第32話 ふところ島、月見の宴、終

 人々が食事や会話に夢中になっているうち、次第にあたりが宵闇に包まれてきた。


「おぅいッ、月が綺麗じゃぞ」

 景義が庭から叫ぶと、人々は縁側に出てきて、酔いどれほうけた顔を並べた。


「ほれ、悪四郎どん、見なければ損じゃぞ」

「わしは見んぞ。見んと言ったら見ん」

 悪四郎は奥のほうで、頑固に顔をそむけている。


 景義は大笑いして叫んだ。

「『片見月かたみつき』を気にするなど、悪四郎どんらしくないわい。おぅい、若い衆、爺さまを担ぎあげよ」

 号令一下、今まで相撲に興じていた力自慢の若者たちが、ここぞとばかりに押し寄せてきて、悪四郎の体を御輿みこしのようにさらいあげた。


 悪四郎は、わめき罵った。

「やめよ、やめんか、馬鹿者どもッ、老人を尊敬せよ」

 狂ったような笑いどよめきが巻き起こり、「そりゃ、どっこい、どっこいッ」と、若者たちは悪四郎の体を、月の光のもとにさらけ出した。


 頑固に目をつむっていた悪四郎も、とうとう思い切るや、大きなまなこを、一息に見ひらいた。

 思わず、「ほう」と、ため息がもれ出た。

 大粒の星々を散らす東の空に、曇りのない鏡のような月が、大きく大きく輝いていた。

「美しいのう……」


 酔いどれ心地の桃源郷にふわふわと浮びながら、老爺はまぶしげに目を細めた。

 目のはたからはどういうわけか、切ない涙が次々とこぼれてくる。

 悪四郎はこらえきれなくなって、がなり立てた。

「おい、野郎ども、太鼓を叩けッ。こうなりゃ、仕方がねェ。片見月なんぞ糞喰らえッ。わしは踊るぞ。おうぎじゃ、扇を持てィッッ」


 喜びにワッとどよめいた若者たちは、悪四郎を庭のまんなかに下ろすと、急いで仕度にとりかかった。

 たくさんの小太鼓、大太鼓が引き出された。

 笛を吹ける者は笛を吹き、太鼓が得意な者は太鼓を叩いた。


 景義も、脂で汚れた手指をしゃぶった。

「おもしろうなってきたわい。どれどれ、わしもいっちょう叩くかの」

 助秋からバチを奪い取るや、景義は一声ひとこえ気合を発し、力強く打ちならした。

 途端、祭り囃子が生き物のようにうねり、轟きはじめた。

 まるで五臓六腑のうちを、炎がたぎって転げまわるかのよう。


 この時とばかり、岡崎の悪四郎は両手に扇を開くや、カッと目を見ひらき口を尖らせ滑稽な表情、酔いによろめく足取りで、珍妙滑稽な踊りを始めた。

 その姿を見て、男も女も、笑わぬ者は誰ひとりいなかった。

 景義が庭じゅうを見回せば、笑顔、笑顔、笑顔……どこを見ても、弾けるようなまい顔にあふれていた。


 さんざめく酔客の声、喨喨りょうりょうたる笛太鼓、玉を転がすような虫たちの声。

 十三夜の月は、次第に光を澄ませながら、はるか高みへと舞い昇ってゆく。


 地上のにぎわしさを見おろしながら、月の面輪おもわもまた、ほがらかに笑っているようだった。

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