第18話 河村兄弟、ふところ島を去ること




 ――刻は、今にめぐる。



 朝霧が白く、ふところ島の野辺を覆い包んでいる。


 荷車の列を道端に留まらせ、折烏帽子おりえぼし直垂ひたたれ姿の立派な御家人が、弟を連れ、雑木林のなかへと入っていった。


 霧のなかに五輪塔の列が、静かにたたずんでいる。

 その前に座りこむと、河村三郎義秀は両手をあわせ、静かに経文を唱えた。


 やがて立ちあがり、探るように辺りを見まわした。

「よい香りがする……」

「本当ですね」

 芳しい香りをたよりに、兄弟は白い霧のなかをさまよった。


「兄上、これです」

 一本の小木のもとに、義秀はゆっくりと歩み寄った。

 そこには橙色の、こまかな花々が、枝にまとわりつくように、あふれるように咲いていた。

金木犀きんもくせいか……」

 ふたりが顔を近づけると、爽やかな香りは、確かにそこからするのであった。


 義秀はなにかしら立ち去りがたい思いがして、草むらに立ちつくした。

 どうしたわけか、心のなかに覆面の葛羅丸の姿が、ありありと浮んでくるのだった。


(葛羅丸――この世でもっとも美しい瞳をもつ男よ――。十年間、私はそなたになろうと努力した。そなたのように、美しい瞳を持つ者であろうと……。

 十年に及ぶ隠居いんきょは、まさしくもって苦行であった。葛羅丸になると決めた以上、私はひとりきりの時でさえ、言葉を話すことを自分に禁じた。そんな私にとって、心のなかに生きるそなただけが、私の話し相手であった。

 十年のあいだ片時も離れず、そなたは私とともにいて、私を慰めてくれるただひとりの友だった。

 私はそなたをけして忘れない。これからも、私とともにいてくれ。私とともに、生きてくれ)


 生前に親交はなかった。

 それにも関わらず、義秀は葛羅丸に対して限りない親愛の情が押し寄せてくるのを、とどめることができなかった。


 ――義秀は、ふり返った。


 いつしか霧は薄れ、甦ってきた日差しが、草むらの一隅を輝かせていた。


 かずらの葉が群生し、まるで鎧のさねのようにびっしりと野辺を埋め尽くしている。

 三枚羽根の大きな葉が、風にひるがえり、ひるがえり、白んだ葉裏を閃かせる。

 葛の季節は終ったと言わんばかりに、あざやかだった紫の花も枯れ、芳しい香気も失われ、今では緑色の豆莢まめさやに姿を変えている。

 そのさやが、照り出したばかりの朝日を受けて、黄金色にきらめいていた。


 かつて景親が河村山で、青年武将たちに語った言葉が、ふと思い出された。


『戦機はすでに過ぎ去った。平家軍が逃げたことで、わが軍の士気は下がりきっている。すでに逃亡者も多い。投降しよう。私はおそらく処刑されるだろう。二十年前に失ったはずの命……惜しくもない。

 だが、そなたら若い者たちは九死に一生を得るかもしれぬ。かつて私が清盛公に生かされたように……。そしてそこには、慮外りょがい栄華えいがさえ待っているやもしれぬのだ』


 その言葉どおり、慮外の栄誉を、義秀は手にした。


 かれは鍛えこまれたたくましい腕を伸ばし、野生の莢を掴みとった。

 すると、これまで胸の底にわだかまっていた思いの火が口をつき、和歌うたとなってこぼれ出た。


「……枯れくずの、根ば打ち捨てず、ながらへし……人が為にぞ、咲かまほしかる……」

 枯れ果ててしまった葛の、その根を捨てず、生きながらえさせてくれた……そんなやさしい人たちのためにこそ、もう一度、花を咲かせたい。


 一度はあきらめた命であった。

 けれども今、若くて熱い血が、胸の底から湧いてくる。

 たぎってくる。

 義秀は、強く拳を握りしめた。

「秀清」

「はい」

「帰ろう、河村へ」

「はいっ」


(河村へ帰ろう――散り散りになった郎党たちを呼び集めよう。妻もめとろう。たくさんの子をもうけよう。そうして、苦しんでいる人がいたら今度は自分がその人を助けよう。苦しみの季節は終った。これからようやく、私自身の人生がはじまるのだ)


 義秀は感謝の言葉をそっと呟くと、葛の原に別れを告げた。

 朝日ふりそそぐそのなかを、兄弟は故郷ふるさとにむかって、力強く歩きはじめた。

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