第26話 緑御前、法音尼を訪れること

 数日後――


 波多野尼は、緑御前を連れて、伊豆山へと赴いた。


「まあ、大庭三郎殿の……」

 緑を紹介されると、白い簡素な浄衣じょうえをまとった法音尼ほうおんには、驚きに目を丸くし、この時ばかりは笑いはしなかった。

 その代わり、老いた顔に、なんとも心染み入るような優しい表情を浮かべ、緑を迎えてくれた。

「ようこそ、おいでくだされました」


 苔におおわれた古池に、朽ち果てた病葉わくらばが沈みもせず、よるべなく浮かんでいる。

 ひとつ、山奥のどこかにきぎすが鳴いた。


 緑はふるえながら、誰にも声を聞かれまいとするかのように、かすれはてた声を絞りだした。

「わらわは未だに、人を憎んでおります。世のなかを心底、憎んでおります。……それでも、仏道には入られましょうか」


 法音尼は、そっと緑の手を握りつつんだ。

「憎しみを経験せぬ人はおりません。すべての人に、仏の道は開かれております」

 そして質素な草庵を、腕を広げて指し示した。

「ここにはあなたと同じように、戦で夫や子を失った尼たちが、仏の道に勤めております。わたしもまた、幼い頃に家族を戦のために失くしたのですよ」


 静まり返った竹林の、穂先ばかりが風にざわめいている。

 雲の切れ間から日が差し込むたび、古さびた竹の蒼白の色あいが、生命を取り戻すように、若緑に華やぐ。

 緑は、ふり返った。

 どこからか花の香りがしたようで――しかしあたりを見回しても、それらしき花の姿はどこにもみつからなかった。


 どういうわけか、それまで十年のあいだ定まらなかった瞳の焦点が、ふいに正気づいたかのように、はっきりとしてきた。

 彼女のまなうらには、ひとつの光景が、あざやかに浮かびあがってきた。


 うら若く、つややかな黒髪をなびかせ、綾羅綿繍りょうらきんしゅうころもをまとっているのは、緑自身だ。

 陽春丸は、まだ生まれていない。

 ――それはもう二十年以上前にも遡る、あの厳島いつくしま千人力せんにんりき弁天社の、華やかな落慶式らっけいしきの様子であった。


 都から名高い僧侶が招かれ、供養くようの法事が、盛大に行われた。

 施主せしゅの景親。

 その老父、景宗。

 大庭の兄弟たち……平太景義、次郎景俊、五郎景久。

 長尾、香川、梶原、柳下などの鎌倉一族。

 金子、愛甲、藤沢などの縁族。

 波多野、渋谷、首藤、海老名、糟谷、三浦、中村、工藤、伊東……近隣の名のある諸家が招かれ、盛大な式典が催された。


 集められた千人の女たち……緑御前も、波多野尼も、その先頭に名を連ねた。

 大庭の姉妹たち……宇佐美うさみ御前、美奈瀬みなせ御前、まだ幼い、気和飛けわい姫。

 景義の若い奥方、宝草御前。


 ひとりの女長老が、人々から尊敬と労わりの目を向けられながら、輿こしに乗せらてきた。

 鎌倉権五郎の娘、「星月夜ほしづくよ御方おかた」であった。

 毘沙璃をはじめ、巫女たちが華やかな舞楽を奉納した。


 若い緑は右も左もわからぬまま、容赦なく照りつける日差しの暑さに、ただただぼんやりとしていた。

 彼女の耳には「女人にょにん成仏じょうぶつ」という言葉が、さかんに聞こえてきた。

 男子のみならず、女人であっても、死後、成仏できるのだという。

 八歳で悟りをひらいた、竜女りゅうにょ

 鬼神から護法の神へと変じた、十人の羅刹女らせつにょ

 他人の子を喰らった、鬼子母神きしもじん

 ……みな改悛かいしゅんし、仏へむかう道を歩んだのだとか……。


 香のたちこめる社殿の廻廊で、ふたりきりになった時、ふいに夫の景親がふり返り、やわらかに、耳元に囁いた。

「私はそなたの幸せを、心から願っている。死した後も、願わくばふたり、浄土にて、同じはちすの上に生まれ変わらんことを……」

 そして、きらびやかな水干すいかんの袖をさしだし、緑の手を、そっと握ったのだった。


 ……それは遠い遠い、白日夢のような記憶であった。

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