第12話 頼朝、嘆願を聞き届けること

「お願い申しあげます。河村三郎義秀、今となっては、死罪に処していただきたい」


 思いも寄らぬその言葉に、頼朝は動きを止めた。

 景兼は真っ青になり、諸役たちも、その場にいた全員が手を止めて、唖然として景義を見つめた。


 ……頼朝は、言葉を失うより他なかった。

(また……大庭平太の酔狂が始まったかッ)

 頼朝は悩ましげに頭を抱え、心に悲鳴をあげた。

「景義、そなたの言うておる意味が、私にはまったくわからぬ。私は先日の流鏑馬で、そなたの願いを容れ、理を曲げて、あれに恩赦を与えた。今更、なんの罪に問うというのか」


 景義は仏頂面のまま、うなずいた。

「河村三郎が囚人であった間は、この景義がなにくれと面倒を見てやっておりましたゆえ、あれは命を長らえておりました。ところが罪をお許しいただきまして後は、ひとり生きてゆこうにも食べるものもなく、食糧を得るすべもなく、今や餓死寸前の状態でございます。

 このような状況に至りましては、かえって死罪を与えてやった方が、河村にとっては喜ばしいことでございましょう。……そう思い至りまして、本日このように、お願いに参った次第にございまする」

 そう言って景義は、深々と頭をさげた。


 聞いているうちに頼朝は、その言わんとするところを次第に悟り、微笑を隠した。

「わかった、わかった。飢え死にせぬようにしてやる。義秀に下知せよ。本領ほんりょう安堵あんど相模さがみ河村郷にかえり住むべし、とな」

「ハハッ、おおせのままに」

 今度の景義の平伏は、心をこめて、長かった。


「もう、文句はあるまいな」

「文句など、わしと二品様がお会いした初めから、なにひとつあろうはずがございませぬ」

「もう、罪人は隠しておらぬだろうな」

一人いちにんたりとも」

「そうか、ならばよい」

 何事もなかったかのように、ふたりの視線は、なごやかに溶けあった。


「どれ、自慢の漬物しおおしをいただこうか」

「ハ」

「一杯、どうだ?」

「ご相伴しょうばんに預かりまする」

「では、釣殿つりどのにゆこう」

 景義は息子に脇を支えられ、座を立った。


 池のほとりの釣殿に移ると、頼朝は柱のもとにくつろいで座り、広々とした庭園の景色を見はるかした。

 寝殿の屋根と簀子縁すのこえんとがえがく、大きなふたつの直線が、池や築島つきしまが描くゆるやかな曲線とあいまって、心地よいほどに、見事な調和を造り出している。

 この庭園と御所とを造作したのは勿論、目の前にいる景義で、頼朝はそのことに心底、満足している。


 雑仕女が、景義の献上した漬物を、切り分けて運んできた。

「お毒見を」

「うむ」

 景義の毒見を見てから、頼朝は膳の上に箸を伸ばし、ひときれ口に運んだ。

「いかがでございましょう」

「ふむ。あいかわらずのよい香り、よい歯ごたえ」

「で、ありましょう」


「……しかしいささか……」

「いささか?」

「ふむ。酸味が強い」

「漬けすぎましたかな……」

「そう」

 と、頼朝はうなずいた。「それがクセになる」

 笑いあいながら、高欄にもたれ、主従は酒を汲み交わした。


「あの義秀……考えてもみれば、この十年のあいだに、そなたのもとを逃げ出し、平家に身を投じることもできただろう。なぜ、そうしなかった?」

 十年の長きを追想するように、景義は目を閉ざし、やがて言った。

「わしは義秀を信じ、義秀はわしを信じました。……それが、わしと義秀との、すべてでございます」

「そうか……うらやましいものだな……」


 頼朝は、さりげなく人ばらいを命じると、景義のほうに膝を寄せた。

「そなたが隠し育てていた罪人は、河村義秀が初めてではない。千鶴丸や、有常が初めでもない」

「?」

「私は迂闊うかつにも、今の今までそのことに気づかなかった。大物おおものの罪人がいた」

「はて、誰のことを……」

「私は、そなたの目の前にいる男のことを、話している」

「はて……」

 と言って、景義がとぼけたように左右を見まわすので、頼朝は笑ってしまった。

 景義も微笑し、ついにはふたりして、大笑した。


「どれ、聞こうではないか。治承四年、十月。あの時そなたは上総広常とともに、国府から罪人を引き連れていった。広常をどうやってはぐらかした? そのたくらみを打ち明けよ」

 歯切れわるく口ごもった景義に、頼朝はいっそう顔を近づけ、声を潜め、ささやいた。

「誰にも言わぬ。私の胸だけにとどめておく」


 ふと景義の目の前に、天狗の面をかぶった、幼き日の鬼武者丸が現れて、

(そなたの涙を、誰にも言わぬ)

 ……そう言ったように聞こえた。

 それでおきなの心は、ほろほろとくず折れずにはいられなかった。

「わかりました。なにもかも、包み隠さずお話しましょう……」


 水面みなもから反射した光が、釣殿の天井に、はりに、おびただしく映りこみ、白い波となって揺れている。

 気がつけば、ふたりの顔や体にも光は躍り込み、そこは現世をはるかに離れた、水底みなそこの宮殿のようで……虚心に、ゆっくりと、老翁は語りはじめた。

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