第25話 緑御前、景義を打つこと

獅子面ししづらの……左七……)

 景義の額の傷跡がうずき、かの日のやいばの冷たい光が、脳裏にひらめいた。


「あの男を家の内に隠しておき、あなた様が帰る道に先回りさせ、殺すよう命じたのでございます。わらわはそういう毒蛇のような女なのでございまする。さあ、わらわを罰しなされ。夫と息子にしたように、川原で首を刎ねなされ。今すぐ串刺しになされ。わらわを殺しなされーッッッッッッ」


 ついに景義の烏帽子をむしり取り、もとどりをわし掴みにすると、女は真っ黒な歯を剥き出しに、すさまじい狂乱の叫び声を張りあげた。


 景義の頬を平手で打ち、胸を拳で幾度となく打った。

 首筋に噛みつき、鋭い爪でつらの皮をむしった。

 餓鬼のように痩せ細った体の、いったいどこにそんな力が潜んでいたのか、狂い、乱れ、悶え、絶叫しながら、ほとんど信じがたいほどの力を、憎んでやまぬ男にぶつけた。

 溺れかけた者が、どうにか助かろうとて、隣の者を水の底に沈め、その体の上に這いあがろうとするかのような、そんな忌まわしい光景にも似ていた。


 景義はといえば、ただただ目をつむり、されるがまま、女の精神の恐慌の、一切の嵐が過ぎ去るのを、ひたすらに待っているようであった。


 尋常ならざる騒ぎに気がついて、大庭の郎党たちが広間の内に飛び込んできた。

 狂態の女が主人の上に馬乗りになっているのを見るや、かれらは次々に抜刀した。

 刀身に反射した光が、するどく四方八方に飛び乱れた。


「ならぬッ、手を出すな」

 クワッと目を見開き、景義は叫んだ。

「しかし……」

「みな、さがってくれ。遣戸やりどを閉めよ」

 郎党たちは太刀を構えたまま、縁側に引きさがり、息を潜めた。

 機会あらば、ふたたび躍りこむ算段である。


 しばらくすると、みずからの暴力に疲れ果てたか、緑は景義の胸の上でぐったりと脱力し、冷めざめと、幽鬼のような切なさで、すすり泣きをはじめた。

「もういい、もういいんじゃよ」

 景義は緑の痩せ細った背をさすりながら、子をあやすように、囁いた。


「もはやすべては、過ぎ去った。わしは、そなたの為すこと、すべてを受け入れるじゃろう。怒りなされ、泣きなされ、その悲しみをわしにぶつけなされ。悔しかろう。つらかろう。そうじゃそうじゃ、からっぽになるまで泣きなされ。わしも一緒に怒る。わしも一緒に泣く。悲しかったのう……つらかったのう……悔しいのう……泣きなされ、泣きなされ……」

 老翁の、ぶ厚い胸の上で、緑は獣のような唸り声をあげた。


 ……しばらくして、ひそやかな子守唄が聞こえてきた。

 郎党たちは太刀をさやにおさめ、まぶたをつむって聞き入った。

 それは朴訥で、やさしげな、おきなの唄声だった。


 大広間の柱に、はりに、光と闇とが絡まりあいながら静かにゆれている。

 女は眠ってしまったかと思えば、時々また思い出したかのように、低くすすり泣いた。

 邪魔するものはない。

 老爺と女とはひとところに折り重なったまま、いつまでも暗がりのなかに漂っていた。





※ 景義襲撃事件 …… 第二部・第58話『俣野五郎、志を貫くこと』参照

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