第24話 緑御前、景義に迫ること

「陽春丸を救うことができなかったのは、わしにとっても心底、悲しいことであった。わしはこの件についても……無力であった……」

「……」


「だからこそ、他の者たちの身柄に関してはいっそう奮い立ち、わしは努力した。一族の者にかぎらず、自分が救うことができる者ならばすべての者を救おうと、わしは一念発起した。冥土にいる、景親と陽春丸に、誓った。

 義秀のことも、他の者たちのことも、その回復の道のりは容易ではなかった。わしにとっても、当人たちにとっても、苦しい道のりであった。一口に十年と言うが、その十年の歳月の、いかに長かったことか……」

「……」


「それでもわしが心折れず、やり遂げることができたのは、ひとりでも多くの命を助けることこそ、景親と陽春丸、ふたりへの一番の供養くようになると思うたからなのじゃ。

 わしはふたりを救ってやれなかった。その大失敗をけして忘れず、それから十年の間、力を蓄え、計略を立て、周到な根回しをして、わずかながら、人々に恩赦の足がかりを与えることができた。

 そこから見事立ちあがったのは、かれら自身の徳と力量、そしてあの世にいる景親らの、加護のなせるわざであろう……」


 胸の底から正直に、真実の想いを拾い集め、真剣につむぎだす景義の言葉が、ようやく届いたか、緑はゆっくりとうなずいた。

「……あなた様は、ご立派なお方です」


 そう言った、緑の瞳のなかには、油皿あぶらざらの炎がゆらいでいた。

 骨ばった手が、ちいさな膝の上で小刻みにふるえている。

 ゆっくりと、ゆっくりと、重たい泥のなかに沈みこんでゆくように、女は言葉を重ねていった。


「あなた様はほんに、ご立派なお方……それほどにご立派なお方でござりますのに、なぜでしょう? なぜなのでしょう? ? 鎌倉を許すことができぬのでしょう?

 誰が生き延び、誰が救われたとて、陽春丸が甦るわけではない。夫君せのきみが甦るわけではない。なぜあなた様は、ほかの誰をでもなく、血をわけた身内であるふたりを、お救いなさらなかったのか?

 わらわはあの片瀬川での処刑のことを考える度に、心のなかに真っ黒な憎しみが湧き起こる。血が凍る。凍りついて、わらわの頭を狂わせる。あなた様が憎いッ、鎌倉が憎いッ、戦が憎いッ、男どもが憎いッ、いたいけな陽春丸を戦場へ連れて行った夫君せのきみも憎い、なにもできず、いたずらに歳を重ねてゆく、自分が憎いッッ、この世のすべてが憎いッッッ、憎いのじゃァッ」

 緑は平手で激しく床板を打ちすえるや、次の瞬間、ふところから懐刀を抜いてふりあげた。


 景義は慌てもせず、手元の茶碗をつかみ、手首をひねって投げた。

 この老人は齢を重ねても、すべこころえた、つわものであった。

 狙いは過たず、茶碗は、緑の手首をしたたかに打った。

 小刀と茶碗が絡み合って弾け飛び、床板に湯水をぶち撒きながら、独楽こまのように踊り狂った。


 女は絡みくねる白髪はくはつをふり乱し、まるで怪異な土蜘蛛つちぐもの化け物のごとく、四つんばいになり、床を這いずり這いずり、すり寄った。

 そして景義の着物の裾に、必死の形相で、しがみついた。

「わらわを殺してくだされ。どうか、殺してくだされェ、この地獄の苦しみから、開放してくだされェ、アア、アア」


「落ち着けッ、落ち着かれよ……」

 景義は火が倒れぬよう、高灯台を半身はんみの体勢で遠ざけた。

 その隙に乗じ、緑はほとんど愛撫するかのごとくにその体をすり寄らせ、目鼻を迫らせてくる。

 それにしてもそれは、地獄の亡者の愛撫であった。

 顔面は百千のこまかな皺に歪み、目玉は血走り、まぶたの端からぼたぼたと、金泥のごとくに重たい涙が、次から次へ、ねちっこく溢れ出してくる。


「今こそ、言いましょう。あなた様はお忘れかもしれない。かの日、郎党の左七さしちをかたらい、あなた様の殺害を企てたのは、このわらわにございまする」

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