第37話 冬の夢、五

「……ほんに、かけがえのない一瞬。まさに優曇華うどんげの花を見るような……」

 人外の世界をこっそりとのぞきこむようなおののきに、毘沙璃の声もふるえた。


「ようやくわかった……夢の陽春丸は、この月冠の富士を、三千年に一度の幻の花にたとえたのじゃろう」

「わたしもそう思います。優曇華の花――もしもその珍しい姿を見たなら、このような言い知れぬ気持ちになるのでしょうか――。胸がそわそわとざわついて……嬉しいような、それとも、哀しくなるような……ときを永遠に、閉じこめておきたくなるような……」


「美しい花じゃ」

「この富士と月のように……しなやかで、きよらで、真白ましろな花なのでしょう……」

 毘沙璃の切れ長の瞳のふちに、月の光があふれ、白い花びらのようにたわむのが見えた。



 景義は、不思議な気持ちだった。

 自分の魂が肉体から溢れ出て、海のように広がりでてゆくようである。

 呼吸のたびに、喜びが波となって、天地あめつちを駆け巡る。

 見交わしたふたりの瞳はとても穏やかで、毘沙璃もまた、同じ心地でやすらっているのがわかった。


 もはやふたりは、触れあう必要もなかった。

 手を取りあう必要もなかった。

 言葉さえ、必要ではなかった。

 目尻の皺のかすかな動き、ただひとつのまなざし、ただひとつの微笑……そんなわずかな仕草で、千言万言を尽くしても言いつくせぬ思いを表すことができた。


 ふたりは甦ったように若々しく変じ、そこには光輝くような若駒の少年をのこ白鳥くぐい少女をとめとが、ただひとつの呼吸、ひとつの歓喜、ひとつの海のなかに、融けあっていた。



 ――いつまでそうしていたことだろう。


 ……無情にも……かされるようにして、空が白々と明けてゆく。

 せつなくも、満月と富士とが、すべるようにすれ違ってゆく……刻一刻……どうにかしてとどめたい。

 だが、とどめようもない。

 あたりが明るくなるにつれ、ふたりは次第に年老いてゆく自分たちの姿を見つけた。


 毘沙璃が、かるい咳をした時、そのしわぶきの音に聞き憶えがあるような気がして、景義は急に心細くなった。

「寒かろう、これを羽織りなされ」

 綿入れを脱ぎ、景義は毘沙璃の細い肩をくるんだ。

 老翁の鍛えられた体は、寒さにふるえもしなかった。


「ありがとう……」

 毘沙璃はうなだれるように、頭をすこし傾けた。

 肩をふるわせながら顔をあげた時、その瞳が、真っ赤に染まっていた。


優曇華うどんげの花の姿を、しかと忘れず、心にとどめ、持ち帰ってください。そして帰ったら必ず、陽春丸殿の墓前に捧げてください」

「必ずや」


 毘沙璃は頭をもたげ、白鳥が翼を広げるように昂然と立ちあがった。

 幾層にも積もった厚い霜を、よろめきもせず踏みしめ、一歩、二歩、後ずさりながら、景義の全身を瞳のなかに捉えた。


「あなたの魂の輝きが見えます。昔よりも、もっともっと明るく輝いている。まさにそれこそ、吉祥の光――」

 金色こんじきの鈴を高らかにふりあげ、巫女は、ふるつわものに祝福を与えた。


 片膝で身を起こした老武者も、まぶたを閉ざしたまま、厳かにつぶやいた。

「わしにも見える。あなたの魂の、いっそうの輝きが……」


 ――言いも終わらぬうち、野辺一面に銀色の光が弾けた。


 霜柱のひとつひとつがきらめきわたり、するどい光の矢を、颯々さつさつと天に放った。

 あふれだした光に、夜という夜はまたたくまに干あがり、影の溜まりへと逃げこんでゆく。


 ふたりが東のかたをふり返った時、そこには天地のすべてをくらませて、再生と祝福の、かぎりない朝日がほとばしっていた。

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