしうございます」

 もう二十を越えたろうが、元気に声をあげる様子は、まだまだ少女のように見えた。


「おやおや。また、そのような格好で……」

 みおはひとえに腰布を巻いただけの簡素な格好で、髪も後ろに結わえている。

 知らぬ者が見れば、どこかの雑仕女と勘違いしたことだろう。

 呆れるように言った浄連だが、その表情は、みおへのあたたかな理解にあふれていた。


「だって『御前』なんて呼ばれて、じっとしてなんていられないんだもの。見てください。今、みんなで若菜を摘んでるところなんです」

 せり、つくし、たらのめ……早春の野山のさちが桶いっぱいにあふれている。

 雑仕女たちも三々五々集まってきて、口にぎやかにみおを取り囲んだ。

 女たちは、みな輝くような顔をしていて、誰もがこの女主人のことを好いているのだと、手にとるようにわかった。


 浄蓮にとっても、この気さくな『御前ごぜん』に会うのは楽しみであった。

「みなさま、変わりないかね」

「はい、おかげさまで、みな、元気です」

「それはよかった。次郎殿は?」

「屋敷におります。けい、お前はひとっ走り先に行って、殿に知らせてきなさい。おと、お前は御坊様のお手荷物をもって。太郎丸、戻りますよ」


 やんちゃ者の太郎丸は、手伝っているのか遊んでいるのか、春草の上を転げ回って、手も顔も草だらけである。

「やだッ、まだ帰りたくない」

 手足をふるって駄々をこねる太郎丸に、みおは呆れ顔でため息をついた。

「じゃ、お前は勝手に遊んでおいで。みんな、太郎丸をよろしくね」

 みおは先に立って、浄蓮を案内した。


 日当たりのよい土手は野の花も咲きそめて、猫柳の花穂が、ふるふると風にふるえている。

 広々と浅く、普段は流れもおだやかな川が、今は雪解けの水にあふれている。

 川面には抜けるような青空が映りこみ、さざなみが細かな光を躍らせている。

 たくましい男たちが冷たい水をものともせず水につかり、にぎやかな様子で立ち働いていた。


「あれは、なにをしているのでしょう?」

 みおの問いに、浄蓮は目を細めた。

「ふむ、あれは澪木みおぎを打っているのでしょうな」

「みおぎ?」

澪標みおつくし、とも言います。ああして水の浅い場所と深い場所の境に、目印の杭を立てておけば、舟が浅い場所に乗りあげることがない。舟の通り道を作っているのです」


「そうですか、あれが、『みおつくし』……」

 みおは、なにやら思うところがあるようで黙りこんだ。

「興味がわきましたか?」

「ふふ、わたしと同じ名前」

 みおが言って、浄蓮も雑仕女も微笑した。


「でも、ああして冷たい水のなかに入って、男衆は本当にたいへん」

 言うや、みおは川のほうへ近づいて、大声を張りあげた。

「みなさーん、がんばってくださいねーー。イェイ、イェイ」

 力づけるための曳声えいせいを張りあげて、みおが大きく手をふると、男衆も同じように威勢よく手をふりかえしてくれた。

 領主の奥方様とは、まるで気づかなかったようである。


 道中、みおは浄蓮を飽きさせなかった。


「こちらが近道なんです」「あそこに珍しい、まっ白な堅香子かたかごの花が咲いていて……」「太郎丸が乱暴で困っております。このあいだも、人様のお宅の高価な屏風を……」

 などと、無邪気なおしゃべりを聞いているうちに、すぐに御亭ごていに着いてしまった。

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