第10話 義秀、八つ的を射ること

八的やつまと』――これは通常の二倍の距離のあいだに、文字どおり、八本のまとを立てる。


 鶴岡の馬場は長距離が取れないため、境内の外に走路を取る。


 幕府御所の正門――南御門が出発点となる。

 横大路よこおおじを疾走しながら、一の的、二の的。

 筋替橋すじかえばしを踏みしごき、右手めてに畠山重忠邸の土塀、左手ゆんでには政所まんどころ、三の的、四の的。

 東の鳥居をくぐり抜け、境内の流鏑馬馬場へ侵入。

 馬場元から馬場末まで駆け抜けるあいだに、残り四本を射抜く。


 この長距離のかん、尋常ならざる速射力と集中力とを維持しつづける必要がある。

 義秀ほどの技量をもってしても、八つの的のすべてを射抜くのは至難の技であり、そのことはかれ自身、積み重ねてきた稽古のなかでよくわかっていた。


 景義が陣頭指揮を執り、鎌倉一族総出で、街路から見物人を遠ざけ、御所から若宮までの走路をならし、整えた。

 それぞれの的に、役人が配置された。

 的の当たりはずれは、役人が色のついた扇で伝達するので、境内の頼朝にも見物人たちにも、結果が瞬時に判る仕組みになっている。


 準備を進めながら、馬上、義秀は思った。

(十年のあいだふところ島で、自分の墓の墓守はかもりをしてきた。今、このような晴れの舞台に、得意の弓矢をもって立ち、人々の喝采を受けていられることが、心底、嬉しく、誇らしい。神仏に、平太殿に、私を支えてくれたすべての人々に、感謝の思いのあるばかりだ。

 ……私はここまでで、あらんかぎりの力を出し尽くした。これだけ出来ただけでも、ほんとうに奇跡的なことだ。あとはもうどうなるか、まるでわからぬ。すべてを天に任せるのみ――)


 これまでの三本連続の真剣勝負で、集中力も途切れかけている。

 だが、やめるわけにはいかない。

 義秀は心に、八幡大菩薩はちまんだいぼさつ八百万やおよろずの神を祈念した。

 そしてゆっくりと、八本の的の打ち立てられた大路おおじへと――ずっしりと重くそびえ立つ八双鋲はっそうびょうの幕府総門へと――駒を進めた。


 太い血管が浮き出た愛馬の首を、かろく叩き、その耳にやわらかに囁いた。

(よくここまでやってくれた。ありがとう。これで最後だ、全力でゆこう)

 馬はくすぐったそうに、耳をふるわせた。


 神職が、走路を清め終わった。

 景義の背中が、釣り輿に乗せられて遠ざかってゆく。

(平太殿……。平太殿は私を信じ、私にすべてを賭けてくれている。自分の命をかけてかくまってくれ、命がけでこの場所に立たせてくれている……)

 まさに命賭けで、自分を信じてくれる人がいる――疑いようのないこの眼前の事実に、義秀の心はふるえた。

 胸のうちに、清らかな炎が、ふたたび燃えあがった。


 今、鎌倉は怪しく静まり返っていた。

 当の射手よりも、むしろ観衆たちのほうが、きもを飛び出させんばかりに胸高鳴らせ、前に前にと身を詰め寄らせ、心ひとつに、馬上の人をッと見つめていた。


 大衆の熱い視線が張りつめ、期待と不安とが奔流となって押しよせる、その光のなかへ――いざ、義秀は駆け入った――

(ひとつッ)

 狙いの的が弾けとんだ。

 すばやく二の矢を番える。

(ふたつッ)

 ふたつめの的が割れ、愛馬のひづめが筋替橋を踏んだ、その瞬間だった――まるで昏倒したかのように、義秀の魂は異常な状態に陥った。


 かれの耳から人々の歓声が、まったくかき消えた。

 突然に、真っ白な闇が、かれとかれの愛馬を包みこんだ。

 かれの矢は正確に、的の中心を射抜いていた。

(みっつ……)

 義秀の心には、自分の馬がとてつもなくゆっくり走っているように思えた。

(よっつ……)

 こめかみや首筋の毛がしびれるように逆立ち、風の変化も、流れも、はっきりと目の前に浮かびあがった。

(いつつ……)

 その目には、迫りくる的が、壁のように大きく見えた。

(むっつ……)

 静寂――。

 樹々の緑のなかを、光が雨のように降りそそいで来る。

 体が軽い。

 背中から翼がはえ、鳥となって天駆あまかけるかのよう。

(ななつ……)

 かれはその時、愛馬がなにを考えているのか完全にわかった。

 愛馬の爪の先から、心地よい大地の感触がぞくぞくと伝わってくる。

 激しい振動が、そそりくる快感となって全身を駆け抜ける。

 心の底から、無上の楽しさがこみあげてくる。

(やっつ)


 ――光が、弾けた――


 ときが、ふたたびめぐり出した。

 駆け去ってゆく義秀の背後で、大地が裂けたかと思われるほどのときの声があがった。

 人々が手を打ち叩き、足を踏み鳴らし、喉も枯れよとばかりに大声を張りあげている。

 それらすべてが一塊となって、怒涛のごとくに義秀の背中を呑みこんだ。

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