第2話 入学前

 時に二〇四五年、春。


「なるほどな……お前の悩みはよくわかった……」 


 生徒の話を聞き終わると、国語教師、原口幸政は腕を組んで沈痛な面持ちで四角い黒縁眼鏡を押し上げた。

 午後の職員室は教師と生徒の二人だけである。


「しかしな居所いどころ……その前に、お前に確認しておきたい。今日は何日か知ってるか?」


「三月二十五日です」


 真面目な顔で教師の目を見て生徒は肯いた。


 生徒の名は居所探いどころさがすという。


 線が細い、と言えば聞こえがいいが、全体の印象が薄く背が高くも低くも無い。目立たない生徒という以外に記憶に残り難い少年である。


「で、だ。……先週何があったか覚えているか?」

「はい。卒業式です」

「うん。誰の卒業式だっけ?」

「僕たちです。その節はお世話になりました」

「うん、ちゃんと分かってるな……」


 ふう、とため息をついてから、原口は探の髪を乱暴にぐしゃぐしゃとかき回しながら叫んだ。


「何で先週卒業したばっかの奴が春休みに中学の先生に悩み相談に来てんだよ? しかも高校入学前に!」

「痛っ……そんな、卒業式の後に先生はずっとお前らの先生だって泣きながら言った言葉は嘘だったんですか?」

「嘘じゃねーよ、本気だよ!」


 原口は少し赤面する。


「でもその一週間後に早速来られると心配になるわ! 今はまだ振り向かずに新しい世界に羽ばたいて行ってくれよ!」

「そんなJ-POPの歌詞みたいなこと言って……僕の悩みは聞いてくれたでしょう?」


 探は目に涙を溜めて唇を噛む。


「実力より上のレベルの高校に合格できたのが不安って、贅沢な悩みだな、おい!」

「ぜ、ぜいたくって先生、ヒドイ!」


 居所探は両手の拳を握り締めた。


「先生は贅沢って言いますけどね! これまでの成績を考えれば僕が誠道学園なんて名門校に入学できるわけないじゃないですか! ダメで元々、ちょうど受験日程も合うし、試験の雰囲気も味わえるかなーくらいで受験したのに合格って! その上、特待生で授業料全額免除って! 絶対おかしいですよ! 部活で結果残したわけでも中学三年間の成績だって中の上程度の僕が何故! 絶対すぐに化けの皮が剥がれますって! そして高校の先生も同級生たちにも『あーあ、あんな奴が特待生なんて何かの間違いだったんだな』って陰に日向に言われるに決まってるんです! そして一生消えない傷を背負うことに……ひょっとしたら退学、最悪、授業料返金なんてことも……」


「うるせえ! お前の負の妄想を撒き散らすんじゃねえ!」


 教師と生徒二人とも、消耗したようにぜえぜえと荒い息を吐いた。


「お前ね、他の生徒には言うなよ! 志望校に落ちたやつだっているんだからな!」

「それがわかってるから先生のところに来たんじゃないですか! こんなこと同級生には言えませんよ!」

「分からなくはねえけどさ……とにかく、それは高校に入学してからの悩みだ! 馴染めないとか勉強についていけないとか、そういうことがあってから来いっつーの! 何も起こっていない時から不安になってんじゃねーよ! まずぶつかって、それから来い! な? わかったか?」

「はい……先生」


 急にしおらしくなる居所探を見て、原口は思わず頬が緩んだ。

 この年頃の子は普段は生意気な癖に、突然子供に戻るような時がある……。


「な、お前が勉強を頑張ったからいい結果がついてきた。それでよかったじゃないか。名門校に入って薔薇色の未来を手に入れてくれよ。もし将来何になりたいか迷ったら文科省の官僚にでもなって、無駄な書類作りばかりさせて愛する生徒との時間を削る今の教育行政を変えてくれよ……お前の後輩たちと書類作りの大嫌いな俺の為にさ」


 何ですか、それ……と言いながらも居所探は最後に苦笑いして職員室を出て行った。


「いやー、いつもながらお見事ですね、原口先生」


 居所探が職員室の扉の向こうへ消えた後、書類棚の脇からひょっこりと初老の女性が現れた。


「いらっしゃったんですか、教頭先生……」


「そんなに気まずそうにしなくてもいいじゃありませんか……まあ文科省への不満を生徒に植え付けるのはどうかと思いますが……」

「スイマセン、スイマセン」


 原口は大袈裟に頭を下げた。


「それにしても面白い子ですね。誠道学園なんて名門校に合格したなら、もっと自信をもてばいいのに……」

「あいつの原動力は不安と恐怖ですからね。勉強は結構熱心な方ですが、それも将来への不安とか、行く高校が無かったら今の家族に申し訳ないとか、そういう動機ですから……」


「ご家族は何か事情があるんですか?」


「いえ、ご両親も良い方でかわいい妹が一人、絵に描いたような幸せな家庭ですよ。一体、なんであんな心配性になるのか……」


「生まれつきってことですかねえ」


「高校に行って、新しい環境で何か自信が持てるようなことがあるといいんですがね。そうそう今日あいつはこれから来月から通う高校の通学ルートの下見に行くそうです」


「今なんて一番羽根を伸ばせる時期でしょうに、真面目ですねえ」


「それも不安に駆られがちな性格のためでしょうね。その欠点も用意や段取りの上手さにつながれば、大人になってからいい働き手になると思うんですが……」


「……今度来る時は何かいい報告をしてもらえるといいですね、先生」


 ええ、と原口はうなずいた。

 先ほどまでの騒々しさが嘘のように、春休みの職員室は静まりかえっている。

 窓の外には満開の桜が見えた。




 居所探は母校を出ると、国道沿いの歩道を自転車で走っていた。


 スピードを出さず、頻繁に後ろを振り返りながら注意深く運転している。


(来月から高校入学予定の新入生が交通事故、なんてよくニュースで見るもんな……誠道学園に合格したばかりの僕なんて、ちょうど事故に遭い易い巡り合わせな気がする)


 この不安に駆られがち性格も、まだマシになった方なのである。


 小学校の頃など「今日、自分は誘拐されそうな気がする」などと本気で思い込み、近所に住むクラスメイトのクラブ活動が終わるまで図書館で待っていたこともあったくらいだ。


(なんでこうなんだろうな、僕は)


 探は強くペダルを踏み込んだ。

 国道沿いの広い道である。

 歩行者を追い越し、買い物帰りの子連れの主婦を追い越して、ギアを最大にする。

 スピードが上がる。鼻と耳の先が風を切る。


(好きでこんな性格でいるわけじゃない……)


 もう夕方に近い。春の陽気は暖かく、探はじっとりと汗をかいてシャツが濡れているのを感じる。

 国道から少し狭い道に折れて数分走ると、白い校舎が見えた。


 私立誠道学園高校。都内でも有数の進学校である。


(本当に僕が再来週からここに通うんだな……)


 校門に近付く。

 三階建ての校舎は、当然のことながら先々週まで探が通っていた中学校よりも大きい。

 校庭に並ぶ桜が、王に傅く侍女たちのようで、何だか名門高校としての威厳のようなものさえ感じる。


 春休み中だから人は多くないが、部活の練習が終わったらしい生徒が見える。

 ケースに入ったラケットを持っているのはテニス部、校章入りのバッグを肩から下げているのはサッカー部かラグビー部だろう。

 よく日に焼けた彼らの肌や引き締まった体、何やら冗談を交わしながら騒いでる姿を見ていると、探はこれ以上近づいてはいけないような、自分が場違いな存在であるような気がした。


(本当にこんな名門校に馴染めるのかな、僕は……そろそろ帰ろうかな)


 探が自転車を逆方向に転換すると、


「あなた、この学校の生徒?」


 と急に声をかけられた。


 背の低い、ボブカットの少女だった。

 ごく落ち着いた色のワンピースに卵色のカーディガンを羽織った姿は上品とも野暮ったいとも言える。真面目な中学生が休日に精一杯のお洒落をした、といった風にも見える。

 だが、服装以上に整った顔立ちに目を奪われた。それ以上に印象的だったのは、大きく鋭く、人を従わせる力があるような猛禽類を思わせる目だった。


「……どうしたの?」

「あ、いや、僕は来月から入学することになっていて……」

「あら、じゃあ私の同級生になるのね」


 よろしく、と笑顔を見せるが、探と同じ歳とは思えない。人形が笑っているような笑みだった。


「私は宮坂永子。あなたは?」

「僕は……居所探」

「イドコロ、サガスくん? 漢字は?」


 初対面で名前の漢字まで聞かれて、探は少し面食らったが、


「……そのまま、だけど……。居住の居に、場所の所に、何かを探す、で……」


 この変わった名前も両親の死の影響の一つだった。

 探、という名前はまだいい。変わってはいるが、両親なりに何かの祈りを込めてつけたのだろうと思う。

 さらに元々の名字は内田といった。内田探ならまだよかったのだ。

 だが引き取ってくれた叔父夫婦の名字が居所だったものだから、彼らの養子になると妙なことになってしまった。

 おかげで、誰の居所を探すんだい、などとからかわれることはしょっちゅうだった。

 しかしこの初対面の少女の反応は予想外だった。


「素敵な……ロマンチックな名前ね」

「え、そう?」

「ええ。人間は自分の居場所を探し続ける生き物だって、私の知り合いが言っていたことがあるわ……とてもいい名前よ」

「あ、ありがとう……」


 探は初めて、内田探でなくて良かったと思った。


「永子……そろそろ」

 後ろの黒塗りの車の窓が開き、運転席から黒いサングラスをしたスーツ姿の男が彼女に声をかけた。


「今行くわよ、堀越……じゃあね、居所君。来月からよろしく」


 ご機嫌よう、とでも言うような優美な動作で、少女は後部座席に乗り込んで行ってしまった。

 自転車で走り出してからも、探は出会ったばかりの同級生、宮坂永子のことを考えていた。


(どこかの大金持ちのお嬢様とか?)


 もちろん漫画でしか見たことが無いが、浮世離れした雰囲気といい、高級車と専属運転手といい、それなら納得がいく。


(でも、あのサングラスの運転手は永子って呼び捨てだったよな……なんだろう、お兄さんとか、許嫁とか……? でも、あの子の方も堀越って名字で呼んでたし……)


 高校というのは色々な人がいるものだ、と少し世間が広がった気がする探だった。

 まだ少し冷たい空気の中で温もりのある日差しを浴びていると何だか身体の中からわくわくしてくるような気持ちになってくる。


 ……入学式前の春休み、同級生になる予定の少女との偶然の出会い。

 この出来事は、それだけになるはずだった。

 だが、探の人生と、そして世界にとっての転機は数分後にやってきた。


 その原因を作ったのは交通渋滞である。


 そのせいで通常より車の進みが遅く、探の自転車が永子を乗せた車に追いついてしまいそうになった。

 信号待ちの車の後部座席に先ほど見たばかり後部座席にボブカットの黒髪が見えると探は、


(追い越す時、どうしようか……?)


 と一瞬悩んだ。

 手を振るのも馴れ馴れしい気がするし、会釈するのも気が引ける。かといって無視するのもいかがなものか。


 だが、そんな探の悩みは二秒も続かなかった。


 宮坂永子を乗せた車が突然爆発したのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

不安なのかい? そりゃいいや! 梧桐 光 @gotou_kou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ