第36話 冬の夢、四

 毘沙璃はうなずいて、話を元に戻した。


「さ、『夢解き』をつづけましょう」

「……童のころ、よくふたりで夢解きをして遊んだのう。毘沙璃が師で、わしは弟子であった」

「あなたはなかなか、勉強熱心な弟子だったわ」

「そうであろう?」


「さて、どこからゆきますか……」

「白鳥と白馬とな……」

「月と富士……」

「三千年に一度咲く花とは?」


「……三千年に一度咲く花とは、金色こんじき光明こうみょうの経典に出てくる、優曇華うどんげの花のことではないかしら」

「優曇華?」


「待って、わかったわ……」

 毘沙璃は謎めいた瞳で、景義の目をのぞきこむと、富士の高嶺を指さした。

「まさか?」

「………」


 ……それからふたりは、もう話をしなかった。

 霜が固く、大地を覆いつくしていた。

 ときまでもが凍りついたかのような極寒の世界に、ふたりは、ひしと身を寄せあい、西の空を見あげ、固唾をのんで、その瞬間を待った。


 ひそとも動かぬまったき静寂が、このあかつきを支配している。

 虫のもない。

 風の音もない。

 草木もそよがぬ。

 夜を巡る獣たちも、どこか自分たちの穴倉に帰ったらしい。

 あまりに静かすぎて、月が滑り落ちる音さえ、聞こえてきそうである。

 山は動かぬ。

 川も動かぬ。

 ――そうして気がつけば、はや、その瞬間は訪れていた。


 まっすぐに裾をおろす霊峰、富士。

 その白雪の頂点にぴたりと、神鏡のごとき満月が納まった。

 それはまるで神仏の偉大な指が、月の円盤をつまんで、そっと山上に乗せたかのようだった。


 地上に降りてきた月のおもは、異様なまでに巨大にふくれあがっていた。

 その大きな光の真円のさなかに、富士のいただきが台状の影となって、くっきりと浮かびあがっている。


 富士の山上は、神仙の遊び集う庭だという。

 もしも神や仙人がそこに遊ぶならば、今こそ、円窓にひらめく蝶々の影のように見えたかもしれない。

 そのような影こそ見えなかったが、目をこらせば、白煙がひとすじ、月を割るようにして立ち昇っているのが見える。


 煙は糸のように細く、山頂にくすぶる赤気を受けて、春の糸遊かげろうのようにゆらめいている。

 まるで、宇宙の裂け目のようである。


(あの裂け目をのぞきこめば、遠く隔たる神仏の世界さえもが、のぞき見られるのでは……)

 景義は、もどかしげに、かいなをさし伸ばした。

 しかし指は、むなしく中空を掴むのみ。

 月も、富士も、想い届かぬほど、巨大であった。

 それをただただ見つめることしかできぬ、ふたりの人は、ちいさな、あまりにもちいさな芥子粒けしつぶのよう……心細いような、そら恐ろしいような気がしてくるのだった。


 景義は、言った。

「富士が日の冠をかぶるのは、年に二度と決まっている。しかし、月の冠をかぶるのは、いつとは定まっておらぬ。十年に一度もない、稀有けうなことじゃ……」

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