第27話 緑御前、落髪すること

 緑は、今初めて会ったかのような顔をして、法音尼の慈しみ深い顔を見つめ、そして、声をふるわせた。


「お会いするのは、初めてでしたかしら……」

「いいえ」

 と、法音尼は首をふった。


「もう何十年も前に、大庭の千人力弁天宮で……」

「では、あなたもあの時、千人の女たちのなかに?」

「ええ」

 と、法音尼はうなずいた。「わたしは女人作事の話を聞くや、居ても立ってもおられぬ思いで、伊豆山を飛び出し、真っ先に駆けつけたのです」

「そうでしたか……」


 もどかしいような懐かしさを感じ、わずかに半歩ばかり、緑は身を近づけた。

「わらわは、仏道というものが何なのか、ほとんど知りませぬ。しかし、罪深い暗闇に沈むわらわにとっては、そこに……なにかしら、ちいさな光があるような気がいたしました」


 法音尼は、ゆっくりとうなずいた。

「ほんのちいさな光でよいのです。わずかな光を、みなで持ちよって、お互いの足元を照らしあいましょう」

 やさしく手を引かれ、黄白色の竹の葉の、やわらかな落ち葉を踏みしめながら、緑はいおりへと導かれた。


 尼たちの手によって、水瓶と刀子とうすが用意された。

 受戒――そして落髪。

 色つやを失った髪が、とぐろを巻いて、のたり、のたり、膝元に落ちてゆく。

 昔、夫景親がその髪を手に取り、「なんと美しいことか」と、ため息をつくばかりに賞賛してくれた。


 ふたりきりのしとねのなかで、景親はその優雅な声をひそめ、戯れのようにして、法文歌を唄ってくれた。



烏瑟うしつみどり元結もとゆいは、


髪筋かみすじごとにぞ光るなる


龍女りゅうにょたえなる声引こわびきは、


聞けども聞けども、なし……



 心満ちたりる思いがして、緑は、しずかに夫に尋ねた。

「どんな意味の歌ですか……」


「竜のむすめ、竜女の法悦よろこびの歌だよ。竜女が仏になる時、頭の形が、仏の形に変わる。髪は、美しくかがやく、みどりの黒髪になる。声は梵天ぼんてんのように、綺麗でよく通る声になる。……そうして竜女は、仏へと生まれ変わるのだよ」

 景親はそう言いながら、やさしく手櫛をして、緑のすべらかなみぐしを、幾度も幾度も、祝福するようにかき撫でてくれたのである。


(……よろこびの歌……)

 ふいに甦った思い出に、緑は胸を突かれた。

 おもわず涙があふれ、あるじを失った白髪の上にふりかかった。

「御前……」

 と、尼たちは気遣わしげに手を止めた。

「……ええ、ええ……大丈夫……つづけてください」


 落髪が終わると、言われるままに、床に落ちた白髪をかき集めた。

 泉から汲んできた、清らかな水にひたし、こびりついた俗世の垢を、手づから洗い落としてゆく。


 ――その毛髪を乾かして、糸にして、法音尼は緑に刺繍をさせた。


 ひとつひとつ、確かめるように、色布の上に、白髪はくはつをもって、曼荼羅まんだら梵字ぼんじつづってゆく。


 わずかばかりの陽だまりに腰をすえながら、緑はちいさな縫い針を、一心不乱にりつづけた。

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