第三章 千人力弁天 (せんにんりきべんてん)

第19話 毘沙璃、白虹を占うこと

第四部 絆 編


第三章 せん にん りき べん てん




   一



 今は昔――


 治承四年、八月はづき初旬


 頼朝挙兵、直前……



 樹々のみどりのあいだを、清流がながれてゆく。

 岸から岸に、赤いり橋がかけられている。

 橋は、あざやかな丹の色を、水面に落としている。


 橋上を、白いうちきをまとった老巫女が、まるで仙女のような気品をたたえて、渡ってくる。

 毘沙璃びさりである。

 まだ暑さも残る季節だというのに、すこしも汗をかいていない。

 ふたりの童巫女わらわみこをつれて、そよとも足音も立てず、こちら岸に戻ってきた。


 鳥居の扁額へんがくには、「厳島千人力いつくしませんにんりき弁天社」の文字。

 毘沙璃は、空を見あげた。

 いつしか灰色の重たい雲が、空を覆っていた。


「おや、平太殿」

 弁天社の社頭で、ふたりは、ばったりと出くわした。

 景義は、やや慌てたそぶりで会釈するや、郎党たちに号令し、そそくさとその場を立ち去ろうとする。

 毘沙璃はしずかに腕を伸ばし、幼馴染の袖を、ハタとつかみ止めた。


「平太殿、今日はどのような御用むきで、こちらに?」

 景義はくら前輪まえわを掴んだまま、馬にも登られず、背中向きのままである。

「な、なに、これから大庭館へ、三郎殿のご機嫌うかがいじゃ」

「三郎殿は京からお帰りに? 存じませんでした。……それにしても……」

 と、毘沙璃は切れ長の目をほそめ、ふくみ笑いした。

「『ご機嫌うかがい』などと言って、また困らせに行くのでしょう?」

 景義はアハハと笑って、ようやく毘沙璃の方へ体を返した。

「まあ、そんなところじゃよ。あなたは?」


 毘沙璃は急に、もの思わしげな顔をした。

「今朝はやく、こちらの弁天社に白虹が立つのを神明宮から見ました。それで、ご神意を伺いに参りました」

「吉兆かな、凶兆かな」

「白虹――それは神がふりおろししつるぎ……兵革の予兆……」

 その言葉を聞いて、景義は考えこんだ。

(白虹……白は源家の旗色……ならばやはり、平家は衰え、源家が立つ……)

 吉兆と考えよう……景義は、ひとりでうなずいた。


「ささ、刻が移る。わしは行くでの」

 鞍に這いあがろうとした景義の袖を、なおも毘沙璃は掴み止めた。

「先ほどから、なにか様子が変ですね、平太殿」

「なにをおっしゃるやら……」

「そんなに急いで、なにやらわたしを避けているようではありませんか」

「そ、そのようなこと、あろうはずが……」


 誰かから耳打ちされたかのように、毘沙璃は、こくりとうなずいた。

「ああ、さてはよからぬことを企んでいるのですね」

 思わずぎくりとした景義に、毘沙璃は、いっそう顔を近づけた。

「ハハァ、わかりました。戦の計画を立てていますね」

 景義はひたいの汗をぬぐった。

 人を見抜くことに長けた、この美しい幼馴染に隠し事はできない。


 毘沙璃は釘を刺した。

「わたしがいくさを嫌うていること、知っていますね?」

 毘沙璃は、ふっとため息をつき、「お前たちもよくお聞きなさい」と、童巫女たちをそばに引き寄せた。


「わたしが左右も知らぬ若い頃、たくさんの兵たちが大庭御厨おおばみくりやを侵略し、なんの罪もない神官たちを、暴力によって恐ろしい目にあわせました。わたしは今でもあの時のことを忘れていません。

 あれ以来わたしは、諸国の戦の話に耳を傾けるようになりました。戦の犠牲になるのは善良な弱き者たち、それから女子供です。


 この千人力弁天社の造営時にも、集まった千人の女たちから、私はさまざまな話を聞くことができました。そのなかには可哀想に、戦や暴力の被害にあった女たち、縁者を亡くした者たちも、たくさんおりました。

 わたしも含め、あの時、ここに集まった千人の女たちは、戦のない平和の世を願い、力をあわせ、この社殿を造営したのです」






※ 千人力弁天社 …… 神奈川県藤沢市。今も、ちいさな社が残っています。この物語の当時……大庭景親の建立当時は、大きな社殿、大きな神域を有していたのではないかと、想像しています。


建立の経緯については、第二部・第62話『景親、新しき時代を告げること』を参照。


大庭御厨の侵略については、第二部・第13話『大庭御厨、侵略されること』を参照。

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