小さな終わり
遁走が起こってし待ってから翌日。
明日というものは
こちらが望んでいなくても
すいすいと近寄ってきた。
はっとすれば全ての出来事は
昨日のものになっていて、
私は普通の生活に戻ってきていた。
大事をとって休んもうと思ったが、
何となく学校に出向かなきゃ
ならない気がして足を運んだ。
昨日のあの後、
目が覚めると警察に保護されたのか
移動する車の中で目が覚めた。
お母さんが泣きそうな顔で
私を抱きしめてきたのを
ぼんやりとだけど覚えている。
それから。
°°°°°
…雨に濡れて意識は
ぼろぼろのままでも確信があった。
足はもう傷まないこと。
電話ボックスに入れなかったかな、
もう私の声は失われたこと。
そして、どこかの世界の、
過去の世界の私は
雨鯨のみんなには会わないだろうこと。
全部全部、私が選んだ。
私が、選んでしまった。
°°°°°
この直感は正しかったようで、
声は誰に奪われたのか
戻ってくることはなかった。
今でもすうすうと息が漏れるだけ。
陽奈「…。」
午前中は親も同伴して
事情を説明したり、
学校にきていた心理カウンセラーと
対面していたりと色々疲れた。
今度はもしかしたら
声が出ないことが原因で
別の教室に移る可能性も出てきた。
ただ、まだ心因性と思われているようで
私も説明のしようがなくて
流されるままに従った。
午後から数時間だけ
自分の席に座って授業を受ける。
今になって、どれほど使う頻度が
少なかろうと、声のある生活は
かけがえのないものだったことを悟る。
けど、悲観的になっていたのは
そこじゃなかった。
ずっと今後のことを考えていた。
…あるいは、過去のこと…だろうか。
私が電話をしなかったことで
きっと過去の私は
音楽科のある高校に
そもそも進まなくなると思う。
…歌だって歌っていない。
雨鯨には、出会わない。
ふと思う。
もしレクリエーションで
不可解な出来事が起こらなかった世界の
私がこちらにきても、
茉莉ちゃんと同じように
記憶がなくなっていたんじゃないかって。
…過去の私はどうなるのだろう。
それはまた別の世界線になるのかな。
…そうなればそれはまた
別の物語となるだろう。
この世界はこの世界として、
分岐した先として続いていく。
私がここに存在し続けているのだから
そういうことなのだと思う。
陽奈「…。」
外を眺める。
だんだんと曇り空が
こちらに向かって迫ってきていた。
授業はあっという間に終わり、
当たり前のように誰も
私に話しかけることはないまま
放課後の時間になった。
昨日私が休んだ理由を知っているのは
家族といろは、警察、
学校の一部の先生しか知らない。
この話は他の雨鯨のメンバーにも
美月ちゃんにもしなかった。
クラス全体には私は今
あまり話すことができないみたいな
伝達はあったけれど、
みんな興味がなさそうで
不安にもなったし安心もした。
理由を聞かれたら声が出なくなったとは
伝えるつもりでいるけれど、
それ以上のことを伝える気はない。
だって、話したところで
おかしい人と思われるのがオチだし、
多分…声を亡くしてどこか
安心している節もあるからだと思う。
でもそれ以上に、
たとえ心因性だと思われているにしても、
私は自分の選択を少しだけでもいいから
信じてみたくなった。
…。
…そうしなきゃ、
この不思議な出来事を
消化できそうになかった。
陽奈「…。」
紙を1枚手にしたまま
無言で教室を出ては廊下を歩く。
目的地は職員室だけれど、
その前に前に最後にと思い、
放課後の音楽室へ向かった。
ひらひらと泳ぐ紙は
これからの私のように見えて、
困ったように笑うことしかできなかった。
将来、どうなるんだろう。
…普通に働くことはおろか、
生活すら困難になっちゃった。
…。
…私の人生、こんなもんか。
少しだけ目を閉じて数歩進む。
それでも、誰ともぶつからなかった。
…。
…目が不自由でも、
耳が聞こえなくても
声が出なくても…生きてはいける。
そこで何を見出すかは
私次第でしかない。
ふと顔を上げると音楽室に
たどり着いていたことに気づく。
からからと音を鳴らして扉を開くと、
そこにはいつも来るのが早い
北村さんが荷物の整理をしていた。
声をかけることもできないから
入り口でおろおろしていると、
彼女がたまたま振り返っては
私のことをじっと見つめた。
びっくりして肩をすくめてしまう。
けれど、顔を俯かせながらも
彼女の方へと歩み寄った。
今ならわかる。
北村さんがどれほど
言葉を選びながら
私に伝えようとしてくれたか。
あの時だって。
°°°°°
陽奈「…。」
北村「…どうしてこなかったの。」
陽奈「……。」
北村「…そんな顔してないでさ。」
陽奈「…。」
北村「…今度、2人で遊びに行かない?さっきの2人、明らかに私たちとタイプ違ったし。」
陽奈「……で、す…。」
北村「…?」
陽奈「でき…な、い…です…。」
北村「…。」
陽奈「………もう…迷惑……かけたく、なくって。」
北村「……わかった。」
陽奈「…。」
北村「ごめんね、話しかけちゃって。」
陽奈「…。」
°°°°°
北村さんは歩み寄ろうとしてくれた。
なのに私が遠ざけた。
それを根に持っていたのかも
しれないけれど、
でも、先日の言い方は
恨みのこもっているような
言い方ではなかった。
悪意なんてなかった。
「心の病気なんて楽だよね」なんて
ひと言も言わなかった。
°°°°°
北村「風邪なんでしょう?なら見学に来るよりも早く家に帰ったらどうなの?」
陽奈「…。」
北村「他の部員にうつるのも嫌だしさ。」
陽奈「…。」
北村「今すぐにコンクールがあるわけじゃないから、まあ多少はいいよ。県大会も8月だしね。」
陽奈「…。」
北村「でもさ、さっさと治してくる方が良くない?」
陽奈「…。」
北村「全体の合唱を聞いて批評をするんだったらうちらも嬉しいし勉強になるからいいんだけどさ、奴村さん、本当に見にきてるだけじゃん。」
陽奈「…。」
北村「新入生でもないんだし、ただ遊びに来てるわけじゃないんだから。」
陽奈「…。」
北村「無視すればいいのにしない私にも責任はあるけど、ちょっと困るんだよね。サボってるように見えて全体の士気が下がるのもあるし。」
陽奈「…。」
北村「まあ事情はあるだろうけどーー」
---
北村「…何とか言ってよ。」
陽奈「…。」
北村「ねえ。」
°°°°°
誰よりも周りのことを
見て気にかけていたんだ。
それに気づくのがもっと早ければ
私はこの部活でも居づらくなくて、
案外楽しく活動できてたのかな。
北村「…。」
陽奈「…。」
北村「…この前はごめん。」
陽奈「…。」
私は小さく頭を振る。
それから、鞄の中からノートとペンを出し
震えた文字を綴っては見せた。
陽奈『こちらこそごめんなさい。』
北村「…その、結構酷いんだね、風邪。」
陽奈「…。」
北村さんも気になるのだろう。
もしかしたら私のクラスの人から
声を出なくなったことを
耳にしているのかもしれない。
クラスの人には理由は
伝えていないけれど、
大体はお察しと言ったところだろう。
北村さんも半ば確信がある中で
そう聞いてきたのだと思う。
私は返事をする代わりに、
手に持っていた紙を広げてみせた。
そこには退部届の文字が刻まれていた。
北村「…やめちゃうの?」
陽奈「…。」
こくりと頷いて、
小さく笑ってみた。
多分、酷い顔をしていただろう。
下手な笑顔だったんだろう。
北村さんは苦そうな顔をした。
北村「うちのせい…?」
陽奈「…。」
ぶんぶん。
顔を大きく振る。
声を出せなくなった理由は
私の選択だからとしか言いようがない。
必死に否定することしかできなかった。
その態度で流石にわかってくれたのか、
北村さんは悲しそうな笑みを浮かべて
口を開いてくれた。
北村「…もし、また歌いたくなったらおいでよ。いつでもいいから。」
陽奈「…。」
もう来ることはないだろうけど、
その好意は嬉しかった。
ひとつ頷きを落とす。
ひとつ、蟠りが解けたような気がした。
あの時、遊びに行こうって
誘ってくれたのに拒否してごめんね。
でも、北村さんのことが
嫌いになったわけじゃないの。
嫌だったわけじゃないの。
ただ、私が迷惑をかけたくなかっただけ。
ほんとにそれだけなの。
その全てを文字にするには時間がなくて
そっと手を差し出した。
彼女はきょとんとしていたけれど、
その意図を受け取ったらしく、
私の手を握ってくれた。
北村「…また明日。」
陽奈「…。」
頷いてみた。
たまたますれ違ったりすれば会えるけど。
そうじゃなかったら難しいのに、
何故か今はこの言葉を信じても
いい気がしていた。
音楽室を出る時、
彼女はその場に立ったまま
こちらをじっと眺めるだけだった。
手を振ることもなく、
眉を顰めてこちらを見るだけ。
扉の前で、一礼をする。
1年間ありがとうの気持ちを込めて、
深々と頭を下げた。
それからからからと扉を開く。
音楽室の外の空気は、
雨が降り始めたのだろうか、
湿気っていてあの森や海を連想させた。
陽奈「…っ。」
これで全部終わったんだ。
歯を食いしばっては
職員室へと直行した。
顧問の先生に退部届を提出しては
急いで家に帰った。
理由はない。
ただ、もやもやして走っていたら
いつの間にか家についていた。
家について自分の部屋に籠る。
お母さんが不安げに
私の方を見ていた気がするけれど、
それすら見なかったことにして
ベッドの上に寝転がる。
あの時、電話ボックスを前にした時、
いろはが、美月ちゃんが、
茉莉ちゃんがいれば
電話ボックスの中に
入っていたかもしれない。
1人では入る勇気はなかった。
何となく確信している。
私の声はもう戻ることはないって。
もう一生声は出せないんだって。
それでも、生きていかなきゃいけないって。
突如暗く黒く輪郭のない物体に
押しつぶされるような気がして、
咄嗟にスマホを手に取った。
歌を聞く気になれなくて、
いろはが送ってくれた
インストやピアノとオーケストラの
BGMを聞いてみる。
…それこそ、声は出せなくても
作曲はできるかも、なんて思ったり。
でも、曲を作る心持ちは
空っぽといっても
差し支えないほどになかった。
こんな状態になってもまだ
音楽に携わろうとするなんて、
この先辛くて仕方ないことを知っていて
やろうというつもりにはなれなかった。
…。
決めたことがある。
私は音楽活動からは身を引く。
聞くことはあっても
2度と発信する側には回らない。
これからは遠くの世界だと
眺めることにする。
…その方が、いいから。
楽だから。
陽奈「…。」
もう痛い思いはしたくないから。
ベッドに寝転がるも眠れないまま
大の字になっていると、
突如ノックされては
有無を伝える前に扉が開いた。
慌てて上半身を起こしてみると、
そこには、制服姿のままの
いろはが立っていた。
いろは「お姉ちゃん、大丈夫?」
陽奈「…。」
頷いてみる。
命は大丈夫だったから。
いろは「…そう……。声は…?」
首を振る。
すると、一層悲壮感漂う表情をした。
近くにあったスマホを手に取り
メモ機能を立ち上げる。
もたつきながら文字を打ち、
その画面をそっとみせた。
陽奈『きっともう声を出せない。』
いろは「…どうして?」
いろはは私の寝転がっていた
ベッドにすがるように膝をついて
こちらを見てきた。
いつもは穏やかなだけの彼女の声が
今だけは鉛のように重く
冷ややかなように感じた。
静かに怒っているのだろうと
不意に感じることができてしまった。
…。
誰にも信じてもらえないだろうけど、
いろはにならいいかな。
小さい頃からずっと付き合ってきた
従姉妹よりも家族に近い存在だった。
だから。
…。
声に出さなくていいからかな。
その分の勇気は出さなくていいからかな。
なんだか、ほろ、と笑みが溢れた。
自分でもどんな感情なのか
てんで想像がつかなくて
もはや笑えてきてしまう。
そんな私を見てまた
いろはは眉を下げたけれど。
誰にも言わないでねって
前置きした上で続けた。
陽奈『不思議な経験をしたの。山奥に電話ボックスがあって、でも入らなかった。』
怪訝そうな顔をしたいろはは、
少しだけ間を空けて俯いた。
いろは「そっか…。」
それが全てを悟り
諦めたような振り絞り方で、
私の方が苦しくなった。
いろはは感受性が豊かなのだろうな
なんてぼんやり考える。
少し間を空けて、いろはは
はっとしたように顔を上げた。
唐突なことだったもので、
私もびっくりして肩を震わせる。
いろは「こえは出せないんだよね?じゃあ口笛は?」
唯一の希望を見つけたと
言わんばかりの顔でこちらを眺める。
試したくなかったけれど、
そうせざるを得ない気がした。
唇を尖らせて、
軽く息を吹きかける。
……ぴぃ。
辛うじて鳴ったけれど、
小さいどの動物よりも
か弱そうな息の音色だった。
私にはぴったりで、
少し笑えてしまうほど。
けれど、いろはは真剣な顔つきで
私の目を見て言ったんだ。
いろは「…まだ歌えるね。」
いろはの真っ直ぐさには
心底羨ましくて仕方がなかった。
どれほど挫折しても
そこからまた這い上がってくる。
私より歳は下なのに
私にはできないことばかり成し遂げる。
言われなくてもわかってるよ。
私、歌うの好きだった。
でもね、私、歌えなくなったんだよ。
歌えなくなったの。
スマホを操作しては、
一文字一文字丁寧に打ち込んでいく。
この言葉は今の私たちを
壊すことだってわかっていながらも。
…。
泣きそうになりながら、
打ち込んでいった。
°°°°°
いろは「まあ、元気なら秋ちゃんに分けてもらった方がいいと思うけどー。」
陽奈「…。」
いろは「そう言えば最近通話できてないなぁ。」
陽奈「…そう、だね。」
いろは「私は受験生だし、お姉ちゃんと茉莉ちゃんのアカウントはおかしくなってるし…。」
陽奈「…。」
いろは「…このまま雨鯨がなくなっちゃいそうで怖いな。」
°°°°°
陽奈「……。」
私も嫌だ。
嫌だった。
茉莉ちゃんの記憶も然り、
雨鯨での思い出然り。
全て全てなくなっていくようで怖い。
怖かった。
でも、私に縛られてほしくない。
みんな、好きな道を歩いてほしい。
私はそれを見届けたい。
いつか歌えるかもしれない
私に構っているより、
別の人を探した方がいい。
陽奈『雨鯨を抜ける。』
いろは「…。」
陽奈「…。」
いろは「本当にそれでいいの?」
陽奈『うん。』
いろは「…それならね、脱退は違うよ。」
陽奈「…?」
いろは「雨鯨はね、今の4人で雨鯨なの。」
いろはは嘘も言っていないし
ましてや茶化す雰囲気もない。
雨鯨は、今の4人だからこそ
成り立っている。
今の4人でなければ、
それはもうー。
いろは「………っ。」
陽奈「…。」
いろは「……脱退…じゃ、ないよ…。」
陽奈『わかった。』
いろは「…。」
陽奈『辛いことのはずなのに、伝えてくれてありがとう。』
いろは「…っ。」
いろははぎゅっと自分の服を握った。
悔しいのだろう。
嗚咽を吐きながら俯いては
ぼろぼろと涙が流れているのが見えた。
…いろはも雨鯨のことが
大好きだったんだな。
そのチームに入れただけで、
私は十二分に幸せだ。
陽奈『18月の雨鯨は、今日で解散にしよう。』
まだ梅雨は明けることなく、
雨なんていつだって降ってくる。
その度に雨鯨のことを思い出すのだろう。
その度に、私たちは雨が
欠けていることを思い出すんだろう。
18月の軌跡 終
18月の軌跡 PROJECT:DATE 公式 @PROJECTDATE2021
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