宝物
起きると、何故か朝になっている。
眠れない日も何日も
経験したことがあるけれど、
本当に疲れていると自然と
意識は闇の中に溶けていく。
まるで意識をシャットダウン
されたかのように暗くなる。
気がついたら、明日。
今日だってそうだっだ。
陽奈「…。」
喋れなくなって数日。
最早息を吸って吐くだけの口に
成り果てていた。
今更自ら何かしら
喋ろうとすら思えない。
話そうとしたって息が漏れるだけ。
すう、と風のような
音が鳴るだけなのだから。
先日北村さんにあれこれ
言われて以降部活には
顔を出していない。
いたって邪魔になるのも、
批評をしていないのも事実。
翌日顧問の先生に連絡して
また暫く部活を休むように伝えた。
もう戻ることはないかもしれないなんて
ふと脳裏をよぎっていた。
その予想が現実にならないことを
祈ることしかできないまま
私はただ吸って吐いてを繰り返す。
キッチンに降りてお母さんと顔を合わせても
無言で食卓に座って
準備されたご飯をちびちび
食べ進めることしかできない。
お母さん「陽奈。何かしんどいことがあったら言ってね。」
陽奈「…。」
こくりと頷いてみせる。
お母さんはまだ不安そうな顔をしながらも
開店準備のために店の表へと
姿をくらました。
陽奈「…。」
お母さんには、声が出ずらいことは
早々に伝えていた。
しかし、今完全に声が
出なくなってしまったことは
伝えられていないまま。
本当に心因性で声が
出なくなっているのだろうか。
…きっとそうだろう。
疑う余地もないか。
陽奈「…。」
お母さんを悲しませないために
学校に行かなきゃ。
部活はもしかしたら辞めるかもしれないけど
学校からは逃げちゃ駄目な気がする。
もし学校に行くのすら辞めてしまったら
もう2度と私は立ち直れなくなる。
立つことを諦めてしまう。
私が私に対して
存在意義を見いだせなくなる。
…なら今は?
今だって私がいても
いなくても同じ…
いっそのこと私がいない方が
世の中や私の周囲の人たちの生活は
滑らかに進むはず。
そうに違いない。
だって私は…。
食後、お皿を洗っている間
止まらない思考がずいずいと
脳の中を泳いでいた。
しゃがみ込みたくなるのを抑えて
洗面台にぼうっと立つ。
ぼさぼさの癖っ毛を数回といて
結ぶこともせずそのまま
いつもの鞄を肩にかける。
スマホをそっとスカートの
ポケットに入れて見た。
少しくらい今日を変えたかった
私のささやかな抵抗だ。
陽奈「…。」
外は薄暗くて、
今にも雨の降り出しそうな天気だった。
お店に出ているお母さんが
お花の手入れをしながら
こちらに手を振っては
「いってらっしゃい」と言う。
私は返事代わりに小さく手を振った。
お母さんの表情を見ることもないまま
俯いて足早にそこから去る。
下ばかり向いていると、
コンクリートにもいろいろな
色があるんだなとふと気づく。
雨が降った後なのかもしれない。
むしっとした湿度の高い匂いが
街一体を、日本全体を
包み込んでいるような気がした。
何となく大きな傘を
持ってきたけれど、
もしかしたら折りたたみ傘程度で
よかったのかもしれない。
そうなったら邪魔だな。
いっそどこかに捨ててしまおうか。
…。
捨てられる傘は、どんな気持ちだろう。
物にまで感情移入する必要は
ほぼないとはわかっているものの、
邪魔だと思われる環境が一緒だと
妙に同情してしまう。
いらないんだって。
いてもいなくてもいいんだって。
むしろ、いたら邪魔だって。
声は出ないし歌は歌えない。
コミュニケーションは取りづらくなるし
より迷惑をかけてしまう。
…元から殆ど話すことなんて
なかったのだけれど。
じゃあ元とあまり変わらず
邪魔でしかなくって。
…そうだよ。
私、病気だし。
…。
でも、その病気は絶対
他の人にはわかってもらえなくて。
もうどうしたらいいのかわからない。
ふと、足が止まる。
…あれ、私。
今、どこを歩いているんだっけ。
どこに向かっていたんだっけ。
延々と耳鳴りがしている。
きいんきいんと脳の奥で
反芻してより大きな
金属音になっていく。
はたと音が止まる時はあるけれど、
数秒もすれば逆戻り。
相変わらず声は出ないし
足だってずきずきする。
病院に行った方がいいのだろうけれど、
そもそも動く気がどうしても起きない。
私っていつもこう。
やる気になる日もある。
けれど、臆病で何もできなくって
それに自己嫌悪を繰り返す。
自信ばかり削られていっては
それを修復するような機会もなく。
機会があったとしても
私はそれを蔑ろにしていた。
私は駄目な子、できない子。
ずっとそうだった。
小学生の時はそうでもなかったのに
中学の時には既に。
°°°°°
「奴村さーん。」
陽奈「…は、はいっ…?」
「ねーねーあそぼー。」
陽奈「あ、えっと…。」
「あはは、急で困るよね。」
「うちら2人と、後1人くんの。このクラスで殆ど話したことない人誘って遊ぼうって話になってさ。」
「小学校合併してさ、知らない人たくさんだし、せっかくなら仲良くなりたくて。」
「どうどう?」
陽奈「えと、もう1人って…。」
「北村っていうの。ほら、奴村さんと一緒で眼鏡でさ、めっちゃおとなしそうな感じの子。」
「雰囲気似てるし話し合うかと思って誘ったのー。1人よりかは気まずくないっしょ?」
「んでどう?明後日の土曜とか。」
陽奈「うん、いいよ…!」
「じゃあ、今週末ね。」
陽奈「うん。」
「またねー。」
陽奈「ばいばい。」
---
それが過ちだって気づかなかった。
その時は確かお母さんと
お父さんがものすごく
喧嘩をしていたんだっけ。
いろはもくよくよする私に
愛想尽かして喧嘩をしていた気がする。
私は1人だって強く思う中
新しい人としかいない時間が
今後待ち受けていると思うと、
不安で不安で仕方がなかった。
ここで失敗できないだとか、
もしタイプが合わなくて
一緒にいるのが辛くなったどうしよう、
変な子って思われたらどうしようとか。
今思えばあれは
うつや強迫性障害と言っても
差し支えなかったのかもしれない。
けど、その時の私はまだ
自分が病気だなんて
考えもしていなかった。
この不安もとてつもなく強いストレスも
きっと明日になれば無くなっていると
過信し続けていた。
でもね、そのあたりのこと。
ふと頭の中に友達ができた。
その子は私の話を親身に聞いてくれるの。
不安もストレスもない。
むしろ癒しをくれるその子といるのが
とても安心できた。
その子と居ることができれば
私は大丈夫だなんて
根拠のない自信すら生まれた。
そして週末の土曜日は
何なくやってくるはずだった。
---
陽奈「……。」
「…。」
陽奈「…。」
「…。」
陽奈「…あれ。」
「…。」
陽奈「…ここ…。」
「…。」
陽奈「…ここ、どこ…っ!」
「…。」
陽奈「そんな…そんな、迷子…?」
「…。」
陽奈「…私、何してたんだっけ…。」
「…。」
陽奈「…ここ、山…?森…?」
「…。」
陽奈「……っ…。」
「…。」
陽奈「だ、れか。」
「…。」
陽奈「誰か……。」
「…。」
陽奈「……誰か、居ませんか…!」
「…。」
陽奈「………ねぇっ…だれ、か…!」
「…。」
陽奈「…誰か……っ!……いま、せんか…。」
「…。」
陽奈「返事……してくださいぃ…。」
「…。」
陽奈「お願い…。」
「…。」
陽奈「…。」
「…。」
陽奈「……何で…こんな…。」
「…。」
陽奈「……全然思い出せない…。」
「…。」
陽奈「どうしてこんなところに来てるの…。」
「…。」
陽奈「置いて行ったの…?」
「…。」
陽奈「…。」
「…。」
陽奈「…ねぇ………誰か、ぁ…。」
「…。」
陽奈「…助けて…。」
「…。」
陽奈「…助け、て…よ…。」
「どうしたの。」
陽奈「………っ…。」
「どうしたの、泣いてるの。」
陽奈「……煩い…。」
「どうして。」
陽奈「煩いよ、何で…。」
「悲しいんでしょ。」
陽奈「…私…おかしくなりたくない…。」
「それ、私が背負えば楽になるよ。」
陽奈「…変だよ…変だよ…ぉ…。」
「変じゃないよ。頑張り屋さんなだけ。」
陽奈「でも…あなたはどこにもいないじゃん…頭の中から出てこないでよ……っ。」
「大丈夫だよ。大丈夫。」
陽奈「……。」
「少しお話ししていようよ。」
陽奈「…嫌だ……。」
「私は話したい。長い間退屈するのは嫌だもの。」
陽奈「…私……だって…」
「話、付き合って。」
陽奈「……駄目…だ、よ…。」
「大切な話があるの。それだけでも聞いて。」
陽奈「…。」
「このままじゃ抱えきれなくなるよ。」
陽奈「…っ。」
「吐き出す場所は持っておいたほうがいい。」
陽奈「……でも…お母さんやお父さんや…いろはだって…いる、よ…。」
「それができなかったからここに居るんでしょう。」
陽奈「…。」
「心配しないで。私はあなたから離れないよ。」
陽奈「………本当…?」
「本当。勝手に消えないし離れない。」
陽奈「…。」
「ずっとあなたの味方だよ。」
---
それから私たちはずっと話し続けた。
初めは不貞腐れた顔をしていた私も
時間が経つにつれ
次第に笑顔が増えていった。
それはあの子の…頭の中の友達のおかげ。
どのくらいだろう、
段々と辺りが暗くなってきて
不安がより濃く募り出した時のこと。
遠くから光がちらついた。
なんだろうと思ったけれど、
友達との話が楽しくて
そっちにばかり集中した。
楽しかったんだ。
久しぶりに、とってもね。
でも、駆け寄って私を見た警察の人は
顔が引き攣っていた。
数秒だけだけれど、
立ち止まってこちらを
見ているのがわかった。
それでも私は笑ってた。
警察でも木でもない、
何もない空間を見つめながらただ笑った。
名前を確認されたけれど、
友達と話していた私は
そもそも誰だったのかすら
思い出せなかった。
記憶を一瞬だけ消し去ってしまったらしい。
確かに、こんなに笑う私は
私じゃないなとは思った。
じゃあ、今ここにいる私は一体?
警察について私を迎えに来た
お母さんの顔が、ちらと見えた。
…その顔は、化け物を見るような
恐怖で埋め尽くされたような目を
していたのを思い出した。
…おかしいのは、私らしい。
喧嘩している親達でも、
よくわからないことで腹を立てる
いろはでもない。
おかしいのは、私だ。
その時漸く思った。
---
「奴村さん、ちょっといい?」
陽奈「…ぇ…あ、あの」
「言い訳はいいよ。」
「来たくないんだったら最初から言えばよかったのに。」
「うちらのこと嫌いだったんでしょ、それで惨めな思いさせようと思ってやったんだよ。」
陽奈「違っ…」
「いいよ。喋りたくない。」
「うちらずっと待ってたんだけど。いろいろ行きたいねって話してたのに、全部めちゃくちゃ。」
陽奈「その……いつの間にか、知らない場所に…いて…。」
「嘘つくならもっとマシなのにしてよ。」
陽奈「本当…なの……その…心の病気……らしくて…。」
「心の病気って楽だよね。辛そうに振る舞っておけばいいんだもん。」
「事故に遭ってからそういうこと言いなよ。」
陽奈「…。」
「それじゃ。もううちら関わんないから。」
陽奈「…。」
…。
…。
陽奈「…。」
北村「…どうしてこなかったの。」
陽奈「……。」
北村「…そんな顔してないでさ。」
陽奈「…。」
北村「…今度、2人で遊びに行かない?さっきの2人、明らかに私たちとタイプ違ったし。」
陽奈「……で、す…。」
北村「…?」
陽奈「でき…な、い…です…。」
北村「…。」
陽奈「………もう…迷惑……かけたく、なくって。」
北村「……わかった。」
陽奈「…。」
北村「ごめんね、話しかけちゃって。」
陽奈「…。」
°°°°°
陽奈「…。」
話しかけてほしくなかったわけじゃない。
伝えたいことが言葉足らずで
何度も捻じ曲がって伝わることがあった。
でも、その時に頭が回らなくて
何度もそのままにしてきた。
結局私の真意を理解されないまま
今日まで来ていた。
それを、私は周りの人が
理解してくれないからと言い訳をして
理解される努力をしようとしなかった。
それが…この結果。
陽奈「…。」
ぱっと周囲を見回すと、
知らない森を歩いていた。
傾斜が急なところもあり、
1歩踏み外せば
命すら危ういような部分もある。
多くはなだらかな場所が続いていた。
どこを歩いても背の高い植物に
視界を遮られており、
ちくちくと肌を差してくる。
陽奈「…?」
あれ、いつからだろう。
鞄がない。
スカートのポケットに手を当てると、
そこにはたまたま朝入れた
スマホだけが入っていた。
これがあるなら、
どこに姿をくらましても大丈夫か。
そう思ってはまた理性を
泥に飲み込ませた。
今くらいは楽しいことを
思い浮かべよう。
どうしよう、何があるだろう。
私が楽しかったなって思うこと。
節々ではあるのだろうけど、
そこに混じる否定の気持ちが強くて
なかなか見えてこない。
嫌なことばかりじゃ
なかったはずなんだよ。
見えていないだけのはずなの。
でも、どれだけかき分けても
靄の中にいるみたいで
どうしようもなくなって。
…そして、光を探すことすら
辞めてきたんだと思う。
陽奈「…。」
楽しい…こと。
…楽しい、は大切と思う物に
ひっついているかもしれない。
大切…。
家族…とか。
でも、そこまで恩を感じているかと
問われるとそうではない。
それとなく私を邪険に扱っていると言うか
不信感を与えているような気がして。
…病気が露呈して以来
避けられているような感じがしている。
いろは…も大切。
だけど、あの子の考えは私とは違くって
やっぱり違う人なんだなって思う。
けど気楽ではあるの。
軽く冗談を言えるような。
少しだけでも笑い合えるような。
…そう思えば、
雨鯨での時間はとてつもなく
大切な物だろう。
あの時間だけはどうにも
忘れることができない。
何故かと問われても
明言することは難しいのだけど、
確実にあの時間があったから
今まで私は頑張れていたと言える。
いろはと、茉莉ちゃんと秋ちゃん。
あの3人が作り上げた空間が、
作り上げた時間が大好きだった。
陽奈「…。」
大好きだったんだ。
そっと目を閉じて膝を抱える。
瞬間、耳の神経が異様に
研ぎ澄まされるような感覚が走る。
ぽつり、と雨が降り始めた。
風のさざめき、雨の泣き声、
木々の喧騒、地面の笑い声。
体温が奪われていく中、
大切で大好きな思い出を
回想して妄想した。
体はまた勝手に歩き出していた。
°°°°°
2022/1/18
1月18日。
ついにこの日が来た。
この日を待ち侘びつつも
この日なんて来ないでほしいとも思っていた。
そんなアンビバレンスな気持ちを抱えて
今日を迎えていたの。
陽奈「…ふぅ。」
緊張する。
緊張する。
緊張しすぎてどうにかなりそう。
本日は雲ひとつさえないような
青空の広がる1日だった。
日向ぼっこしたくなるような暖かさ。
だけど日陰は身を震わせるほどの
冷たい空気が押し寄せる。
18日の火曜日。
今日は普通に学校があって
普通に帰ってきていた。
いつもなら少しだけでも勉強をと思って
図書館や塾に行くのだが、
なにより曲の投稿日だから
今日は帰ってきた。
受験生だが推薦だから試験日はなく、
今までの内申点や
自己PRなどを書き留めた書類で
合格するか否かが決まる。
不安は不安だけどどうしようもないのだから
仕方がないじゃないか。
そう脳内で何度も繰り返すけれど
やっぱり不安。
定期テストまでは後1、2週間だけど
前々から18日は空けておこうと思って
こつこつ勉強していたし大丈夫だと思う。
そんな1月18日。
中学3年の冬だった。
片時『もうすぐだね。』
片時ちゃんの声がする。
今はみんなでディスコードで通話していて、
初のオリジナル曲の投稿を
今か今かと待ち侘びていた。
いろは「そうだねー。もうすぐだー。」
2歳下の従姉妹であるいろはの声が
ほんのりと部屋をくすぐる。
それと同時にディスコードでは
白、と記されたアイコンが
緑の輪っかで囲われる。
いろはは家が近く同じ中学校に通っている
どこにでもいる中学1年生。
現在隣であぐらをかき
背伸びをしながら欠伸もしていた。
どこにでも居るような1年生だけど
どこにもいない感性の持ち主だと
勝手ながらに思っている。
従姉妹ながらにずっと思っていた。
いろは「ふぁー…。」
秋『ふぁ、ふぁ、は…欠伸うつったー。』
いろは「おー、仲良し仲良しー。」
秋『うちらズッ友同盟組めるよ。』
いろは「そうかもしれないねー。」
秋ちゃんはいつも元気だけど
今日に限ってはいつもよりうるさかった。
賑やかだった、という方が適切かな。
それも今となってはだいぶ落ち着いて
嵐の前の静けさのような不気味さが増す。
いろははそれこそいつもと同じように
…というかいつもより
リラックスしているように見えるけど
実際どうなんだろう。
陽奈「くふん。」
喉に痰が絡まり、
ひとつ咳払いをしてみれば
紅という文字とくっつき書かれたアイコンが
緑の輪っかに懐かれる。
片時『大丈夫?』
陽奈「うん、平気だよ。」
秋『ちょっとちょっとー、れーなってばすんごい緊張してんじゃないかい?』
れーな、とは秋ちゃんが
いつの間にかつけたあだ名だ。
くれないという私の名義から名付けたとか。
くれない、れな、れーな。
…ということらしい。
他にも片時ちゃんのことはたっとー、
いろはもとい白のことはろぴと呼んでいた。
片時『絶対そうじゃん。』
陽奈「うん…。」
秋『あっはっはっは、いつも以上に頭から声出てる!あっはは。』
陽奈「も、もー!」
仕方ないじゃんか。
緊張しているんだから。
初のオリジナル曲。
しかも私が歌っているもの。
作詞作曲、映像が片時ちゃん。
MIXが秋ちゃん。
イラストがいろは、歌が私。
みんなそれぞれ不安な部分や
やりきれなかった部分があるだろう。
それでもひとつの区切れだ。
ひと段落目だ。
すぐ伸びる人は物凄く実力もあって
あっという間に注目を集めて
あっという間に大きくなっていく。
私はその部類にはなれない。
そんな自信がなかった。
自分の歌に自信がなかった。
それこそ、ボーカロイドに歌わせた方が
片時ちゃんの歌は伸びるだろう。
そんなことを思ってしまうほどに。
秋『だーいじょうぶだよ。MIX超初心者なうちがこんなに大きく構えてんだから。』
陽奈「秋ちゃんMIX上手じゃん。」
秋『はーんあれでー?いかにもピッチいじった感が出過ぎててどうしようか悩んでるのに?」
いろは「確かにプロと比べたら全然だよね。」
全然だよね。
そういろはは言葉を棘のように刺した。
彼女は突拍子もなく
人を傷つけるようなことを言う。
或いは事実を突きつけているとも言えるか。
私はそんな事は言えないし
周りばかり見て合わせてしまう方。
だから少しだけでも雰囲気がぴりっとくると
どうしようもなく焦ってしまう。
手に変な汗が浮かぶ。
不安や緊張も相まって
気持ち悪さが渋滞していた。
隣にいたいろはの肩を軽く1回叩く。
それは言わない方がいいんじゃ、
という合図にも等しい。
陽奈「ちょ、ちょっと…」
いろは「そんなの、言ったら私だってそう。片時ちゃんの歌や映像、お姉ちゃんの歌だってそうでしょ。」
片時『ま、音楽とかそういうので食べてるプロと比べちゃそりゃあね。』
いろは「でも、これからゆっくりでもいいから雨鯨が大きくなっていったらいいなって思う。」
陽奈「私もそう思う。」
秋『うっちもうちもー。』
片時『うん。大きくなるといいね。』
秋『雨雲みたいにじわじわくる感じでいいんじゃない?ひとつ大雨降らしゃ勝ちよ。』
片時『1回でかい雨雲が通り去ってもさ、雨って定期的に降るからいいじゃん。』
いろは「おー!いいこと言うー!」
秋『雨みたいに活動していきたいねー。』
いろは「これからでいいんだよ。これからしかないんだしー。」
陽奈「…!」
秋『だねー。』
これからでいいんだよ。
そう言ったいろはは髪を揺らし
こちらを向いて、
そしてにこっと微笑んだ。
そうでしょ?とでも言うように。
あぁ。
こう言う一見くさいような台詞を
簡単に吐けてしまう。
大切な考えを簡単に外に。
自分の考えを、外に。
だから私はいろはが、
いろはのことが憎いのか。
秋『んじゃあさじゃあさ、目標決めない?』
片時『あー、そういや決めてないね。』
秋『根性面と事実面で決めようよ。』
いろは「どういうこと?」
秋『パッションと数字ってわけよー。』
片時『くはは、説明になってないじゃん。』
秋『数字は簡単。来年のこの日には登録者数うん人とかそういうやつね。』
陽奈「パッションは?」
いろは「あれじゃない?いつまでも初心を忘れずーみたいな。」
秋『そーそー、それよー。』
片時『パッション目標はそれぞれ違いそうだけどね。』
陽奈「あぁ、そっか。」
片時『作曲とかはそうだなー、誰かの辛さを言葉にできるようにしたいな。』
いろは「おー、いいじゃんいいじゃん!歌で誰かを救うんだね。」
片時『そう、そんな感じ。映像は曲にあったものを作れるようになりたい。』
秋『ああいーねえー。ノリノリなやつはずどーんばばんとダイナミックでね。』
片時『バラードとかは添えるだけみたいな。』
いろは「左手は添えるだけみたいなね。」
片時『くはは、そんな感じ。』
笑い声。
けど嫌なものじゃなくて
とても心地のいい笑い声なの。
私達は知り合ってまだ
1ヶ月も経っていない人もいるくらいの
出会いたてほやほやのグループ。
なのにここならリラックスできるというか。
身内のいろはが居るのは結構大きいけど、
それ以上に気の置けない友達って感じがする。
安心できる私達の居場所だ。
片時『あとリズム感が欲しい。』
秋『作曲してるんならあるんじゃない?』
片時『特に映像の方かな。初の歌ってみたの映像を見返したら結構ずれちゃってたからね。』
いろは「リズム感…大事だねー。」
片時『うん。難しいけど頑張る。』
秋『そのいきだー!頑張れー!』
秋ちゃんが声を張るものだから
ぷつっときれてしまう。
ノイズ判定されたんだろう。
隣でくすりといろはが笑う。
2つ結びにされた髪が
風に揺られたかのように一瞬舞っていて。
秋ちゃん本人はノイズ判定されたことに
気づいてか気づかずか
すぐに話し出していた。
秋『うちはね、もっと音源に馴染むようにMIXできるようになりたいでーす!』
いろは「秋ちゃんってMIX初めてどれくらい経ったんだっけ。」
秋『2週間!』
いろは「お!経ったねぇ。」
秋『まだぺーぺーもいいところっす。』
片時『だってあれでしょ。ひとつ目の歌ってみたのさ、神っぽいなで初MIXだったんでしょ?』
秋『そうなのよう。初・体・験。いやん。』
片時『はいはい。まだMIX2回目だもんね。』
秋『いろんな人の意見聞いて伸びてくんだー。伸び代しかない!』
陽奈「ナイスポジティブ思考だね。」
秋『もう、秋さんに任せなさいってー。』
私はつくづく秋ちゃんや片時ちゃん、
いろはのことをいいなって思う。
羨ましいとかそんな感情ばかり浮かぶ。
秋ちゃん曰くMIXは
ピッチ補正という音程を直す作業と
タイミング調整という
歌い出しの位置を調節する作業以外
ほぼ出来ないと言っていた。
聞いてみれば確かに違和感はある。
機械っぽすぎると言うか
人間味が薄れているというか。
けどこんなに大きく任せてと言える
秋ちゃんのことが羨ましかった。
私もそれくらいの自信が欲しいって
ずっとずっと思ってた。
秋『ろぴは?れーなは?』
いろは「私はね、いろんな人に絵を届けたいな。何かひとつぐさっとくるような、絵で人を刺すような。」
片時『絵で人を刺すような、かぁ。』
陽奈「出来るよ、きっと。」
いろは「絶対そうするんだよ。」
陽奈「…そっか。」
秋『ろぴの絵は最高なんだから自信持ってくりょーい。うちが最年長なんて信じられないんですけど!』
片時『うん。未だに信じてない。』
秋『えー嘘だぁ。もうすぐ受験なんだよ?これでも。』
いろは「それでもほんとにー?受験生ー?」
秋『受験生だっていってるでしょー!』
陽奈「んふふ。」
いろは「あっはは、ごめんってー。」
笑っていると不意に髪の毛が
口の中に入ってしまい、
あまりの気持ち悪さに
ぷっ、ぷっ、と息を吹いた。
机の上にあったティッシュが豊かに揺れる。
緩やかに靡く。
絵で人を刺すような。
その表現力が欲しいな。
秋『んで、れーなは?』
陽奈「私は…。」
私は。
歌に対して何の目標を持てばいいんだろう。
今まで歌は好きに歌ってきただけで
カラオケは好きじゃない。
けど歌うのは好き。
昔からお母さんやお父さんの持っていた
CDを借りてプレイヤーで流していた。
スマホからも勿論聞けたんだけど、
昔ながらの方法で聞くのが好きだった。
流行りの歌が聴きたくなってからは
段々と持ち場は物置の方へ
移り変わってしまったけれど。
家の歌姫もいいところだろう。
そもそも歌姫なんて
大口を叩けるほどの実力など
どこにもないのだ。
好きな歌を好きなだけ。
時々いろはにリクエストを貰って
それを歌う日々だった。
学校の友達とかには
歌うのが好きだとは言ったことがない。
だって、その場で歌ってって
言われたら嫌だから。
注目を集めたくないし
人前で歌いたくない。
嫌だったから。
だから、信頼している子にも言わなかった。
信頼しているからこそ言わなかった。
けどね。
高校生になったら音楽を堂々とやりたくて。
その理由で受験校だって決めたんだ。
私は。
私は歌で何をしたい。
陽奈「私は…歌っていいものだなって思ってもらえるように歌いたい。」
私がかつてCDとかで聞いた歌の数々。
どんなに音が暗かろうと明るかろうと
寂しかろうと輝いていた。
歌を好きでやっている。
音楽を好きでやっている。
好きな音楽で生きているんだ。
そう聞かされているようだった。
いつかは私もそんな人になりたい。
それが私の目標。
私の夢だ。
秋『いーじゃないの!』
片時『誰かが紅の歌を聞いて歌手とか目指したいって思ってくれるといいね。』
陽奈「…うん!」
もし、本当に片時ちゃんの言うように
私を追って音楽の道へ
走ってくるような人がいたら
私は歓迎できるのかな。
歓迎出来るかはさておき
私はとてつもなく嬉しい。
今後もずっと今の気持ちを忘れたくないな。
慣れてはいけないって
心に深く刻みつけておこう。
秋『そしてそしてよ。事実面での目標どうするよ。』
片時『そういや前にね、ゲーム実況やってる友達が1年で100人いけばいい方だって言ってたよ。』
秋『1年で100人かー。』
いろは「今何人だっけ?」
秋『えっとねー、10人くらいだなー。』
片時『10倍かあ。』
陽奈「結構あるね…。」
いろは「でも0は1にできてるんだよ、私達。」
秋『おっとお、そう言われると出来る気しかしてこないじゃんか。』
片時『まず1年後の1月18日に何人になってて欲しい?』
秋『100万!』
いろは「ばーか。」
秋『ちょ、馬鹿って言った方が馬鹿なんだよーだ。』
片時『くははっ。秋なら言うと思った。』
陽奈「あはは。じゃあ…どうしよう。」
1000人?
でも多すぎやしないか。
1回バズったとしても
そんなに伸びやしないだろう。
みんなの技術力はすごいのに
私の歌がそのレベルに達してなくて
足を引っ張っている気がしてならなかった。
秋『じゃあさじゃあさ、分かった!』
たん、と快音が響いた。
きっと手でも鳴らしたんだろう。
秋ちゃんのことだから
身振り手振りがやたらと大きそうだなと
想像力が大いに働いてしまう。
秋『半年後の6月の18日に100人は?』
片時『攻めるねぇ。』
いろは「いけるよ!やろうー!」
秋『やっちゃおー!秋さん頑張っちゃうぞー!』
片時『いい曲作るぞー!』
いろは「私だって誰にも負けない絵を描くぞー!」
秋『今3ヶ月上達法だっけ?やってるもんね。』
いろは「そうなのー。きついけどやり遂げるんだー。」
陽奈「わ、私も…!」
私も。
私だって。
陽奈「私も、歌…もっと上手くなる…!」
片時『うん!みんなで頑張ろ!』
秋『じゃあ1年後は1000人ね!』
いろは「3年後は1万人だー!」
片時『そこ1年半後じゃないんだ。』
秋『あっはは、たーしかにー!』
陽奈「んふふ、あはは。」
いろは「えへへー。」
いろはが片手を後頭部に当てて
いかにも照れているポーズをとった。
そんな話をしている間に
何と時刻は17:59。
しかももう後数秒だ。
陽奈「もうそろそろ投稿されるよ…!」
秋『まぁじ!?…よし、待機おっけー!』
片時『ずっと前から準備出来てる。』
いろは「…3...2...1...!」
私がこのグループに入ったのは
いろはからの誘いだった。
片時ちゃんがオリジナル曲を出すにあたって
いろはにイラストを依頼をしたところ、
いろはから片時ちゃんへ
「お姉ちゃんに歌わせて欲しい」
という旨を伝えたらしい。
即ち私がボーカルを担当することは出来ないか。
そう持ちかけたんだとか。
片時ちゃんはボカロの声調が難しくて
人に歌って欲しいところだったと
いろはの無茶苦茶な提案を承諾。
そこまでの段階の話が
何も知らない私の元へと舞い込んだ。
元々片時ちゃんは作詞作曲だけの
担当の予定だったけど
映像も勉強してる途中だから
出来ると言ってくれた。
あとはMIX。
確かその頃に片時ちゃんと
初めて声で話した。
何気ない話の中で片時ちゃんも
中学生であると知り、
いろはは突如
「MIX師も中学生の子を探そう」
なんてまた無理なことを言い出した。
「君に傷を」の告知動画を出す前日、
たまたま幸運なことに
中学生MIX師(仮)なんていう
アカウントをいろはが見つけてきた。
そんな話を聞いたかと思えば
いつの間にか連絡を取っていて
しかも承諾の意を受け取ったという。
いろはの行動力は時々化け物になるのだ。
それによく秋ちゃんも片時ちゃんも
唐突な出来事なのに了承してくれたなと思う。
…私も然り、かな。
いろはに誘われなかったら
きっと今も家の中で
1人寂しく楽しく歌っていただけだろう。
メンバーみんな、
ネットに合作した創作物を投稿するのは
初めてだと言う。
見たくない批評や
目を背けたくなる事実だって
たくさん出てくるだろう。
それを見てやめたくなるかもしれない。
憤りを感じてしまうかもしれない。
それでも。
それでも人間らしく生きて、
私の歌が誰かに届いて、
その歌があなたの生きる動機になればいいな。
…。
紅雨。
花に降りそそぐ春の雨のことで
赤い花が散る様子を
雨に例えて呼ぶこともある。
私には雨が欠けている。
そしてみんなにも雨が欠けている。
私達は雨に補ってもらって
初めて生きることが出来るんだ。
陽奈「…。」
このグループでどこまで行けるかわからない。
でも、やれることはやろうと思う。
少しでも自信を持てるようになりたい。
少しでもいろはを超えてやりたい。
そんな願いを込めて
オリジナル曲を眺めたのだった。
僕らには雨が欠けている。
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2022/2/18
湊「たでまー。」
玄関に靴を放るように脱ぎ捨て、
息を雑に吐き散らしながら靴を整える。
1歩室内へ踏みだすと、
踏みどころが悪かったのか
不愉快な音を鳴った。
ここの床板だけ毎度の如く
私の耳を虐めるのだ。
ったくー、やめてほしいもんだよ。
湊さんの耳は代替出来ないんだから。
しんと静まり返ったアパートの一室。
まだお母さんは帰ってきていないようで、
夕方だというのに部屋は随分と暗かった。
まるで線路下のトンネルのような
そこ知れない不気味さが漂う。
湊「…ま、ですよねーっと。」
半年ほど運動をしていない体は
随分と鈍ってしまって、
数分歩くだけでも疲労が溜まる。
朝に比べればお弁当やら水筒やらの分が
軽くなった鞄をリビングに放つ。
湊「はぁ゛ー!」
疲れたお言わんばかりの吠えにも近い声を
ソファーに身を投げながら口にする。
制服がくしゃくしゃになってしまう。
でも面倒くさい。
今だけはこのままで眠りたい。
湊「……明日…オリ曲投稿だっけねー。」
うちは家で1人の時でも
基本何かと呟いていることが多かった。
頭の中を整理したいから。
考えてるだけじゃ
ごっちゃになって気持ち悪くなっちゃうから。
口に出せない時は紙に書く。
いつからか身についた
うちなりの生きる術だった。
明日は18日。
2月の18日。
18月の雨鯨が結成されてから
早1ヶ月は経った。
時間が過ぎるのは無情にも早い。
まるで人間なんて
時間にとっては塵のような存在なんだろう。
そもそも存在しているとさえ
言えないレベルで微細な何か。
その程度。
湊「……。」
徐にテレビをつけた。
部屋の隅には先週出し忘れた
巨大なゴミ袋がある。
明日だっけ。
燃えるゴミの日ってさ。
テレビでは夕方のニュースが放映されていた。
おすすめのお店、デパ地下、
殺人事件、コロナ情報。
見たことあるようで全くもって
新しい情報ばかりが流れてく。
そして、高校受験の話題。
湊「…あー…受かってるといいなぁー。」
ソファーの背に完全に体重を預け、
ずるずるとお尻が滑り
そろそろ落ちる手前まで来たところで
漸く止まってくれた。
今日は受験2日目が終わったのだ。
面接をやって、終わり。
うちは公立高校ひとつだけしか
受験しなかった。
だって、そこじゃないと意味がないから。
きっとうちが受かってなかったら
ゆうちゃんは合格を蹴って、
またうちと1年間宙ぶらりんのまま
生活していくんだろうな。
テレビ台の隅に置かれた
写真立てに視線が移る。
テレビの音はいっそ騒音にしかならなかった。
湊「…もう何年経ちましたー?…えーっとねー…」
指を折り、1、2、と根気よく数える。
すると、ちょうど全ての指を
折り曲げたところで
次の数字は出てこなかった。
湊「そもそも生まれた時からほぼ一緒じゃんね。んだと…15年かねー。わお、結構長い付き合い。」
折っていた指をぱっと散らし、
写真立ての方へ歩み行く。
写真は入っておらず、
ただ朽ちた木のフレームだけが
侘しく佇んでいた。
いつの記憶かまで定かではないが、
昔はこの写真立てに
ゆうちゃんとうちの2人で
ピースを掲げて映っていた写真があったのだ。
今じゃ抜け殻。
こんなの、今も持っておいて
何の意味があるんだろうか。
それでも捨てられなかったのは
うちが弱いせいだろうか?
湊「お腹がすいっちまっちんぐ。なんかあったっけー。」
今度は冷蔵庫へと吸い寄せられる。
テレビは放置で
次へ次へと興味の湧く方へ進む。
冷蔵庫の扉を開けると、
そこには夏が住んでいたのか
ふわっと冷気特有の空気が薫る。
ゆうちゃんとの記憶も
冷気にくっついて
うちの頭まで届いてしまった。
湊「…あーあ、思い出すだけただの自傷行為なのにな。」
ゆうちゃん。
それはうちの幼馴染のこと。
幼馴染というには
随分と関係がこじれてしまったけれど。
うちより何歳も年上で、
確か今は17か18歳。
この狭い町の中で何年も一緒に過ごしてきた。
緩くカーブして、
毛先は外側に跳ねている髪の毛。
眠たそうな目つき。
ふんわりと香るお花の匂い。
ちゃんと食べてないだろうなってくらい
ほっそい手足。
因みにゆうちゃんのゆうってのは
うちが過去に勝手にあだ名つけて
呼んでるだけ。
本名忘れちゃった。
多分、出会って早々ゆうちゃんって呼んで
本名覚えようとしなかったからかな。
ゆうちゃんは1人、古臭い一軒家で
粛々と生きていた。
ゆうちゃんはずっと
この町にいるものだと思ってた。
この町で生まれ、この町で暮らす。
「ここって意外と平和なもんだね」って
くしゃりと笑っていたのを
今も覚えている。
なのに。
湊「すーっと、前触れもなく出てっちゃったもんだ。」
うちを置いて関東の方へ上京した。
それも最近のこと。
年明けてすぐぐらいだっただろうか。
そう言えば最近会ってないなと思って
連絡してみたら、
もうその町にはいない、だって。
いくら柔軟に対応できるうちでも
流石に怒鳴って問い詰めちゃった。
何で。
どうして?
何で言ってくれなかったの。
そしたら。
°°°°°
湊「何で言ってくれなかったの。」
ゆう「ほら、サプライズ〜みたいな。」
湊「そんなんじゃないよね?」
ゆう「たまには子供っぽく引っ掛かってみるのも大事だよー?」
湊「かわさないで。うち、真剣に聞いてるの。」
ゆう「湊ちゃんがー?珍しいこともあるもんだー。」
湊「ゆうちゃんがはぐらかす時、大体いいことはない。放っておくと大変なことしかなかった。」
ゆう「信頼ないねー?」
湊「ないよ。振り返ってみなよ、今までのこと。」
ゆう「そんなの、湊ちゃんだってそうでしょー?」
湊「今それは問題じゃないでしょ。」
ゆう「はいはい。ごめんってー。」
湊「何で。」
ゆう「もうー、仕方ないなー。」
湊「…。」
ゆう「私、湊ちゃんの通う高校に定時制で入学しようと思ってるんだー。」
湊「……はい?」
°°°°°
高校を3年に上がってすぐ辞めて
中卒扱いのままで働いていたゆうちゃんが、
今更高校生をやり直すだなんて
絶対何か裏があるに違いなかった。
信頼してない。
してない。
けど、うちはゆうちゃんがいなきゃ
生きていけなかったんだと思う。
それはゆうちゃんも一緒。
うちがいなかったら
生きていなかった。
うちはこんな狭い世界から出たくて
SNSを始めたし、
高校進学だって関東の方にした。
この町は嫌いじゃなかったけど
居心地は良くなかった。
ほんと、狭い世界。
だからこの町に蔓延る方言も
いつしかだんだんと捨てていった。
周りの子たちからは変な目で見られてたけど、
「東京に憧れた」
「高校は関東の方にする」
「その時浮かないようにしたいから」
適当な理由ばかりぽんぽんと
口から吐き出されていて、
気づけば皆、変な目で見るのを辞めていった。
「そっかー」
「寂しい」
「頑張ってね」
多分だけど周りの同級生らも
適当な言葉ばかり口から出てたね。
夕闇迫る町のはずれ。
田が広がる何もない道で
半年くらい前にゆうちゃんと話したんだっけ。
°°°°°
湊「高校は関東の方にしようと思うんだ。」
ゆう「へぇ、この町出るの?」
湊「うん。出る。」
ゆう「そっかぁ。ついていっちゃおうかなー。」
湊「ゆうちゃんはこの町出ないでしょー。」
ゆう「湊ちゃんが本気なら私だって本気だよー?」
°°°°°
眠そうないつもの瞳は、
その時だけ狂気を帯びていた気がする。
記憶の中のものだから
既に脚色を加えられているだろうけれど。
それから、東京は流石に怖いと
お母さんも言っていて、
お隣の神奈川県ってところにした。
うちの家は財政的には
どの高校でもよかったけど、
出来れば頭のいいところがよかった。
だって関東の低偏差値の学校って
何しでかすか分からないじゃん?
ヤンキーしかいないでしょ。
そんな偏見だけを抱いていた為、
公立高校の上から何番目かの
高校に目標を設定。
後は勉強するだけだった。
さっきの通り、
うちの家は財政的には困ってなかった。
だから、うちの1人暮らしも
快く承諾してくれた。
ゆうちゃんもいないのに
そんなにすんなり「いいよ」って
言ってくれるんだ、って
あまりの物事のスムーズさに
違和感を覚えたことは確か。
ただ、それ以上に関東に住んで
高校に通っていいって言われて、
嬉しくて舞い上がってた。
だから、見落とした。
多分、お母さんとゆうちゃんは
口裏合わせてたんだろうな。
湊「ちいと気づくのが遅かったなあ。」
けれど、もし事前に気づけていたとしても
何も変わらなかっただろう。
私はここを出たかった。
東京の周りの県にしたかった。
頭のいい高校がよかった。
うん。
何にも変わんなかったな。
ゆうちゃんが近くにいてくれるのは
心強いとは思う。
ただ、この町からの監視の目から
まだ離れられないようでもどかしい。
そう思うとTwitterは
監視されているとはあまり思わない。
もしかしたら既に
うちのアカウントを見つけて
フォローしているのかもしれないが、
ネットを介しているからか
不快感は少ない。
なにより、雨鯨のみんなといるのが楽しい。
町以外でうちの唯一の繋がりだ。
湊「お外って綺麗かな?」
錆がちらほらと見える窓は
レースカーテンが閉まっていた。
そのせいで青空は見えないまま。
湊「世界って広いなー。」
世界って広い。
この言葉はいつからか
うちが言い始めた言葉。
しかも、絶対1人の時にしか
口からこぼれてこなかった。
お母さんやゆうちゃんがいると
世界は狭く感じるからかな。
先程放放りっぱなしにした鞄から
冷たくなったスマホを取り出して、
すぐさまLINEを開いた。
『18月の雨鯨』
そう記されたグループに触れる。
元々はディスコードで通話していたけど、
うちの声がノイズ判定されることが多すぎて
みんなが良ければってLINEを提案してくれた。
誰だっけ、その提案をしてくれたの。
れーなだっけ、ろぴだっけ、たっとーだっけ?
そこまでは覚えてないや。
自然と流れでそうなった。
湊「さってとー。」
未だに見慣れない名前が
ふとうちの目の前に示される。
本名がバレないようにと
適当に「さつまいも」に変更したんだった。
うちの活動名が秋だからさつまいも。
あだ名とかつける時も
連想してつけることが多い。
ただ、雨鯨メンバーのあだ名は
原型をとどめるように努力はした。
したんだよ。
それでも「どうしてこうなった?」って
すんごく言われたけど。
湊さん、納得いかないなあ。
そんなことを思い出したながら
グループラインにぽぽぽと文字を打ち
すかーん、と送りつける。
湊『受験終わったよーん!!!』
それからよく分からない生物が
ぐねぐねと嬉しそうに踊っているスタンプを
2個ぐらい送りつけた。
湊「うちってみんなの前だと割と饒舌かね?」
どうなんだろう?
普段、昼間に1人の時は程々に喋る。
人といる時は場を盛り上げないと
その場に居づらい気がして喋る。
ゆうちゃんとか他の人とか
2人きりの時も大体話題を振ってる。
けど。
けれど、夕方だったり夜だったり、
その時間帯に雨が降っていたりしたら
うち自身も何故だか分からないが
すっと黙りこくってしまう。
その波が来たらあまり
雨鯨の通話にも入らないようにしてた。
黙って何も話さず
頭の中をぐちゃぐちゃにして考える。
考えて考えて考えて
考え疲れて漸く眠る。
その時こそ本当のうちに
出会えている気がしてた。
湊「って流石に厨二病臭すぎないかいー?」
自分でツッコミを入れたところで
すこんとラインが通知を飛ばしてくる。
いろいろ思考が巡る中で
思ったより時間は過ぎたらしく、
スマホは真っ暗画面で待機していた。
スマホを起こしてやると、
見慣れた人からのメッセージ。
うちが見やすいように
名前のところはあだ名に変えたんだった。
ろぴ『秋ちゃん受験お疲れ様«٩(*´ ꒳ `*)۶»ゆっくり休むんだよ( ´-ω-)σ』
湊「あはは、返信はやーい。」
最年少であるろぴは
雨鯨のイラスト担当。
イラストの腕前は中1とは
思えないほどにすんごくて
最近MIXを始めたばかりのうちとは
技術面的に比べ物にならない。
その上行動力が化け物級。
うちを超えるんじゃないかな。
うちだって結構考えなしに動くけど
ろぴはその上を行くね。
のほほんとした声とは裏腹
やる事はいつも綱渡り。
すんごく面白い子に捕まったもんだ。
ところで今日は17日の木曜日。
美術部に所属しているろぴが
こんなに返事が早いなんて。
湊「もしや部活休んだなー?」
くすりと笑みが溢れる。
ここ1ヶ月ほどは必要な連絡以外で
連絡するのを控えていたから、
みんなと気楽に話せるのは久しぶりだった。
やっと日常戻ってきたとさえ感じる。
そう、感じてしまった。
湊「あー…うち、みんなといるのが日常になったのかー。」
結構長いこと通話しながら
各々作業してきた。
うちだったらMIX、
たっとーだったら作詞作曲に映像まで。
ろぴだったらイラスト、
れーなだったら次の歌みたの選曲や練習。
たった1ヶ月強の仲のはずなのに
学校にいる誰よりも
心を許せる存在になりつつあるような気がした。
湊「気がしただけだね。」
硬い音を鳴らしてマナーモードにし、
再度ソファーに身を投げる。
今度は背もたれなんか使わず
ほぼ大の字になりながらダイブした。
気がしただけ。
そう。
うちは人を信頼する方法を
いつの間にかけろっと忘れちゃったもの。
信頼するなんて怖すぎる。
何が起こるかわかったもんじゃない。
別に過去に裏切られたって事実はない。
けどこんな考え方に浸って
抜け出せなくなってしまったのは
間違いなく周りの人間のせいだ。
主にはお母さん、そしてゆうちゃん。
ほんの少しそれから学校のみんなも
影響しているだろう。
うちにお父さんはいなかった。
お母さんもゆうちゃんも
そのことについて何か知っているのに
全く口を破らず話を逸らした。
だから信頼出来ない。
人なんてそんなもん。
もしかしたら雨鯨のみんなだって
うちを急遽不当解雇みたいな事をして
切り離すかもしれない。
湊「…もしそうなったとしても、明るく煩い湊さんでいよーっと。」
大の字から一気に数字の1のようになり
思い切り伸びて伸びて、
張った糸を緩めるように
力を抜いていく。
湊「さぁて、お母さんはいつになったら帰ってくるかな。」
お母さんは今日もお仕事。
そりゃ平日だしね。
今日くらいは帰った時
おかえりって言って欲しかったな。
なんて欲張り過ぎか。
うちも子供じゃないんだし。
片手に収まったままのスマホを
再度光らせてみると、
マナーモードだった間に
幾つものメッセージが届いていた。
湊「もー何何ー?みんな家にいるのー?」
心踊っているように声を弾ませて、
弾ませてるふりをして
LINEを開く。
すると、1番下には
グループ通話が開始しましたの文字。
その上には幾つかの
うちへの受験お疲れ様メッセージなどが
連なっていた。
無意識のうちに指を
とあるボタンを優しく添えた。
ろぴ『ってたんだよー。お!秋ちゃんー!』
たっとー『秋だ!久しぶり!』
湊「すんごい久しぶりにみんなの声聞いたわー!」
れーな『秋ちゃん、受験お疲れ様。』
ろぴ『そーだそーだ!受験お疲れ様だよー!』
湊「まぁーじでありがちょ!やっと受験終わったわー。」
たっとー『そっか。じゃああと結果を待つだけ?』
湊「そーなのー。すんごい心臓ばっくばくだよ。」
ろぴ『えー?秋ちゃんが緊張してるのー?そんなことあるー?』
湊「うちも人間なんでありますぅーだ。」
れーな『私1週間前からは緊張してたよ…。』
湊「あはは、え、簡単に想像出来るー!」
たっとー『くははっ、分かる。もう見えてくるよね。』
湊「ねー!ってかさ、聞いて聞いて!今日試験会場でやべー人いてさー」
わいわいと話す時間。
そんな時間は今までにも
相当な量あった。
友達、家族、親しい人、先生。
色々な人と笑顔で気楽に話してきた。
人見知りするだけ得るもの減るし
時間の無駄だと思ってたから。
だけど超人見知りなれーなに会ってからは
ちょっとだけ考え方変わったかな。
いや、嘘かも。
変わったって思いたいだけなのかも。
こんな狭い世界の狭い考え方から
1歩だけでも外に出れたよって
言ってみたかっただけ。
外の世界に出れたのかな。
どうなんだろう。
うちは変われたのかな。
どうなんだろう。
今まで大層明るく過ごしてきて、
その癖が残ってるもんで
メンバー含めて人の前ではこうやって
饒舌になってしまう。
けど、心持ちとしては
学校の人とかと話すよりは
結構楽…かな。
湊「あっはは!それまじー!?」
もう少しでお母さんは帰ってくる。
何とも不敵な笑みを浮かべた夕闇は
レースカーテン越しに近づいてきていた。
明日は18日。
2つ目のオリジナル曲が投稿される日だった。
受験、受かってるといいな。
明日の曲、沢山の人に届くといいな。
いつか。
いつかみんなのこと、
信頼出来たらいいな。
ちょっとだけ頑張ってみたかった。
全てを諦めたように
その言葉たちが滑らかに浮かんだ。
頑張ってみたかった。
-----
2022/3/18
茉莉「んあー…。」
伸びをする。
肩が勢いよくばきっと音を鳴らした。
今日は3月の18日、金曜日。
もう少しで春休みというところまで
日付はあっという間に経っていた。
自室から足を踏み出し
狭い世界から抜け出すと
兄ちゃんがパソコンと
睨めっこをしている姿が目に入る。
ものすごい剣幕だ。
邪魔しない方がいいだろう。
そう思って忍足で
キッチンを向かおうとしたところ、
床と足がぴったりくっついて
剥がれるあの特有の音で
振り向かれてしまった。
気を遣うだけ意味がなかったよう。
兄ちゃん「何してんの。」
茉莉「邪魔しちゃ悪いなーって思って足音殺してた。」
兄ちゃん「えぇ?変な歩き方してる方が気になるわー。」
茉莉「変じゃないでしょ。」
兄ちゃん「よくそれが言えたな。」
茉莉「いつでも言える。」
兄ちゃん「阿呆がおる。」
茉莉「兄ちゃんには言われたくねー。」
無駄話を挟みながら
キッチンへと向かい
コップとお茶の入った
ペットボトルを手に取る。
お茶は冷蔵庫で冷やされていただけあって
ひんやりと冷たく心地いい。
極寒の季節から漸く
1歩暖かい方へと踏み出した。
3月。
中学2年生ももう終わる。
茉莉「あれ、今日ってバイト?」
兄ちゃん「おう、夜勤な。」
茉莉「夜勤って大変?」
兄ちゃん「暇疲れがやばい。」
茉莉「そっかー、やばいかー。茉莉なら出来そう。」
兄ちゃん「お前には出来ねーよ。」
茉莉「何で?」
兄ちゃん「女の子を夜中に1人にするのは危険だろ?」
茉莉「あー…まあ、確かに。」
兄ちゃん「だから、茉莉が夜勤してみたいとか思っても中々出来ないからな。」
茉莉「茉莉身長ないしね。」
兄ちゃん「あはは、そう言う問題じゃねーよ。」
ぼとぼと。
ペットボトルの中はまだ
減り始めたばかりで、
コップに注ぐときの勢いで
がくがくと揺れた。
この不快感。
だからペットボトルは
直で飲む方が楽なんだ。
流石に兄妹兼用で買ってるお茶では
そんなことできないけど。
兄ちゃんの夜勤の話を聞きながら
喉に冷茶を流し込む。
胃に直接流れるものだから、
中途食道もつうっと通った。
喉の内側から胃の中まで
冷えピタが貼られたかの如く
寒さを纏っている。
茉莉「はー…冷たい。」
兄ちゃん「俺にも1杯。」
茉莉「酒?」
兄ちゃん「まだ未成年だろうが。」
茉莉「あれ、20歳って来年?」
兄ちゃん「来年度な。」
茉莉「ふうん。早いもんだねぇ。」
兄ちゃん「そうだなー。はい、お茶くれ。」
茉莉「まずお代を頂こうか。」
兄ちゃん「今月余裕あるけどこんなところで使いたくねー。」
パソコンから目を離し
けたけたと笑いながら
しっしっ、とあっちいけと
言うかのようなジェスチャーをする。
実際、確かに今月の生活費は
余裕がありそうではあった。
2月に入り、大学1年生である兄ちゃんは
バイトばかりの生活をしている。
どうやら3月いっぱいは
昼夜逆転の日々で
生きるようだった。
コロナが一気に増えたせいで
サークル活動もままならないのだとか。
する事がないためバイトしか
やりたい事がないらしい。
やりたいとは言え
お金が欲しいからであって、
とても大好きな職業だとか
そういうわけではなさそうで。
コップをもうひとつ手元に用意し、
再度お茶を注ぐ。
先ほどよりも多少内容量が減ったからか
がくがくとする不愉快な揺れは
微々ながら収まっていた。
兄ちゃんのパソコンの近くに
コースターを敷きコップを置くと
光の反射で机に輝きが落とされた。
あぁ。
これ、歌詞で使えそう。
兄ちゃん「さんきゅ。」
茉莉「んー。」
兄ちゃん「そういや最近どうよ。」
茉莉「何が?」
兄ちゃん「作曲。」
茉莉「あー。ま、そこそこ。」
兄ちゃん「へえ、いいじゃん。人ってどこに才能あるか分かんないもんだな。」
茉莉「誰にでも出来るよ。」
兄ちゃん「出来ねーよ。お前やばいこと言ってる。」
茉莉「それ知り合いにも言われた。」
兄ちゃん「メンバーの子?」
茉莉「いや、ゲーム友達。」
兄ちゃん「そっちか。っぱみんな思うんだよ、誰でもは出来ないって。」
茉莉「そんなもんなのかな?」
兄ちゃん「おう。俺吹奏楽部少し齧ってても作曲は出来なかったしな。」
茉莉「あー…。」
兄ちゃん「茉莉って楽器やったことあるっけ?」
茉莉「リコーダーは。」
兄ちゃん「いやー…すげーな。」
茉莉「知識ないから全部感覚だけど。」
兄ちゃん「それを才能って言うんだよ。」
コップを手に取り数口飲んだ後、
ぷはーっと豪快に声を出し
またパソコンに向かい合った。
何か真剣に見ているらしい。
顔の険しさからどうやら
エロサイトでは無さそうだ。
兄ちゃんには音楽ユニットに入ったこと、
作詞作曲をしていること、
映像も担当していること、
メンバーと通話していること、
それからネットのゲーム友達とも
通話していることは伝えている。
兄ちゃんは、危なくないんだったら
いいんじゃないと
寛容に受け止めてくれた。
ゲーム友達との通話は
危険を感じたら即抜けろ、だとか
会うのは辞めといたほうがいいだとか
色々心配する内容の言葉を貰っているし、
現に茉莉もそうしようと思っている。
ただ、雨鯨に関しては
最近まで危険じゃないかと疑っていたが、
部屋から漏れる通話の声等で
一旦は安心したらしい。
メンバーがみんな
同性ということもあるだろう。
まあ、年齢詐欺はあり得るからなと
釘を刺されたけども。
楽しそうに話している声が聞こえて来て
なんか安心したとさえ言われた。
よく分からないけれど、
雨鯨での活動を
受け入れてくれたような気がして
ちょっぴり嬉しかった。
兄ちゃん「前の曲聞いたわ。」
茉莉「えー、なんかやだ。」
兄ちゃん「何でだよ。」
茉莉「身内に見られるのはなんか…こう、くるじゃん。」
兄ちゃん「言わんとする事は分かる。」
茉莉「でしょ?」
兄ちゃん「おう。でも聞いちまったもんは聞いちまったわ。」
茉莉「手遅れか。」
兄ちゃん「そゆこと。映像も頑張ってんじゃん。」
茉莉「くそ時間かかった。」
兄ちゃん「だろうな。どれくらいかかった?」
茉莉「丸2、3日くらい。」
兄ちゃん「うわー、かかるなぁ。」
茉莉「作曲は1ヶ月弱くらい。」
兄ちゃん「うんわー、もっとかかるな。」
茉莉「んなもんでしょ。」
兄ちゃん「そっか。あれ、あのー…2曲目のラスサビの歌い方好きなんだよなー。」
茉莉「ファンじゃん。」
兄ちゃん「厄介オタクになるわ。」
茉莉「それだけはやめてくれ。」
かちり。
マウスの左頭が凹む。
かちかち。
直後、今度は2度凹んだ。
兄ちゃん「みんな中学生ってやべーよな。」
茉莉「やべー。」
兄ちゃん「な?」
茉莉「でも2人高校生になるよ。」
兄ちゃん「合格したって?」
茉莉「うん。無事合格してた。」
兄ちゃん「おー。おめでたいな。おめでとうって言っといて。」
茉莉「何で兄ちゃんが。みんなびっくりするよ。」
兄ちゃん「じゃあびっくりさせといて。」
茉莉「あいー。」
兄ちゃん「ボーカルの子の声可愛いよな。」
茉莉「え、きも。」
兄ちゃん「いいだろ。この完璧お兄ちゃんだって可愛いと思うものくらいあるんですー。」
茉莉「はいはい。」
かち。
1度その音が鳴ると、
不意に最近18月の雨鯨で投稿した
歌ってみたが流れた。
紅のあの高く所々色気のあるような
そんな歌声が耳をくすぐる。
茉莉「再生数操作?」
兄ちゃん「1稼いだわ。」
茉莉「まいどあり。」
兄ちゃん「また来るか。」
茉莉「嬉しい限りです。」
兄ちゃん「俺も歌ってみた出せるんじゃね?」
茉莉「ま、いいんじゃない?」
兄ちゃん「まじ?本気にしちゃおっかなー。」
茉莉「やっぱなしで。」
兄ちゃん「はぁ?」
兄ちゃんがぎゃーぎゃー言うのを横目に
自室へと戻る。
部屋に足を踏み入れた瞬間、
海へ裸足で浸かったような
奇妙な感覚を覚えた。
3月だと言うのに
床は暖房器具を使用しても
温まることはない。
永遠と冷えたままの床に
素足を貼り付けて離す。
そして、いつもの作業机に向かうのだ。
茉莉「…今日の投稿が済んだら…次の次の曲…。」
次の曲はイメージは出来ている。
だから、最悪後回しにしても
今月内に完成していれば上々だろう。
次の次の曲に手をつけ始めていないと
音源の受け渡しが遅れて
メンバーに迷惑がかかってしまう。
曲が出来なきゃイラストも
歌も勿論MIXや映像にまで
遅れが出てくる。
焦ったっていいものは出来ない。
なら、焦らないように前々から
茉莉の出来ることをするだけ。
茉莉「…あ、今の音いい感じかも。」
きっとリビングでは兄ちゃんが
難しい顔でパソコンを
弄っていることだろう。
インターンがどうとか
サイトを作ろうと奮闘してるだとか
最近何かしら挑戦していると言う内容を
よく耳にするので、
その関連で頑張っているんだと思う。
この家に越して来て
3ヶ月目に突入していた。
茉莉と兄ちゃんの2人暮らし。
この生活にもだいぶ慣れて来た。
茉莉「……うーん、イメージと違うな。」
独り言を口にしながら
作曲を進めつつ、
屡々回想に耽った。
転入した中学校にも慣れてきて、
クラスで話せるような人も出来た。
卒業まであと1年と少しだったから
友達なんて出来ないだろうと
思っていたけれど、
どうやら杞憂だったよう。
学年末のテストも終え、
後は淡々と日々を過ごすのみで
中学生3年生になってしまう。
信じられない。
あの茉莉が中学生3年生になるのだ。
自分でも驚きが隠せない。
茉莉「………うーん…。」
茉莉は今後どんな将来を歩むんだろう。
そもそも高校へ通うかを
ずっと迷っている。
今も尚。
進行形の悩みだ。
18月の雨鯨のメンバーである
紅と秋は高校へ進学した。
高校は行っとけと
誰もが口を揃えて言う。
中卒で就職は確かに大きな
ハンデだとは理解しているつもり。
…つもりなだけ、だな。
周りと一緒が嫌だ等
そう言った子供じみた理由ではない。
…育ての親に高い学費を
払ってもらうことに引け目を感じるのだ。
育ての親は気にするなと、
学費なんて気にするなと言ってくれているが。
…。
だが、義務教育ではない。
その重くのしかかる響きが
茉莉の未来へ進む足にしがみつき
立ち止まるよう催促している。
…否。
その事実に甘んじて、
その事実に託けて
茉莉は変わらない理由をつけているだけ。
茉莉「…駄目……だな…。」
席を立ち、近くにあった
敷かれっぱなしの布団に身を投げる。
布団が薄いせいで
腹や胸を打撲する。
茉莉「…うぇ…いてぇ…。」
そりゃそうだ。
何やってんだか。
ごろんと寝返りを打ち、
布団から飛び出しそうになりながら
天井を眺むと、消されたままの
電灯と目があった。
18月の雨鯨に所属して
作曲や作詞をしているが、
正直なことを言うと
茉莉は別に音楽は好きじゃない。
好きな曲はと聞かれても
ぴんと浮かばない。
YouTubeでは音楽を聞こうとしても
特定の人、ジャンルを聞くのではなく
ミックスリストを毎回押す。
クラシックなピアノのメロディから
最近話題のボカロや邦楽、
時には演歌やメタル、ラップまで
幅広く守備してくれた。
それを無駄に聞き流すだけ。
茉莉「…。」
やりたいことも特にない。
何でもいい。
全部誰かが決めてくれればいいのに。
だから茉莉はいつまでも子供なのだろう。
責任というものを負いたくない。
…子供の考えだ。
何でもよかった。
今まで環境に振り回されて生きてきた。
これまでと同じように
これからも環境が茉莉の全てを
操作してくれるように思ってた。
けれど、高校はその段階を
卒業するということになる。
自分で好きなことを探して、
そして、自分から
動いていかなければならない環境だと。
そう、先生は言っていた。
好きなことって何なのだ。
どうやって見つければいいのだ。
茉莉には、その術が分からない。
茉莉「はぁ……。」
昔から思っていた。
茉莉はこれといって
生きている理由がない。
昔から気づいていた。
生きる目標もないことに。
だからこそ、高校進学を
迷っているのかもしれない。
茉莉にお金を払ってもらっても、
茉莉は…茉莉は、何も返せない。
恩を貰っても、何も返せないのだ。
茉莉「………聞いてみるか。」
高校合格を果たした紅や秋に
聞いてみるのもひとつの手、か。
兄ちゃんや先生、ゲーム友達にも
今後どうしようか悩んでいると
話したことがある。
皆、高校は行っとけと言ったが。
紅や秋だってそう言うだろう。
それでも、今多くの時間を
共に過ごしている、
気の置けない友達の言葉を
聞いてみたくなったのだ。
夜になればみんな自然と
集まってくるだろう。
言葉は悪いが夜中のコンビニに屯する
ヤンキーのように。
茉莉「…ふふっ。」
そう思うとなんだか笑えてきた。
自然と集まるほど
いつからか仲良くなっていたのか。
自分が怖い。
こうやって変わっていくんだ。
天へ手を伸ばしてみたが、
指先の血の気が引いていくのを感じ
気持ち悪くなっておろした。
轟々と腕の中を血液は
踊り狂うように巡っていった。
***
秋『おっすー!』
茉莉「あ。おっすー。」
秋『っすー。ういういうい。みんなは?』
茉莉「まだだよ。秋はいっつも早いね。」
夜になり、兄ちゃんが夜勤へ
行った後のこと。
いつものようにLINEの
グループ通話を開始すると
早々に秋がやってきた。
秋はLINEの通知をオンにしているのか
グループ通話が始まったら大体すぐ来る。
それか自分から開くこともしばしば。
受験も終わり秋の戻った通話は
賑やかさに拍車をかけていた。
秋『そりゃそーよ。みんなを待たせるわけにゃあいかんからねぇ。』
茉莉「そっかー。」
秋『とは言えどちいーっとこの後引越し云々の話で抜けちゃうんだけどね。』
秋は関東圏の高校に合格した為、
この1ヶ月で一気に進学の準備を
しなければならないらしい。
これまで話す中でずっと標準語だったから
てっきり彼女も関東らへんにいると
勘違いしていたが
どうやら違ったようで。
茉莉「全然いいよ。そっち優先して。」
秋『もー優しいねぇ。秋おばあさん泣いちまうよ。』
茉莉「あははっ、こんなことに涙使わないで。」
秋『涙くらい自由に使わせてよー!』
わあわあとぐずる秋。
本当に歳上なのか疑いたくなるが、
色々あったこの3ヶ月弱の中で
歳上なのだと実感する時は何度かあった。
どうやら本当に歳上で、
本当に高校生になってしまうらしい。
茉莉も来年は受験だ。
うっすらと暈された影が
足元に落ちるのを感じた。
その後秋は暫く話した後、
満足したのか時間になったのか
通話からするりと猫のように
抜けていった。
茉莉「…んあー…イメージの断片だけでも作るかー。」
独り言をほろりと流した時、
スマホからさーっという
優しい環境音が流れ出す。
誰か入ってきたみたい。
秋が戻ってきたのかな?
にしては早すぎるような。
誰なのか確認しようと
スマホに手を伸ばした時だった。
紅『…もしもーし…。』
茉莉「あ、紅だ。おはよー。」
紅『うん。おはよう。』
茉莉は、誰かが通話に入って
相手側に先手を打たれなかった時は
大体どの時間でもおはようと投げかけた。
これはきっとゲーム垢の友達の
影響だろうな。
紅『他に誰か来てる…?』
茉莉「秋が一瞬来たけど抜けたよ。」
紅『そうだったんだ。』
茉莉「何かね、引っ越しがあーだこーだって言ってた。」
紅『秋ちゃん、関東に来るって言ってはしゃいでたもんね。』
茉莉「ね。んでさ、何だっけ、ポニテ女子がどうこうって言ってて。」
紅『高身長でポニーテールしてたかっこいい女の子に話しかけるんだって言ってたことかな?』
茉莉「そーそーそれ!よく覚えてたね。」
紅『唯一秋ちゃんが後悔してるって言ってたから覚えてたの。』
紅はいつも通りの控えめな態度で
少々楽しげに話していた。
最初こそほぼ話してくれなかった…
それこそ2人の時なんて
声をかけなければ永遠に無言が
続いていたというのに
今では紅から話してくれることも多々ある。
この3ヶ月で思っていたよりも
大きく変わっていたようだ。
茉莉「秋も後悔することあるんだね。」
紅『ね。私もびっくりだったよ。』
茉莉「でも無事合格してよかったね。」
紅『だね。』
茉莉「紅もね。」
紅『私は楽しただけだから。』
茉莉「そう?」
紅『うん。推薦でちゃちゃっと決めたの。』
茉莉「受験方法何も分からないや。」
紅『私も1年前は何も分かってなかったよ。今からでも大丈夫。』
茉莉「そもそも受験するか迷ってるんだよね。」
不意に今の茉莉の悩みが吐露された。
それほどまでに紅のことを
信用していたのかな。
秋も相談となれば
真摯に聞いてくれるだろうが
どこか茉莉自身壁を隔てていた。
それに対して紅には
自ら近づこうと頑張っていたような。
秋は放置していてもぐいぐい来られる。
だから苦手意識でもあったのだろうか。
自分のことはいつまでも不明瞭なまま。
紅『うーんそっか。』
茉莉「そう。」
紅『お兄さんや親御さんは何て言ってるの?』
茉莉「高校は行っとけだって。ま、そりゃそうだよね。」
紅『高校進学までは常識みたいなところがあるもんね…。』
茉莉「だよねー。」
手を前へと軽く伸ばす。
ぽきっと肘が鳴った。
体は思ったより凝っているのかもしれない。
茉莉「正直高校行ってもやりたいことがないからなーって思って。」
紅『そんなの、多くの学生がそうだよ。』
茉莉「そうかもだけど…後、学費が高いからってのもある。」
紅『あー…私立だと尚更ね。公立なら多少は安いよ。』
茉莉「ほんと?」
紅『うん。』
茉莉「紅はさ、どうやって進学を決めたの?」
紅『高校じゃなくてそもそも進学を決めた理由かぁ…私は何となくだよ。』
茉莉「そうなんだ。」
紅『うん。でも、高校は物凄く悩んで選んだ。』
茉莉「今後通う高校?」
紅『そう。』
茉莉「決め手は?」
紅『普通科の他に音楽系のコースがあるの。私は普通科なんだけど、部活で一緒になったいいなって。』
茉莉「合唱部とか吹奏楽とかだと接点持てそうだよね。」
紅『そうなの!だから…自分を変えられるかなって思って…。』
紅は意気揚々と話していたのに
急に塩らしくなった。
もじもじとした声が耳に届く。
茉莉「自分を変える…かぁ。」
紅『うん。その為に学校に行くようなものなのかも。』
茉莉「…?」
紅『自分を変えるために高校進学を決めたところもあるのかもなって…。』
自分を変える為に。
茉莉は…。
…茉莉も、自分を変えたい。
どうでもいい、
なんでもいい、
好きなことがない。
この性格を変えたい。
変わりたい。
それはいつしか生まれていた
茉莉の中での燃えるような願い。
音楽に手を出したのは何となくだった。
理由なんて後で沢山つけられる。
理由、つけたっていいじゃんか。
変わりたいから。
それでいいじゃんか。
それから。
°°°°°
「まつりー!」
°°°°°
今はもう会うことの出来なくなった
友人へこの音楽を届ける為。
それでいいじゃんか。
いつまでも探し続けている
大切な大切な友達に
茉莉の歌が届くように。
それでいいじゃんか。
茉莉「……ありがとう。」
紅『えっ…!私は何もしてないよ。』
茉莉「ううん、大切なこと聞いた。茉莉、受験するよ。」
紅『ほんと…!』
茉莉「うん。頑張ってみる。」
紅『頑張ってね…!』
茉莉「ありがと。勿論。春休みの間に沢山曲作って、ストック沢山蓄えておくから!」
紅『ふふっ、勉強で分からないことがあったら…私、答えられるか分からないけど教えるからね!』
茉莉「わーい助かるー!」
子どもらしく両手を上げて喜んでみる。
茉莉はずっと子供っぽくない、
中学生らしくないと何度も言われた。
レッテル貼りをされているのか
大人っぽくいなきゃって
思うようになっていた。
けれど、誰も見ていない時くらい
子供っぽくてもいいだろう。
茉莉はまだ未熟。
14歳。
少しでも大人になれるように、
自分を変えられるように、
友達を見つけられるように、
未来へ進めるように。
1歩だけ踏み出せたような気がした。
来年の春はどんな桜が
咲き誇っているだろう。
来年の桜吹雪を夢見てる。
°°°°°
雑草の生い茂る中を
ただ体の赴くままに
ふらりふらりと歩く。
たまに木の枝に
肌を引っ掻かれながらも
まるで目的地があるかのように
勝手に動いていく。
髪がじっとりと頬にくっつく。
雨は私を隠すようにと
強さを増す一方だった。
陽奈「…?」
道中、傘がひっくり返ったまま
転がっているのが見えた。
幸いなことに放置されて
まだまもないようで、
雨水もそんなに溜まっていない。
さっき人が通ったばかりなのかも。
もしかしたら、帰れるかも。
人の通る道が近いのかも。
傘をゆっくりと拾い上げて、
中の水を捌ける。
頭の上にさすと、まだぽとりと
雫は垂れてくる。
けれど、一寸先も見えないほどの
大雨に打たれるよりは幾分もマシ。
私の体は人のいる道を
探しているのかと思ったが、
それに沿わずまた
勝手に動き出しては
痛む足と共に同じように
人のいなさそうな方へと向かっていった。
°°°°°
2022/4/18
3月中頃、足先が凍えるほどに
寒かったはずが、
今では汗ばむほどに暖かくなっている。
20℃を超える日は多々あり、
日差しのせいか悠々とした雰囲気が
あたりを包んでいる。
何度か1桁しか表示されない
寒い日もちらほらあったが、
暖かいのが普通だと
世の中に浸透しつつあるような。
私はといえば、
今は学校の図書館で
ぼんやりしているところだった。
新入生テストも終え
一息つける期間。
中高一貫の女子校だったこともあり、
周りでは1部既に仲良しグループが
形成されていた。
一貫校とは言えど大部分は
高校から入学している。
中学校は小規模だったみたい。
陽奈「……はぁ…。」
4月だからだろうか。
勉強する人もほぼおらず、
かと言って本を読みに来ている人も少ない。
私のため息だって誰にも
聞こえていないだろう。
今日は部活がないのだ。
とはいえ18日。
新曲投稿の日。
早く帰ればいいものの
何故だか私の足には根が張ったのか
学校から離れたくないと言い出した。
変われないな。
変わってないね。
そう言われているような。
私は極度の引っ込み思案だと
自分で分かっている。
だからこそ高校では変わりたかった。
色々な人に声をかけて
快活なイメージを持ってもらいたかった。
それこそ秋ちゃんのように。
…なんて。
ネット上でも現実でも
友達を作るのは苦手だった。
今現在、偶々後ろの席に座っていた人と
仲良くさせてもらっているが、
話しているだけでも緊張するし
何だかタイプが違う気がしている。
離れ離れになるのだって
時間の問題だろう。
陽奈「…はぁ……。」
ため息が無意識のうちに流れ出る。
溜まりきった鬱憤を
ここに吐ききろうとしているのか。
鬱憤は…ないと言ったら嘘になる。
まずは歌だ。
私は歌うのは好きだが上手くはない。
それはYouTubeでの伸び方に
顕著に表れていた。
右肩下がりもいいところ、
おまけに主な活動は歌唱ではないメンバーの
歌ってみたの方がオリジナル曲や
私の歌ってみたより伸びている。
自分でも歌が下手だとは分かっている。
筋トレが苦手だから
腹筋を上手く使えていないところだとか
喉が弱くて上手く
盛り上げられないところだとか。
理想が高すぎるのだろうか。
同い年でも歌の上手な人なんて
ごまんといるのだ。
だからこそ焦っている自分がいた。
陽奈「…。」
今出来ることをするしかない。
それは分かっていても
どうしても理想と現実のギャップや
未来の不安には足を掴まれる。
出来ることをするしかない。
その考えにたどり着いた私は
合唱部に所属した。
歌を歌いたかった。
歌う時の専門知識を身につけたかった。
だから。
いざ入ってみると
私には彼女らが異質に映った。
この学校は普通科と併設して
音楽科が存在する。
それもあってか音楽系の部活の
多くの生徒は音楽科所属だった。
そこでまず自分の未熟さを思い知る。
発声から違うのだ。
何もかも、初めから。
その時点で心が折れそうだった。
今は部活に入って1週間も経っていない頃。
それでも既に辞めたいなんて
甘ったれた考えが浮かぶ。
陽奈「…っ。」
ぶんぶんと頭を軽く降り
邪念をあちこちへと振り払う。
駄目だ、変わるんだ。
その為に頑張るんだ。
絶対中学の頃と変わってないなんて
誰にも言わせない。
そういえば。
ふと、従姉妹であるいろはの顔が過ぎった。
陽奈「…。」
机の上に広げられた水曜日までの課題を
ぼんやりと見つめた。
いろはも理想と現実の
ギャップに悩む1人だ。
だけど、あの子に関しては
理想が高すぎるのだと思う。
現実が見れていないというか、
今の自分の力に気づいていない。
中学2年生の画力でないのだ。
私からすると
いろはは才能があると思っているのに
本人は才能なんてなかったと溢す。
私からすれば何がそんなに駄目で
何がそんなに苦しいのか分からない。
先月末、いろははTwitterに帰ってきた。
それまでの期間、約1か月程は
何も言わずにネットから姿を消し、
現実でも私から距離を取った。
必要最低限のLINEしかせず、
家に押しかけても時に出てくれない。
LINEとは言えど頼んだイラストが完成したら
1枚ぽんと流れるだけ。
できたよの言葉すらなく淡白に。
従姉妹の私も流石に悲しかったが、
引きこもっているのではなくて
変わろうとしている証拠なのだと捉え、
信じて待つしかなかった。
そしていろははがらりと変わり、
急成長して帰ってきた。
大量の紙束の写真と共に
「私に才能なんてなかった」
とひと言付け加えて。
そして、「上手くなりたかった」
ともツイートしていたっけ。
よくそんなことが言えたな
…と、私はちょっぴり嫉妬に
身を委ねたことは記憶に新しい。
彼女には努力の才能がある。
なのに、それに気づいていない。
1番盲目であると言っても
過言ではないだろう。
身近に才能のある人がいるのは
それだけで苦しいのだ。
才能がある人はある人で
苦しんでいるんだろうけれど。
陽奈「…………ふぅ…。」
何度目かすら分からない息が
図書館を濁していった。
はっとするといつしか人は減っており、
残るは司書の方と私と
そしてたった数人のみ。
2、3人生徒はいるかどうかだろう。
時間を確認してみると
あろうことかもう17時。
投稿まであと少しとなっていた。
その事実が過る度に
自分の歌の下手さを呪うのだ。
きっと悲観的になりすぎているのだろう。
それでも、客観的に捉えていると言えば
そうとも言える。
自分に自信がない。
その一言に尽きた。
MIX担当の秋ちゃんは
いつも自信ありげ。
MIXを始めたての時は
今とは違って初心者だった。
今では大きく成長して
違和感がだいぶ減ったように感じる。
本人はまだ模索中って言ってたっけ。
私と同様答えがなく終わらない道を
歩いているのかもしれない。
作詞作曲と映像を担当している片時ちゃんは
音楽をやったことがないのに
あんなに凄い曲を作っている。
本もあまり読まず音楽も大して
好きではないと溢す彼女だが、
きっと双方に愛されたのだ。
愛されたという表現は
あまり好きではないけれど、
その言い方が妙にしっくりきた。
適当にやっているだけ、と言うけれど
適当でそんなにも出来るその感覚が
羨ましいなんて思った。
そしてイラストを担当しているいろは。
近しいからこそ嫉妬してしまう。
いろはは昔からよく
私の歌を褒めてくれていた。
だから歌える気になっていた。
上手くなったと思い込んでいた。
勿論いろはのせいと行っているわけではない。
今となってはあまり褒める事もなくなったな。
ネットに自分の歌を投稿していて思う。
私は誰かに見せびらかす歌が
好きなのではなくって、
ただ自分が楽しむためだけの
音楽が好きなんだって。
流行を気にして数字を気にして
打ち込む音楽なんて楽しくないんだって。
それでも私はグループに所属しているんだ。
少しだけ勇気を出して、
歌に本気になって向き合いたい。
そうやって昇華していくしかなかった。
息を深く吸うと再度
ため息が顔を出しそうになった。
そんな時。
「あの。」
陽奈「……え?私…ですか…?」
「えぇ。」
ばっと勢いよく顔を上げると
眼鏡が揺れて若干ずれてしまった。
見知らぬ人?
クラスの人?
それすら緊張と動揺で判別がつかず、
マスクの下でぱくぱくと口を動かすのみ。
くるくるな癖っ毛が頬を擽った。
「さっきからため息ばかりでどうしたのかなって。」
陽奈「あ…あぁ……えっと…。」
「ふふ、そんな焦らなくても。隣いいかしら?」
陽奈「あ…はい…。」
高い位置で2つ結びをしていて、
お嬢様と言わんばかりの
溢れるオーラを纏っていた。
しなやかな手つきで
音が鳴らないよう静かに椅子を引き、
端正な姿勢で腰をかける。
その所作ひとつひとつが
優雅にハープを奏でるようで
目が離せなくなっていく。
「…?どうしたのかしら。」
陽奈「い、いえっ…何もない…です。」
「そう、よかったわ。」
陽奈「えっと…」
美月「私は雛美月って言うの。あなた、確かBクラスに居たわよね?」
陽奈「えっ…そうですけど…何で?」
美月「同じクラスだったから見覚えがあったのよ。」
陽奈「あ、同じクラス…!」
美月「えぇ。席は離れているから関わりがないものね。」
私は「や」から始まる苗字の為
いつも窓側の席になる。
なんなら隅っこだ。
そのため、教室を見渡せるのはいいものの
交流は狭いままで。
いや、席のせいではないか。
正直きらきらしている同級生は沢山いて
みんな同じ顔に見えていた。
みんなお化粧していたり、
髪を巻いてきたりもして。
それに比べて私は何もしていない。
巻かずとも元より髪の毛は
くるくるなくらい。
きらきら同級生の1人に
雛さんが紛れていたんだろう。
雛…。
雛と言えば、何かの出席確認の時
呼ばれていたような…。
陽奈「…あ、雛さんってあの…。」
美月「…?」
陽奈「あ、えっと…私、名前が陽奈だから…呼ばれたって勘違いしちゃったことがあるんです。」
美月「そうなのね。それで思い出してくれたの?」
陽奈「あ、はい…。」
美月「陽奈って言うのね。可愛らしい名前じゃない。」
陽奈「そんなことない…です。」
美月「よろしくね、陽奈。」
陽奈「あ……は、はい…雛さん、よろしくお願いします…。」
美月「同い年なんだしそんな固くしなくたっていいわよ。」
陽奈「そ、そう…かな…?」
美月「えぇ。それに、雛だと紛らわしいでしょう?美月でいいわ。」
陽奈「え、えっと…じゃあ美月ちゃん…。」
美月「うん、その方がいいわ。」
美月ちゃんは姿勢を正しながらも
私の方に緩く顔を向けて
にこやかに笑った。
陽キャに絡まれるって
こんな気持ちだったと思い出す。
辿々しくしている自分に腹が立つも、
ここでうえーいと声を上げても
いつもと違くね?
話せば頭おかしいやつだった?
と思われるのがオチだ。
ましてや図書室。
そんな声を上げて陽キャっぽく
高い声で笑うなんて出来ない。
声を小さくしなければいけない分、
尚更私の小心者な部分が
全面的に押し出されているような。
ひそひそながらに凛とした
筋のある綺麗な声が耳を掠める。
美月「陽奈って本が好きなの?」
陽奈「本…あんまり読んでない…です。」
美月「そう。じゃあ勉強の為に来たのかしら。」
陽奈「うーん…ぼうっとしたくて。」
美月「へ?ふふ、それもいいわね。」
陽奈「えと…美月ちゃんは本が好きなの?」
美月「ええ。3年間でここの蔵書を全て読めればと思ったけど、勉強もあると思えば厳しいかもしれないわね。」
陽奈「ぜ、全部…!?」
美月「そんなに驚くことかしら?」
陽奈「お、驚くよ…!」
全部となれば一体何冊あるのだろうと
ふとぐるり、図書室内を見回した。
市民図書館等と比べれば
蔵書数は遥かに少ない。
にしても全部とは。
相当な時間がかかるはずだ。
それこそ夏休みや冬休みの
長期休暇を利用しても
私だったら読み終わるかどうか。
そんなに本が好きなんだ。
好きなことを好きって
言えるってかっこいい。
身近な人で例えるなら
それこそ秋ちゃんみたい。
いろはは絵を描くのは得意だけど
好きとは一切言わなかったから
美月ちゃんとはまた違う印象があった。
陽奈「凄いね、美月ちゃん。」
美月「そんなことないわ。」
陽奈「ううん、凄いよ…!」
美月「そんな持ち上げなくていいわよ。それより陽奈の話をしましょうよ。」
陽奈「え、私…?」
美月「えぇ。陽奈は何か好きなことってあるかしら?」
陽奈「好きな…。」
好きなこと。
それは1択と言っても過言ではなかった。
歌うこと。
広く挙げると音楽を聴くこと。
そして、やっぱり歌うこと。
けれど、私は好きなことを
声を大にして好きと言えた覚えは
幼少期の頃以来ない。
ましてや今、理想から
かけ離れている現実に幻滅しているのだ。
好きだ、なんてどうしたら言えようか。
陽奈「えっと…ない…かな。」
美月「あら、簡単なことでもいいのよ?」
陽奈「簡単な…?」
美月「えぇ。散歩が好きでも、食べることが好きでもなんでも。」
陽奈「あ…うん、じゃあ…音楽を聴くこと。」
美月「いいじゃない。素敵だと思うわ。」
陽奈「そ、それこそ言い過ぎだよ…!」
手をぶんぶんと顔の前で振ると
服が眼鏡に当たり、
からりと虚な音が鳴る。
慌てて眼鏡を元の位置へ戻すも
さっきと変わらない風景が
解像度良く映るだけ。
ふと、我に帰る。
待て待て。
この状況はなんだ?
確かに美月ちゃんは同い年だし
同じクラスだ。
だけど急に話してくるものか?
何か裏があるんじゃないか?
じゃなかったらこんな
アニメや漫画のようなことが
私に起こるはずがないじゃないか!
裏があるはず…。
裏が…。
そう思って恐る恐る
美月ちゃんのことを横目でちらと見ると、
彼女はどこを見ているのか
ぼうっとしているようだった。
私の方ではなく本棚の方を見ているような。
ほら。
私に興味なんて微塵もないに決まってる。
以後活用できそうだから
仲良くなっておこうと思ったのだろうか。
見た目はよく真面目そうと言われるが
勉強は人並み以下にしか出来ない。
対して役に立てない癖して
見栄だけは一丁前に張るのだ。
だからいつも無駄な苦労をしている。
そんな気がしている。
私にいいところなんて…
美月「陽奈?」
陽奈「あ、へ?」
美月「聞いてた?」
陽奈「あ、あぁ…ごめん、ちょっとしか…。」
美月「あら、そう。私、少し席を外すからそこで待ってて欲しいの。いいかしら?」
陽奈「うん…も、勿論。」
考え事をし過ぎた。
美月ちゃんが話しかけて
くれていることに気づかず
自分の内面の声ばかり聞いてしまった。
よくないよくない。
また、小さくだが頭を振る。
疑うのも程々にしなきゃ。
本当にいい人かもしれないし。
けれど、本当に裏はないと言える…?
…このままでは無限ループに入ってしまう。
その未来が見えたからか
考え事を1度すっぽかすことにした。
美月ちゃんの姿を探そうと
本棚や貸出所に目をやっても
どうも姿が見当たらない。
1度図書室を出たのだろうか。
それすら見てなかったなんて、
と自分自身の行動に驚いている。
思えば室内からは人がいなくなり、
私と司書の先生しか居ないような。
美月「お待たせ。」
陽奈「ひぁっ!?」
美月「わっ…そんな驚くこと?」
陽奈「び、びっくりしちゃって…。」
美月「ふふ、変な子。」
そう言うと再度私の隣に腰をかけた。
それと同時に手中にある
何冊かの本を机の上に優しく乗せて。
陽奈「それ…借りるの?」
美月「いいえ。陽奈におすすめしようと思って。」
陽奈「えっ…?」
美月「迷惑だったら言ってちょうだい。」
陽奈「い、いやっ…そんなことないよ…!」
美月「ならよかったわ。ここで会ったのも何かの縁。それに、「ひな」繋がりで親近感が湧いたの。だから私の好きな世界のこと、ちょっとだけでも知ってほしいなって。」
陽奈「…好きな…。」
美月「それと同時に陽奈の好きな音楽のことも知りたいわ。」
陽奈「え?」
美月「こんなのはどう?2週間に1回、私は陽奈へおすすめの本を、陽奈は私におすすめの音楽を持ってくるの。」
陽奈「えっ…えっ…!?」
話が飛躍し過ぎて
全くと言っていいほど頭が追いつかない。
なんだ?
何が起こっているんだ?
私は今までそんな広い交流関係を
持ってくる方ではなかった。
寧ろ狭い繋がり、
それこそ2、3人の友達と
毎日ひそひそと細く
生きているだけ。
なのに、高校入学して直ぐに
こんなはきはきとした陽キャの子に
話しかけられるなんて夢ではないか。
しかも、今後も関係を続けたいと
いうような内容を
申し出されている気がする。
血の気が引いた。
私、一体前世で何をしたんだ?
美月「どうかしら。」
陽奈「い、いいとおみゃっ…思う…!」
美月「ふふ、焦り過ぎ。」
陽奈「あ、あはは…。」
美月「じゃ、私から。」
美月ちゃんはあくまで
声を上げて笑うのではなく
静かに微笑んで笑うようで。
何だかおどおどして
困ったら適当に声を少しあげて
笑っている私が滑稽に思えてくる。
だが、これは長年の間に
染み付いてしまった
習慣であり、人格であり。
だからすぐに治せなんて言われても
出来るはずがなかった。
それから美月ちゃんは
小説をお薦めしてくれた。
幾つかジャンルを分けて持ってきてくれて、
ミステリーやSF、純文学など様々。
結局、読みやすいと評価していた
現代作家の書く現代ファンタジーの
小説を借りることにした。
本を読むのは久々だ。
表紙をひと撫ですると、
その作者の思いがじんわりと
滲み出てくるようで不思議と
心が穏やかになった。
小学生の頃はよく読んだものだ。
それ以降は国語の授業でしか
主に読まなくなり、
次第に嫌悪感が混ざっていったけど、
人のおすすめとなると訳違う。
そして、私のお薦めの曲を伝える。
最近聞いている歌い手さんのオリジナル曲だ。
声が透明で透き通っているようで、
聞いていて海に浮かぶような気持ちに
なれるので好きなのだ。
曲も水を表したような
軽快かつ鮮明で美しいの。
歌い手さんの声質と相まって
耳馴染みが恐ろしくよかった。
脳内ではこうも熱く語っているが
勿論表面上では何も言わない。
美月ちゃんの提案で
するっとLINEを交換した後、
そのお薦めの曲のリンクを送る。
その間も、手元に残る本は
私のことをじっと見つめているようだった。
美月「うん、届いたわ。帰ったら早速聞いてみるわね。」
陽奈「う、うん…私もこれ、読むね。」
美月「えぇ。感想楽しみにしてるわ。」
そう言われちゃあ読まざるを得ない。
逃げれないなと私の心が勝手に呟く。
本を読むことが苦手なつもりはなかったが
使命感でするとなると、
なんというか、こう…
のしかかるようなものがある。
うっとくるというか。
精神的圧迫が微々ながらするのだ。
それは期限が迫る毎に
どんどんと体重を増やす。
受験や宿題の時もそうだったと過る。
少しばかり嫌な顔をしてしまっただろうか。
美月ちゃんは緩やかな風のように席を立ち
鞄を肩にかけてこちらを見た。
美月「そろそろ下校時刻よ。出ましょ?」
陽奈「へ?あ、うん…!」
美月ちゃんからお薦めしてもらった本を、
ほんの僅かでも美月ちゃんの温度が、
気持ちが伸び染む本を
両手でしっかりと持った。
誰もいなくなった後、
図書室で2人でひそひそと
話しているのは楽しかった。
司書の先生は何か作業をしていたのか、
それとも気にしていなかったのか
私達の会話を邪魔することはなかった。
陽奈「あ、あの…!」
美月「何かしら?」
陽奈「えっと…何で話しかけてくれたの…?」
美月「同じクラスの人がそこにいたのよ?話しておきたいじゃない。」
陽奈「え…そんなもんなのかな…?」
美月「少なくとも私はそうってだけよ。」
マスクの下では僅かに口角が上がり
そこに春は芽吹いているだろう。
美月ちゃんはまるで春。
この季節にもってこいの色を、
雰囲気を滲ませて私に微笑んだ。
あぁ。
この人みたいになりたい。
分け隔てなく誰とでも話せて、
そして誰かに自分の好きをお薦めできて、
それから、自分を持っている人。
私は憧れてばかりだった。
それだけじゃ駄目だ。
1歩、踏み出すんだ。
陽奈「美月ちゃん…!」
少しばかり勢いがついたのか
眼鏡がかたりと微振動。
揺れる世界は恐ろしい程に
桜色で満開だった。
私の世界は目一杯に春色。
陽奈「こ、これからよろしくね!」
美月「えぇ。こちらこそ。」
美月ちゃんは優しく笑ってくれた。
これが本心なのか、
本当の姿なのかは分からない。
けれど、まず自分が相手を信用しなければ
きっとここからは進めない。
私は1歩、踏み出したんだ。
今日は4月の18日。
新曲が投稿される日だった。
これから毎日自主練をしよう。
歌の練習。
苦手な歌にも挑戦しよう。
得意な系統はもっと伸ばそう。
歌い方の研究してみよう。
メンバーのみんなに意見を聞いてみよう。
色々なことを、出来ることをやってみよう。
1歩、また1歩と踏み出してみよう。
あなたへ歌を届けよう。
そうやって明日へ進んでみよう。
きっと何かが変わるから。
世界が開けてゆくはずだから。
新声活が始まった。
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2022/5/18
茉莉「うん。じゃあ落ちるねー。」
白『うんうんー!またねー!』
紅『またね、茉莉ちゃん。』
秋『おうおう、またのー若人よー。』
ひと声かけてぽろろん、と
通話終了のボタンを押す。
ふぅ、とひと息つくと
随分と狭い部屋の壁が
迫ってくるように見えた。
茉莉「…喉乾いたー。にーちゃん水ー。」
隣の部屋にいるであろうにーちゃんに
それなりの声の大きさで音を飛ばすも
返事はなかった。
しん、と家は静かに佇んでいて
生きてる心地がしない。
茉莉「寝たのかな。」
時計を見てみれば何ともう
23時近くなっている。
通話始めが確か19時だったか
20時だったか。
何時間もぶっ通しで作業しながら
通話してたんだ。
そりゃこんなに喉が乾くわけだ。
よいしょ、なんて口に出して
くっついてしまったかのように思えた
お尻とクッションを引き離す。
根っこが生えたかのように思えた足は
ぎくしゃくしながら痛みを訴えてくる。
同じ体制で居すぎた。
きっと茉莉は大人になったら
色々体にがたがくるだろう。
今でさえきているのだから。
茉莉「…思ったけど鯨のメンバーに運動できる人っているのかな。」
雨鯨のメンバー。
雨鯨。
茉莉達のグループ名の略だ。
茉莉達の中ではそういう省略の仕方をしている。
白がイラストを、
紅が歌をメインに時々作詞、
秋がMIXをメインに時々映像、
茉莉が作詞作曲と映像を担当していた。
4人でひとつのグループだ。
この歳になるまでずっと
団体行動が苦手で避けてきた茉莉にとって
今の状況は異常事態と言っても過言じゃない。
茉莉「…成長…したのかなー…。」
ぐーっと伸びをひとつ。
そしておまけに欠伸付き。
やはり家は静かで、
茉莉の出す音以外は
どこかに吸い込まれているのかと
疑ってしまうほどここにはいない。
いない。
音がいない。
茉莉「…っぱ寂しいね。」
適当にスマホを操作してYouTubeを開き
ぱっと目に入ったゲーム実況動画を
徐に再生する。
マインクラフトを縛りありで
遊ぶというものらしかった。
茉莉「…にーちゃんー…?」
念のためもう1度呼んでも返事はなかった。
仕方ない。
自分で水を取りに行こう。
作業机のある部屋から出て
すぐ近くのキッチンの元へ。
…そこを通り抜けて玄関の方へ。
にーちゃんの靴はなかった。
茉莉の学校用の靴だけ
切なくぽつりと。
茉莉「…あー、今日飲み会だっけ。」
サークルでの飲み会があるって
朝言っていた気がする。
そっかー。
そうだったー。
じゃあ十分羽を伸ばせそうだ。
にーちゃんと2人暮らしを始めて早4ヶ月。
喧嘩する時は勿論あったし、
逆に2人で馬鹿騒ぎだってした。
徹也さんと久美子さんのいない生活は
何とも新鮮で味気なくて自由すぎる気がした。
徹也さんと久美子さんの
親にあたる2人は死んだわけじゃない。
にーちゃんは大学が関東だから出れない中
転勤が決まってしまった。
行き先は宮城。
引っ越しは慣れっこだったけど、
とある1人の友達に会いづらくなるのは
どうしても嫌でにーちゃんと
関東に残ると言い張ったんだっけ。
そしたら話し合いの末何とか承諾を得て
2人で暮らすことになった。
茉莉「あ、と…。」
コップを手に取ると滑って落としかける。
ひやっとした、あの特有の寒気が体を支配する。
ま、大したことはないかと
すぐに忘れていくんだけど。
2人で暮らす中ちょっとした
ルールはちゃんと決めた。
主にお金やネットマナーとか。
家事分担はするまでもなく
茉莉がすることになったけど、
日々暇なので全然問題はなかった。
中学校生活も残り1年。
今年、受験するのか就職するのかを
決めなくてはならないのだ。
茉莉「…。」
ごくごくと一気に冷えた水を流し込む。
骨の髄から冷えていく。
心地いいような異物感。
茉莉「進路…どーしよっかな。」
今、みんなと曲を作って投稿して。
それからゲーム仲間とゲームして遊んで。
そんな変わらない日々を送っている。
けど、変わらない日々なんて言いつつも
1年前と比べたら大きな違いだ。
1年前はゲーム仲間とも会っていない。
曲だって勿論作ってない。
雨鯨のみんなにだって会ってない。
茉莉「色々変わったなー。」
コップをシンクに置く。
洗うのは…あとでいいや。
それから羽織を1枚着て、
玄関の方へすいすいと泳ぐように歩く。
夜に、会いに行こう。
明日は学校があるが
そんなこと知ったこっちゃない。
今は学校より大事なものがある。
感覚に任せてこそ得られるものがある。
我ながら子供らしい考え。
家の鍵を手に取りながら
そんな思考を巡らした。
茉莉「行ってきまーす。」
誰もいない、静かな家。
一旦のさよならを告げた。
***
茉莉「…うう、寒い。」
もう5月だってのに
夜中や朝はまだ冷える日が多い。
が、12月とか2月に比べりゃ
こんなの比でもないか。
今日は少しだけ遠くの公園まで来てみた。
ここは人通りの多い道路からは
外れているが街頭のおかげで
明るさを保っている。
早速お気に入りのブランコに乗って
持ってきたメモ帳を取り出す。
ぱ、と開くと中には汚い汚い文字。
とりあえず浮かんだストーリーや言葉を
ざっくばらんに書いているせいだ。
見づらい。
ちゃんと整理して書けばよかった。
いや、けど整理してる間に
浮かんだものを忘れるのは嫌だ。
なんなら1番嫌だ。
…けど、せめて行には沿って書けばよかったな。
…歌詞やメロディーの構想が
雑に、汚い、でも生き生きとしている。
そんな文字列、記号ら。
ひと言で言えば煩いのだ。
あの家とは大違い。
茉莉は未だに音楽知識はない。
好きなコード?
何となくあるけど好きってほどでもない。
そんな感じだった。
茉莉「…浮かばないなー。」
そんな日が多い。
最近は特に。
作り続けるにも限界があると
言われているようでならなかった。
こんな時はいつも
昔のページを読み返す。
どんなのを作ってきたんだろう。
どんなのを残してきたんだろう。
今日までどうやって歩いてきたのか
つい不思議になって覗くのだ。
茉莉「…今日は最初から。」
最初のページ。
「君に傷を」。
これを見るたび、
白に出会った時のことを思い出す。
茉莉「まさかこんな形になるなんてね。」
茉莉が声をかけたのが最初だった。
あれはまだ去年の11月の話だ。
°°°°°
夏あたりに短めの曲をひとつ
投稿して以来作詞作曲とは
無縁の生活を送っていた。
が、ふとまた作ってみたくなって。
その頃文字素材とか
教えてもらって作り始めたな。
ふと浮かんだのが
歌で物語を紡ぐ超大作。
今まで完成まで持って行けたのは
1曲しかないのに。
しかも140秒の短いやつ。
無謀な挑戦。
それでもやってみたくなった。
そのためにはイラストも
ちゃんとしたのを用意したい。
その1、2ヶ月前に
ゲーム仲間の間でとある
Vtuberの名前が出た。
気になってそのVtuberのイラストを
Twitterで見てみると
どうやら新衣装とやらを
発表していたらしい。
沢山あるファンアートのうち、ひとつの絵。
それが白の絵だった。
絵柄がちょっと特殊な気がして
プロフィールをみると
なんとなんと13歳。
多分茉莉と同じ学年かひとつ下。
実際ひとつ下という事が
のちに分かったんだっけ。
ほんとにびっくりした。
才能を持つ人って
こういうことを言うんだろうなって。
そして11月にまた戻り。
イラストを頼むのはこの人にしようと
どこかしらで決めていたのかもしれない。
思い切ってDMしてみた。
怖かったし緊張した。
どんな人なんだろう。
ツイートを見る感じ
そんな悪そうな人じゃないけど。
時々スペースにいることから
結構話すのには抵抗ない人なのかな
とか勝手に妄想しちゃって。
それが茉莉と白の出会いだった。
DMをする中で、
白には従姉妹がいることを知った。
その従姉妹が紅だ。
紅は随分と引っ込み思案らしく
歌はうまいのに機会がない、
それは勿体無い!
…というのが白の意見だった。
ボカロで絶対歌わせるって
予定があるのなら全然構わないが
もしよければ従姉妹に
歌わせてくれないか。
そんな提案が舞い込んだ。
茉莉の人生がふら、と動いた気がした。
物凄く気まぐれに。
茉莉自身公表していない
幻と化した2曲目では
ボカロの声調が出来ず断念。
Twitterに載せるのはやめた。
ゲーム仲間には音源を渡して
聞いてもらったけどそれっきりで。
だから、こんなありがたい話
他にはないって思った。
それからさらに時が経ち、
歌を上げるには何が必要かとか
名義はどうするのかとか
色々DMで話してた。
まだ通話はしてなかったな。
そこでMIXする人が必要だってなって。
でも誰も出来ないから探そう、
4人目を探しに行こうってなったの。
この辺りで年齢とか学年を教えあったっけ。
紅が中3、茉莉が中2、白が中1。
ここまで年齢が近い人が
集まるなんてそうそうないって思ったから
MIXもせっかくなら
中学生で出来る人を探そうなんて
白が言い出した。
しっかり覚えてる。
ほんと突飛な人だ。
けど、簡単に見つかるわけなくて。
映像とかと少し訳違って
MIXはだいぶ技術がいる。
中学生でMIXしてる人はいるも
しっくりくる人はなかなか見つからず
暫く時は経った。
年末年始あたりだっけ。
初めて白と話すことになった。
その日のことはまだ覚えてる。
『もしもーし。』
茉莉「もしもし。聞こえる?」
『おー!聞こえるー!』
のほほんとした声なのは
想像通りだった。
こんなにも印象とばっちり
合う人が来るとは思ってもいなかったな。
白『初めましてー。さとーです。』
当時はまだ名前もチーム名すらも
考えられてなかったから、
白はTwitterの名前を
名乗っていたのを覚えている。
さとーっていうのがまた
白にぴったりな抜け具合だった。
茉莉「通話では初めまして。」
白『おおー、可愛い声だぁー。』
茉莉「確かによく特徴的って言われます。」
白『いいですねー、素敵ですー。』
お世辞なのか本心なのか
わからなかったけれど、
褒められて変な気はしなかった。
貶されているわけではないし、
まあいいや、って思ったんだ。
通話をしながらかちかち
パソコンでTwitterを眺めながら
自然の流れでMIX師を探すことになった。
昨日今日で見つかれば
運はいいだろうが、
きっと1か月から半年ほどは
かかってしまうだろう。
ぼうっと通話していると
何だか不思議な感じがした。
この家には兄ちゃんはいるけれど、
他の人とこんなに長く
話したことがあまりなかった。
それこそゲーム友達くらいだろう。
リアルでは殆ど友達と
呼べる人がいなかったのだ。
引っ越しが続いたせいで…
といったら卑怯かもしれないけど。
刹那、話していた内容を止めて
「あ」と白が声を上げた。
白『見て見て、この人!リンク送るねー。』
茉莉「うん。あ、この人?」
白『そう!ユーザーネームが面白い人。』
茉莉「確かに…中学生MIX師(仮)…?」
白『MIXは…したことはないみたい。』
茉莉「なるほど。」
白『決めた!この子にしようー!』
茉莉「え、唐突すぎません?」
白『いやいや、勢いが大事ですよー。やばい人だったらまたその時考えればいいからー。』
茉莉「でも…軋轢が生まれた後じゃ…。」
白『大丈夫。大体何とかなるからー。後、敬語はめっ。私が1番年下ですし。』
茉莉「えー、じゃあさとーさんもタメがいい。」
白『いいんですかー!』
茉莉「うん。っていうかグループ全体的に敬語なしにしない?」
白『さんせーい!』
°°°°°
「君に傷を」の制作は
ばたばたしていた気がする。
グループ名や名義を決めて、
曲もイラストも歌も何とかできてたから
秋を引き入れてからMIXを頼んで。
なんだかんだで案外いい
名前になったと思う。
グループ名だって、
ちゃんと意味が込められている。
主に考えていたのは白と秋だっけ。
18月には想像を超えただとか、
枠組みに囚われないだとか
そういう意味を持たせている。
鯨には、そのくらい大きな
夢や希望を持っていようという意味。
そして雨には大きな意味合いがあった。
個人の名義にも関係してくるけれど、
グループのテーマとして雨があがった。
僕らには雨が欠けている。
それがテーマだった。
片時雨。
冬に降る雨のことで、
空のうち片方では時雨が降って、
もう片方では晴れている天気のこと。
茉莉には雨が欠けている。
そしてみんなにも雨が欠けている。
茉莉「…。」
引っ越しが多かったからだろうか。
みんなとはそう長く
いれるような気はしていない。
きっとすぐに切れてしまう
繋がりなのだろうとすら思う。
けれど、もしかしたら
生涯関わるような友達になるかもしれない。
それは、茉莉がみんなと
向き合うことができれば。
茉莉の過去のことを
話してもいいかなって思えるのであれば。
それは多分…。
…。
…。
…茉莉は、変化が怖い。
だから今がずっと続けばいいと
思い続けている。
今も尚。
茉莉「…時間が止まればな。」
ブランコの上で
片方の膝だけを抱えて
小さくゆらりゆらりと揺蕩った。
違う4人の同じ時間が続けばいいのに。
-----
2022/6/18
私は、絵を描くのに向いていない。
それを知ったのは中学1年の頃に
大好きなアーティストの歌を聞いてから。
私には創れない世界を
いとも簡単に作ったかの
ように見せてしまう。
その影では努力して努力して
努力しているのは何となく分かる。
だからこそ影で頑張っている姿を
考えさせないその姿勢がすごいなって
尊敬してしまう。
それと同時に憎さが未だに湧いてしまう。
私自身の辛いこと大変なことを
知ってほしいだけなのだろう。
1枚絵を描くのにどのくらい時間がかかるか
みんなは知っているのだろうか。
受け取る側は見るのは一瞬から
せいぜい数分程度。
漫画なんてもっと差があるだろう。
1話作るのに1〜2週間かけても
見てもらえるのは5分だけなんて
ざらにある話だ。
…イラストも見てもらえるのは
大体数秒から長くても数分。
なのに創るのには幾時間もかかる。
それを知ってほしいだけ。
褒めてほしいだけ。
あいつの方ができる。
何で。
どうして。
才能が欲しい。
私の脳内は大体そんなものだ。
青年期あるあるの
他人と比べすぎってやつなのかな。
そうだとしても
私はきっとこの感情を生涯捨てれない。
いろは「ふぁー。」
あくびを漏らし、そんな思考から
一旦さよならを告げて
またすぐに再会するの。
私は欲しがりだ。
人間だから仕方ない。
慣れって怖い。
きっと私は評価を得ている。
それなりの、きっと。
でも、その評価ばかり気にして、
いい評価ばかりに慣れていって。
麻痺、して。
ぽろろん。
藍色の気持ちに沈みかけたそんな時、
ディスコードが健気に音を鳴らす。
いろは「んー?」
絵を描いていた手を一度止め
画面をそそくさと移動させると
そこには秋ちゃんがいた。
秋ちゃんは既に部活が終わったのか
グループの通話に参加している。
いろは「お、1番乗りは秋ちゃんだったかあ。」
別に自分が1番になろうと思えば
なれたであろう。
けど、私は2番目以降に慣れてしまっていた。
自分で自分のストッパーをかけていた。
しない言い訳なんてたくさん出てくるんだもの。
2番目を狙っていたかのように
秋ちゃんに続けてディスコードに入る。
秋『おー、ろぴぃー!』
いろは「おー!秋ちゃーん!」
秋『もう学校は終わってるの?』
いろは「うん。部活サボってきちゃったー。」
秋『あ、もうー悪い子めぇー。』
いろは「いいもーん。元から自由気ままに行き来してるもーん。」
秋『ろぴらしいねぇ。部活って毎日あるもんじゃないんだ。』
いろは「毎日はあるんだけど、半分幽霊部員みたいな感じといいますか…。」
秋『どゆこと?』
いろは「毎日行く時もあれば、2週間に1回しか行かない時もあるって感じ。大体の部員は真面目さんだから毎日行くんだけど、私はそのあたり適当なのだー。」
秋『がちがちに固めるよりも自由の方がいいじゃんねー。』
いろは「あれ、秋ちゃんなら毎日行こうよーって言ってくると思ったー。」
秋『自主性があるなら自由でよくない?派閥なんだなぁ、これが。』
いろは「なるほどー。」
秋『周り固められてもつまんないし、息苦しくなっちゃうもんでよー。』
いろは「確かに確かに。」
秋『んま、この話はおしまいにしてー。ねーねー聞いてくんろー。』
いろは「あはは。何々ー?」
それから秋ちゃんの
面白エピソードや愚痴を
適当に、時にしっかり聞いていると、
いつの間にか時間が過ぎ去って行く。
途中からお互い作業をしながらも
時々集中力が切れては話しかけた。
秋ちゃんもそれに乗ってくれて、
おまけに笑わせてくれるから
ありがたいことこの上ない。
気づけば夜ご飯の時間になっていて
通話を切らなければならない
時が迫っていた。
いろは「秋ちゃーん。」
秋『はいはい?なんだじょー。』
いろは「そろそろ夜ご飯だから落ちるね。」
秋『ん、りょ!そっかぁー。実家暮らしならではだねぇー。』
いろは「そっちは1人暮らし慣れたー?」
秋『大体ね!近くに知り合いも住んでるし、あんま心配事はないんだなぁー。』
いろは「いいなぁ、自由そうでー。」
秋『ろぴは今でも十二分に自由でしょーお。』
いろは「うん、まぁそうかも。」
そうだね、って断言できなかったのには
まだ自由になり切れていないと
思っていたからだろう。
親元を離れてようやく
自由が手に入るとばかり
考えている私には、
自由になって以降の生活が
全くもって想像できない。
いろは「じゃあまたね。」
秋『うす!お疲れぃー。』
一足先に大人になってしまった
秋ちゃんに「ばいばい」と
加えて伝えてから
ぷちりと通話を切った。
空は既に暗くなっているが
それでも日が落ちるのは
遅くなっていった方だろう。
日の当たる時間が長いほど、
何だか夢を見ているような気分になった。
雨が降ったり夜になったり、
日差しから隠れると
やっと地面に足がついたような気がする。
いろは「…はぁ。」
もう梅雨の季節らしい。
白雨。
意味はものによって
多少違いはあるが、
明るい空から降る雨だったり、
夏の夕立だったりと表記される。
いろは「…遠いなぁー。」
もうすぐ夏になると言うのに、
梅雨を挟まなきゃそれはこない。
たった1か月待てばいい話なのに
その1ヶ月ばかりは何故か
とんでもなく長く感じる。
大人もそう。
たった6年待てばいい話なのに、
とんでもなく長く感じてしまうのだ。
…多分、そんなものなのだ。
早く大人になりたいなんて呟きを
机の上にぽとりと落とした。
青い鳥での世界を眺めた。
-----
2022/7/18
茉莉「行ってきまーす。」
兄ちゃん「うい、いってらー。」
茉莉「あ、そーだ。」
兄ちゃん「何?」
茉莉「今日飲み?」
兄ちゃん「今日は夜勤。」
茉莉「はーい、気をつけてー。」
兄ちゃん「茉莉もなー。」
ういー、と適当に返事をして
玄関の扉を開いた。
すると、外の世界が
際限なく広がっており、
その全てが目に入ってくる。
鍵は兄ちゃんに任せることにして
ささっと学校に向かってしまおう。
最近、受験のことばかりを
考えるようになっていって、
受験生らしいと言えばらしいのだけど、
何だか茉莉じゃないみたいで
長いこと困惑している。
と言うのも、雨鯨と出会ってからは
その困惑の速度は早く
なっていったような気がする。
素晴らしいことなのだろうとは
思うのだけれど、
自分が変化することに対して
恐れていると言えばいいのか。
ここに停滞していたい気持ちが
どこからともなく
ふわっと泡のように
脳に弾け飛んでくる。
それがどのような意味をなすのか、
将来に対してどんな景色を
見させてくれるのかは想像できない。
…というより、したくないのかもしれない。
変化は怖い、
けど、変化しないままで
置いていかれることも怖いのだ。
茉莉「あー授業めんどくさ。」
そうそう。
中学生だからこのくらい
阿呆みたいなこと言ってて
いいはずなのにね。
考えすぎなんだろうな。
いつまで経っても
昔のことばかり思い出したって
進めないことくらいわかってるのに、
思い出して向かい合わなきゃ
進めないことだって
知っているわけで。
茉莉「…ま、いいや。」
茉莉はそう言う時、
決まって目を逸らす方を選んだ。
だって、選ばないって楽だから。
流されるままでいいんだから。
今が良ければそれでいい。
そう思う心が強いんだろうなと
自分を俯瞰視点で覗いていた。
***
茉莉「うえ、美術かぁ…。」
「あれ、苦手だっけ?」
茉莉「何か気分じゃないだけー。」
「あはは。あるよねー、わかるー。」
この学校に通い始めて
まだ数ヶ月しか経っていないけれど、
段々となれてきた。
とあるグループに運良く
入り込むことができて、
それがまた賑やかすぎない人達だから
居心地はそこそこよかった。
美術か音楽が選択制なら
迷わず音楽をとっただろうな。
理由は好きだからとか
そんなかっこいいものじゃなくて、
ただ、どちらかと言えばできる方で、
たった今たまたままぐれで
身近にあるものだから。
それだけだけど。
部屋に絵の具があったなら?
もちろん、茉莉は美術を
選択してただろうね。
ふらりふらりと友達と一緒に
美術室に向かう。
すると、先生に話しかけている
生徒が目に入った。
おさげ…と言うのだろうか。
2つ結びをしていた。
出入り口の近くで話していたものだから
通り過ぎる時にそれとなく
内容が耳に入ってしまう。
盗み聞きはしないようにと
顔を伏せて通り過ぎようとした時だった。
先生「あと2点あって、まずは指が長すぎるところ。」
「指の部分をもうちょっと短くするのがひとつですねー?」
茉莉「え。」
はっとした。
反射的に声を上げてしまった。
そんなことするつもりなんて
毛頭なかったのに。
無意識のうちに彼女の声を聞いては
自分の体が動いていた。
ほんわかとした、
癒しを与えるような声。
ゆっくりで落ち着いた喋り方。
茉莉よりも僅かに身長の高い
彼女が緩やかに振り返る。
垂れ目で、声と同じく
優しそうな印象だった。
茉莉「………さと…?」
「う、うえっ…嘘ー、かた…あー…。」
茉莉「茉莉。」
「そー、茉莉ちゃんー!」
多分名義を口に出すことを
躊躇ったんだろう。
案外配慮の出来る子で助かった。
先生「知り合いですか?」
「はい、友達なんです!」
先生「へえ。」
こんなところでさとに、
雨鯨でイラストを担当してくれている
白に会うなんて思ってもいなくて、
頭の中はいまだに混乱している。
先生に何か返さなきゃと
ぐるぐる思考しているつもりが、
ただ同じところを
駆け回っているだけだった。
口からは何にも発せず、
マスクの中でぱくぱくとしていると
先生は何事もなかったかのように
こちらに微笑んだ。
先生「この前転入してきた人だよね。よかったら美術部、見学だけでもいいから来てね。」
茉莉「…あ、はい。機会があれば。」
「先生。この子、音楽やってるんで多分そっちに行きますよー。」
先生「そっか、残念。西園寺さんと一緒にいつでも遊びに来ていいからね。」
茉莉「西園寺…。」
ぽつりと呟く。
それがたまたまさとにも
聞こえていたみたいで、
こっそりと茉莉に顔を近づけて
耳打ちをしてくれた。
いろは「いろはだよ、私の名前。」
西園寺とはこれはまた
お金持ちそうな、とは思ったが
あえて口を閉じる。
先生は再度茉莉たちに笑いかけては
またさとに…いろはに向かった。
これ以上邪魔をするのは野暮だと思い
自分の席に座る。
一緒に美術室まで来た友達からは
「あの子、知り合い?」なんて
興味ありげに聞いてくる。
まさか。
まさか、こんなところで会うなんて。
だって、さとと…いろはと出会ったのは
ネットの海だよ?
それなのに、茉莉の引っ越した先の
中学校にいろはがいて。
茉莉「…。」
世間って案外狭いものなんだなと
思うことしかできなかった。
誰も知らない行方は茉莉達に
執着しているように見えた。
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2022/8/18
夏雲!
つんよい日差し!
なんと言っても耐えがたい
この気温っ!
湊「うし、帰ってきたー!」
何と夏休みのど真ん中である今日、
うちは大嫌いな地元に
帰ってきたのであーる。
ゆう「暑いねぇー…。」
もちろん、うちの近所に
住んでいる知り合い…
と言っても半ば家族のような
存在でもあるゆうちゃんも
一緒に帰省してきた。
ゆうちゃんは本当、
うちから目を離そうとしない。
特にこの地元にいる時はね。
湊「んね。さっさと家まで行っちゃお。」
ゆう「うんー。」
湊「ゆうちゃんはうちの家にくるの?おうち帰る?」
ゆう「折角ならお邪魔しようかなー。」
湊「おけまる!」
ゆうちゃんはのんびり話す。
反面うちはきびきび話す。
一見水と油のような、
仲良くなれなさそうな
雰囲気は漂っているけれど、
年数を重ねているからか
自然と釣り合いがとれてる。
不思議なもんだよねぇ。
どれだけ苦手だと思ってた
相手だったとしても、
長いこといたら多分
全てを諦めて好きにならざるを
得ないんだからさ。
ゆう「早くー。」
湊「はいはい、ちびっと待ってよーぉ。」
バス停を降りて、
うちの家までは少し歩く。
ど田舎なもので、
バスなんて1日に数本だけ。
しかもバス停は村の外れにあるの。
どれだけあるきゃいいんだーってね。
この村はうちからすると
随分と閉鎖的に見えた。
それは周囲に山があることももちろん、
人との繋がり方だってそう。
みんな、悪い人じゃないの。
むしろ毎日すれ違ったら
声をかけてくれて、
時に飴ちゃんもくれる。
にこにこしていて、
暖かいは暖かいの。
でもさ、暖かいを越したら暑くなって
そうすれば自然と怒りや
鬱陶しさだって生まれる。
村の誰かに話すわけにもいかなくて
行き場のない感情を
ひたすらに抱えてた。
今もなお。
ずっと、ずっと。
息苦しかったんだよね。
よそ者を排除しようとする
村の人たちの考えとか、
しきたりだどうとか、
ちょっぴり堅苦しすぎて。
ゆう「帰ってくると、こんなに小さかったんだって思うよねぇ。」
湊「ねー。」
ゆう「湊ちゃんもそう思うようになったかぁー。」
湊「うちがでっかくなったからかなぁ。」
ゆう「うふふ。」
湊「なあに笑ってんのよう!」
ゆう「いやあ、何か言ってるなぁって思ってー。」
湊「こんのお、馬鹿にしよってからに。」
ゆう「いやいや、湊ちゃんが大きくなってくれて私はとーっても嬉しいんだよー。」
ゆうちゃんはにったり笑う。
あ、これ。
ぴりり、と肌がひりついた。
嫌な予感がした時の感覚だ。
ゆうちゃんは時々
うちに対して威嚇するような、
圧をかけるような言い方をする。
本人は気づいているのか、
そもそも意図しているのかは
判別がつかない。
けれど、わかる。
ゆうちゃんが何か隠してるってこと。
この村のことなのか、
村の人たちのことなのか、
それともゆうちゃん自身のことなのか。
…。
疑問に思っても、
それら全てに蓋をして
見なかったことにしとくんだー。
ね?
うちってそこそこ上手でしょ。
湊「あ、そーだ。ずっと前だけど、この村に引っ越してきた人いたらしいじゃん?同い年くらいの子!」
ゆう「ああ、そうらしいねぇ。」
湊「せっかくだしこの機会に会いたいんだけど!去年は受験でひいひい言ってて全然遊べてないし!」
ゆう「実はもう引っ越したんだよー。」
湊「うえ、そーなの!?」
ゆう「すぐに親の用事で立っていったよぉ。」
湊「えぇー…ざーんねん。」
ゆう「ねぇ、残念だねぇ。」
湊「ゆうちゃんは会ったことある?」
ゆう「うーん…私はねぇ。」
ゆうちゃんはわざとらしく
悩むそぶりをしてみせた。
ぞぞぞ、と夏の汗に混じって
別の汗が滲み出ていく。
この村のいいところ。
村人同士仲が良くて優しいところ。
この村の悪いところ。
それは噂が回るのが異様に早くて、
加えてよそ者を排除しようとするところ。
ゆう「ないかなぁ。」
湊「そっかー。ほんなら仕方なす!」
ゆう「どこかで会えるといいねぇー。」
湊「うん!それにアクエリアスを賭ける!」
ゆう「えー…期限なし?」
湊「なし。」
ゆう「勝ったか負けたかわかんないねぇ。」
湊「んじゃ不戦勝ー!アクエリアス奢って!」
ゆう「仕方ないなぁ。」
うちに甘いゆうちゃんは
文句も言わず
近くの自動販売機を探し始めた。
何でもかんでもいうことを聞く
こういうところが怖いんだよね。
…なんて、ゆうちゃんには内緒。
彼女の隣を楽しそうに
スキップしてみせた。
雨音はまだ遠く先。
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2022/9/18
…。
…。
…。
…。
あ、これ、覚えがある。
ふと、ふと脳裏をよぎる。
ここ、音楽室だ。
私が部員に混ざって並んで、
小さな口を開けて歌っている。
…去年、実力差が
どんどんと出てきちゃって、
頑張って食らいついていたんだっけ。
慣れない筋トレを
家で初めて見たり、
発生練習の動画を見たりして。
でも、実力差は埋まらなくって
どんどんと開いていくばかり。
私は駄目なんだって、
また…思ったんだと思う。
北村さんがこっちを向く。
彼女は中学生の頃と
全然違う顔つきをするようになった。
志が変わったのか知らないけれど、
まず眼鏡をやめて
髪の毛はばっさり切った。
それからうっすらとだけど
お化粧をしている…と思う。
垢抜けたと言えばいいのかな。
…友人関係も、数年前と全然違って
スカートを折って短くしてるような
人たちと絡むようになっていった。
昔私たちが遊ぶ予定だった
あの2人のような…。
…もう、名前も覚えてないな。
…。
…。
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2022/11/18
今日は11月18日。
普通であれば、なーんにもない日。
数ヶ月前までは毎月この日に
雨鯨でオリジナル曲を
投稿していたんだけど、
れーなとろぴの精神状態も
お世辞にもいいとは
言えなさそうだし、
たっとーも受験だしで
何にもない日になっちまったもんで。
普通であれば、うちにとっても
ただの1日だったんさ。
本当に何もない金曜日でしか
なかったのに。
湊「…。」
席に座ってはぼうっと
窓の外を眺める。
鬱陶しいくらいに広く
晴れ渡った空を、
机に伏せては見続けた。
先生「次。高田さん。」
湊「…。」
運命ってどうして
こんなに厄介何だろうなーって、
うちがしょんぼりすることも
ないんだろうけどさ。
なんか、何となくだけどさ、
心に来ちゃうものなんだよね。
先生「高田さん。」
「湊、湊。次、この行から。」
隣の席の子が教えてくれる。
…本来なら、前の席の子が
教えてくれたのかな、って。
湊「…はぁーい。」
気だるげに上半身を起こしては
枕代わりに使っていた教科書を開く。
みんな律儀にうちの順番を
待っているものだから、
いい子ちゃんすぎるななんて思った。
うちのことなんかぱぱっと
飛ばしちゃえば
うちにとっても先生にとっても
他の生徒にとっても
有意義な時間なはずなのに。
…ま、うちの場合は
何をしたってって感じか。
授業は思ったより呆気なく終わった。
1回順番が回ってきただけで
再度当てられることはなかった。
授業が終わってもぼんやりと
外を眺めるだけ。
何だかなぁ。
何だか、やるせないんだよねぇ。
湊「…。」
1週間前のこと。
花奏ちゃんが事故に遭った。
もう1週間経っちゃった。
ものすごく長く感じていたけど
気がつけば今日だった。
花奏ちゃんは命に別状は
なかったみたいなんだけど、
大怪我ではあるらしく
1ヶ月以上は来れないんだって。
うちね、たまに思い返すの。
思い返すなんて綺麗なものじゃないな。
たまにぶわって
底の底の底から記憶が湧いてきちゃうの。
°°°°°
湊「んじゃね、花奏ちゃん。」
花奏「湊。」
湊「ほ?」
花奏「色々ありがとな。」
湊「なーに言ってんだい。今日の宿題のこと?」
---
花奏「あー…そう、それ。」
湊「水臭いじゃん。いーんだよ、今度午後ティーの無糖奢ってくれるんでしょ?」
花奏「うん。」
湊「ならいいってことよ。」
花奏「じゃあ、私もいつか奢ってや。」
湊「いいよいいよ。何がいい?それこそアンパンマンジュース?」
花奏「うーん…抹茶オレがいいな。」
湊「甘いもんか!くわー、いいねぇ。なーんか喉乾いてきた。」
花奏「甘いの飲みたいんやったらポカリとかもええんちゃう?」
湊「あの甘さってちょっと違くない?ま、うちは部活なくても飲めるけどさ。」
花奏「売り切れる前に買わなな。」
湊「ん?そーんな、デパ地下のセールじゃないんだから大丈夫だってー。」
花奏「そうやね。」
湊「それにうち、千里眼持ってるからどれが売り切れ手前なのかわかっちゃうもんね。」
---
湊「って事で、うちは別のとこの用事済ませてくるね。」
花奏「うん。じゃあな。」
湊「あーいばいばーい。」
°°°°°
湊「あんな別れの挨拶みたいなこと…普通しないでしょー…。」
うちは人一倍人間の
感情ってものに敏感だからこそ
その違和感に気づいては
気づかないふりをした。
触れちゃいけないものの気がしたんだよね。
いつもはずけずけ行くんだけど、
触れるなって、
こっちに来るなって
言われているようでさ。
…なんて、自分に何言い訳してるんだか。
湊「…はーあ。早く元気に何ないかなぁー。」
じゃないとうち、
退屈で押し潰されちまうよー。
秋空は雨が降ることも
なさそうなまでに晴れ渡ってる。
今日くらいは雨が降ったって
よかったと思うんだ?
だってうちの心情にぴったりだもんね。
でも、いつだってみんなは
うちのことに気づかないし、
うちかてめたんこ
気づいて欲しいわけじゃない。
この空は今日の雨を隠したんだね。
秋雨。
秋に降る長雨のことなんだって。
うちのこの心のモヤモヤや
長いこと続くだろうな、なんて。
湊「…秋だなー。」
また上半身を伏せては
だらりと体を溶かして
目の前の誰もいない席に
手を伸ばしてた。
紛れもなく秋だった。
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2023/1/18
かち、こち。
音がなっている。
あ、これも覚えている。
どんどんと夢から覚めるような、
自分に近づいているような
感覚を覚えながらも目を開く。
私の部屋だ。
目の前にはスマホ。
私はそれをじっと眺めている。
何だろう。
連絡を待っている。
…そうだ。
だって今日は。
陽奈「…はぁ……。」
今日は1月18日。
18月の雨鯨として楽曲を製作して
ちょうど1年経った日だ。
だから、誰かしらLINEの
グループに連絡を入れると思っていた。
おめでとうとか、
1周年だね、とか。
ここまで思い入れが深い人間関係は
初めてだったものだから、
変に期待していたのかもしれない。
実際のところ、雨鯨は私のせいで
活動が停止しているようなものだ。
確かに片時ちゃんが受験だったり、
秋ちゃんの友達が事故にあって
秋ちゃん自身が落ち込んでいたりはした。
いろはもいろはで飼い猫が亡くなったり
Twitterのアカウントが
理由もなく永久凍結されたり、
はたまた学校で何かがあったらしく
色々な理由が重なって
絵を描かなくなった。
様々なみんなの理由が重なって、
自然と作業通話するどころか
作業そのものから離れていった。
秋ちゃんの件は、
友達がもう退院したからと言って
元気そうに戻って、
片時ちゃんの件は
受験が終われば済む話。
いろはは…あの子なら
絶対また絵を描くから。
だから、大丈夫。
絵しかやってこなかった子が
ここで挫けるはずがないって
一種盲信にも近い何かを抱いてる。
問題は私だ。
私は今後歌える気がしない。
口ずさむ程度ならしている。
けれど、周りの実力を知って、
それでもなお歌を
ネットの海に流せるのか。
私の歌は受け入れてもらえるのか。
…。
…。
陽奈「………無理…だよ…。」
机に突っ伏せる。
1がつももう半分は過ぎて、
私はあっという間に
2年生になってしまう。
そう慣れば下級生が入ってくる。
私より上手い人がいては
羨んだり自分を蔑んだり
するんだろうな。
下がいたらいたで
それに安心して怠けるんだろうな、とか。
考えだしてはキリがなく、
そのまま眠ってしまえたら
どれほどいいことだろうとすら思った。
その時、ピロンと音が鳴る。
最近はみんなと連絡をとっていない中
突然の通知の音でびっくりする。
慌ててみると、
そこには片時ちゃんからのメッセージ。
『一緒に活動してくれてありがとう。これからもよろしく。』
とだけの簡素な、簡素な文。
個人で送られたものだったけれど、
それがとてつもなく嬉しかったんだ。
すると、次から次に
雨鯨のグループLINEが動き出す。
秋ちゃんを中心に
わいわいと賑やかに回り出した。
片時ちゃんはきっと
みんなに同じようなメッセージを
送っていたのだろう。
…私が初めに
メッセージを送るような人には
なれないけれど、
それができる茉莉ちゃんは
とても素敵な人だと思った。
人を大切にする人なんだろうなって。
私、雨に補ってもらいながら
生きているんだなって、
つい笑みと罪悪感が込み上げてきていた。
-----
2023/4/18
あれ。
もう4月…だ。
そうだ。
この頃は私と茉莉ちゃんが
レクリエーションに
巻き込まれていったんだ。
…。
でも、おかしいな。
その時の映像が
全くと言っていいほど流れてこない。
私、一体何をしていたんだっけ。
結成から月日が流れるにつき
流れる映像が段々と
短くなっていった、
実際に雨鯨での時間が
短くなっていったのは理由として
あるだろうとは思う。
けれど、それだけじゃなくって。
これまでその場にいるかのような、
将又第三者視点で
出来事を見れていたのに、
今では視界に僅かな草花が
左右に生えているのが見えるだけ。
そのどれもが色褪せていて、
活力を失っている。
泥のような道を、
微かながら思い出せるものを
脳内で描きながら
痛い足を引きずって歩いている。
視界の上の方には
傘の先が見えた。
辛うじて手に持てているようだけど…。
…。
時間の問題かもしれない。
…あぁ。
…もっと見ていたいな。
雨鯨のみんなのこと、
全然知らないままだから。
…それに、みんなと過ごす時間が
私が1番好きな時間なんだよ。
それを。
°°°°°
こころ「18月の雨鯨って知らない?音楽をやってるグループなんだけど…。」
茉莉「知らないです。」
陽奈「…っ!」
---
陽奈「……茉莉…ちゃん…?」
茉莉「はい?」
陽奈「…曲は…作ってます…か…?」
茉莉「曲?作れないですよ。そんなすごいことできないし。」
°°°°°
奪わないで欲しかった。
いつの間に泥はさらさらと
水のようになっていった。
°°°°°
一面の海。
一面の雨。
ここから抜け出すには。
…。
…。
…きっと、もう。
もう、戻れないところまで
歩き続けてしまったのだと思う。
途中で傘を落としそうになりながら
ふらり、ふらりと歩いて行く。
じくり、じくりと足が痛む。
あれ。
…おかしいな。
いつの間にか、また体が動いている。
…あはは…。
いつから現実にいたんだろう。
いつまで頭の中だったのだろう。
…。
…もう。
駄目、かも。
ふと傘を持つ力が弱くなる。
指先に力が入らなくなっていき
足が棒のようになっていく。
感覚がなくなっていく。
意識が朦朧としだして、
一体どこにいるのか、
どこに向かっているのか
永遠にわからないまま
ただ歩き続けている。
このまま傘から手を離して
横になってしまってもいいだろうか。
延々と続く霧の中を
いつまで歩くことができるのだろう。
私はいつまで持つのだろう。
いのちはいつまで持つのだろう。
ただまっすぐ、
真っ直ぐ歩いているつもりな
だけかもしれないが、
ひたすらに足を動かした。
1歩踏み出すだけで
心の底から芯が折れてしまいそうになる。
わたし、なんでこんなに
頑張っているのだろう。
誰のためでもなく。
どうして。
誰も見ていないのに。
評価されるわけでもないのに。
好きでもないのに。
自由なのに。
もう歩くのをやめてしまおうと思った時、
誰だろう、声が響いた。
「傘をさすのをやめないで。」
その声が頭の中の友達なのか、
実在する人物なのか
咄嗟に判断できなかった。
頭の中の友達であれば
実際に彼女の声が
耳に届いているのは
おかしなことだし、
実在する人物なのであれば
私をここから救い出そうとせず
まだ先に進ませようとしているのは
自然に考えておかしいはず。
わかってる。
この状況全てに整合性も
現実性もないことくらい。
私が今、現実ではないであろう
場所にいることくらいわかっている。
陽奈「…すー………すー…………っ…。」
息が切れている。
それでも「あ」すら出てこない。
息の音が頭の中で、
体の中で反芻している。
持久走の時よりも
幾分も辛くてしんどい。
そんな道を歩き続けている。
いつからか周囲にあった
木々の影すら見当たらなくなり、
海だろうか、くるぶしまで
浸るくらいの浅瀬を歩いていた。
1歩すすむのに10秒ほど要しながら
着実に進んでいく。
もう戻ることも止まることも
できない気がしていた。
ここで引き返せばよかったのだろう。
もし誰かが迎えにきて
「一緒に帰ろう」なんて言ってくれたら
私はすぐさま喜んで帰った。
怖かった、苦しかったと
泣きながら喚いて
一緒に戻ったのだろうと思う。
けど、現実は違う。
1人なのだ。
誰もいないんだ。
助けに来てくれるような人も、
隣にいてくれるような人も。
陽奈「すーっ………すーっ……!」
1人だ。
前々から気づいていたのに、
何故だか自然と涙が
ぼろぼろと溢れてきた。
これまで我慢してきた
何かが壊れたような、
ある意味それで何かが
保たれたような。
傘を放って顔を、頬を拭いたかった。
大声をあげたかった。
横にいてって。
苦しいって。
助けてって。
でももう遅いんだ。
もっと早くに言っておけばよかった。
親やいろはや、雨鯨のみんなに
支えて貰えばよかった。
支えてもらえないって思ってた。
逆だったんだ。
預けようとしてなかった。
支えてもらおうとしてなかった。
私が拒んでた。
私が、私がみんなから距離を置いた。
陽奈「ーーーっ………ーーっ………ーー…。」
私が。
みんなを信じられなかった。
傘を差しながら
半ば永久に続く浅瀬を歩いた。
いつからか足の痛みは忘れ、
心の痛みにばかり目がいった。
傘の下で泣きながら
足元に雫を落としては波紋を広げた。
周囲には何もなく、
ただ広く浅い海ばかりが続いている。
本当に1人になってしまって、
帰り方すらわからなくて、
パニックになりながらも
止まる選択肢はなかった。
これ以上進んでいいのだろうか。
ここまできたんだもの。
仕方ないよ。
ほぼ無音の中、水の音が
足元からぴちりぴちりと聞こえてくる。
私の足が動くたびに
それらの音は踊り狂った。
私もいっそのこと
ここで踊ってしまえるくらい、
踊って泣いて寝転がってしまえるくらい
気楽に、馬鹿になりきれればよかった。
けど、そうなったらそうなったで
私はきっと後悔する。
こうしたかったわけじゃないって。
でも、今のままでも後悔する。
いつだって後悔する道か、
もっと後悔する道しかないのだから。
どのくらい歩き続けただろう。
靴の中には水が幾分も入り続けて
びりびりと痛む感覚すら
なくなっていった頃。
指も悴み、異様な程の寒さに
体が震えだした時だった。
陽奈「………?」
遠く、遠くに何かの影を見た。
直方体で、私よりも背の高い何か。
人工物のようで、
しばらく自然のものしか
周りになかったものだから、
異質に映って仕方がない。
陽奈「…!」
もしかしたら、何かが起こるかもしれない。
歩き続ける恐怖から、
疲労感から救ってくれるかもしれない。
…。
私は未だに中途半端。
だって、生きたいか死にたいかすら
選べないままなのだから。
もしここが彼岸と此岸の間なら
私はどちらに向かうのだろう。
決断できないまま、
足を引きずってそれに向かう。
何秒もかかって
1歩を踏み出して少しだけでも
近づいていくの。
辛うじて生きている意識を、力を
これでもかというほど振り絞る。
傘を握りしめる。
雨の降らない海を、
どうして傘を差して歩いているのだろう。
何度も傘を捨てたくなった。
腕だってきりきりと痛み始めている。
それでも、何度も頭の中では
さっきの言葉が響き渡るのだ。
「傘をさすのをやめないで。」
陽奈「ーー……ーー…。」
顔をぐしゃぐしゃにしながら
もう1歩、踏み出した。
思っている以上に
それは近くにあったようで、
数十分くらいだろう、歩き続けたら
その姿は明瞭になった。
陽奈「…。」
傘を傾けて上を見る。
そこには、電話ボックスがあった。
街中でよく見る形で、
ガラス越しには電話が見える。
ごく普通の公衆電話だ。
電話ボックスの周囲数センチのところには
赤、青、緑、黄色の
淡くカラフルな色の花が
数輪ずつ咲き誇っていた。
陽奈「…っ!」
咄嗟に両手で口を押さえる。
刹那、傘は手から離れて
近くにころりと転がった。
仰向けで寝転がる傘は
波紋の広がるベッドに
心地良さそうに溶けていきそうだった。
陽奈「…ーーー…。」
口を抑えては、
声にならない声を上げた。
花の色は、私たちのイメージカラーだった。
赤は私の色。
青は白…いろはの色。
緑は秋ちゃんの色。
黄色は…片時ちゃんの。
茉莉ちゃんの、色。
全てみずみずしく
咲いているのを見て、
まるで雨鯨を結成した当初の
私たちを見ているようで
どうしようにも心が苦しくなった。
心臓を素手で握られて、
絞られているような息苦しさだった。
どうすればいいのかわからなくて、
思いっきり下唇を噛んだ。
血の味が滲んでも、
自ずと涙が溢れてきても、
それでも噛んだ、噛んだ。
…ふと、あ、痛いなと思って
ゆっくりと歯を離す。
傘から手を離して開いた手を眺める。
手のひらには傘の跡。
片手で口元を拭ってみる。
…すると、僅かながら
えんじ色の直線が引かれた。
今の私の顔、ひどいだろうな。
…こうなりたかった
わけじゃないんだけどね。
そう。
前々からそう思ってた。
こうなりたいわけじゃないって。
私にはもっとなりたい像があって、
いつかはそうなれるって思い込んでた。
…いろはや秋ちゃんみたいな
コミュニケーション能力が手に入るとか、
美月ちゃんみたいな毅然とした
態度が取れるようになるとか。
……。
茉莉ちゃんみたいな、
自然と誰かの居場所に
なれるような空気感とか。
陽奈「…………ー…。」
こうなりたくなかった。
ああなりたかった。
内部で生成されて行く
理想の数々と私自身が
どんどんとかけ離れていくことに
耐えられなかったんだと思う。
人を信じられなかった。
それももちろんある。
けれど、それ以上に
自分を受け入れられなかった。
陽奈「ーっ!」
がん。
電話ボックスの扉を叩いた。
それでもヒビが入ることすらない。
もう数回叩いてみる。
それでも、私の手のひらが
じんわりと熱を帯びるだけ。
この電話ボックスに入って
誰かに、あなたに
電話をかけることができれば
この先は変わった。
未来は変わった。
私は多分、見違えたように
生きることができた。
…けれど。
°°°°°
私にはひとつ、不可解な記憶がある。
それは、私から電話がかかってきたこと。
何を言っているのか分からない、
理解できない人も大勢いると思う。
けれど、本当に起こったことなのだ。
私は過去、私から電話をされた。
未来の自分からの電話だった。
内容は忘れていたはずだった。
だって5年も前のことだもの。
あの出来事は夢だったのではないか
とすら感じていたほど。
でも、この電話ボックスを見て
妙に確信したし、
当時の光景が鳥肌を立てながら
脳へと迫り上がってきた。
当時、私は小学6年生くらいの子供だった。
突如家の親機が元気に鳴り出したのだ。
その時の私は留守番中で1人だった。
知らない人だったらどうしよう。
そこまで考えて、念の為を思って
受話器を手にしたの。
陽奈「もしもし。」
「……。」
陽奈「……あの…誰、ですか…。」
「…。」
陽奈「……もしもし…。」
「ぃ……て…。」
陽奈「……え…?」
やけにすうすう言っていたのを思い出す。
まるで浮き輪から空気が抜けるような、
か細い息だった覚えがある。
「……聞いて…ね…。」
陽奈「…ぅ…あ、あの…。」
「あなたは…この、先、ね。………たくさん、迷う、の。」
陽奈「…だれ……ですか……。」
「……迷って………み、ちが…見えない時も、出て…くる。」
陽奈「……ぁ…の…。」
「でもね…大丈夫……。」
陽奈「…。」
「…あ、なた、の周りには……素敵な……友達、が…いるから。」
陽奈「……友達?」
「……頼って…いいんだよ。抱え、こまなくていい…。」
陽奈「…。」
「好きな、こと…真っ直ぐやっても、変に思わない……仲間、と…会えるから…。」
陽奈「……うん。」
「…だか、ら…歌っておいで。」
陽奈「沢山歌うよ。私、歌うの好きだもん。」
「…う………ん。それとね…電車、ボックス…。」
陽奈「…?」
「海で、迷ったら…入って、ね。」
陽奈「海で?迷子にならないようにするね。」
「………ぃな………っ…ぃ…!」
陽奈「もしもし…?もしもーし…。」
「…。」
陽奈「…。」
「…。」
陽奈「…もしもし…?」
°°°°°
それからは風の音らしきものが
びゅうびゅうと聞こえるだけだった。
諦めてそっと電話を切ったんだっけ。
最後、誰かが叫んでいた気がする。
誰だったんだろう。
私の声ではなかったはず。
…もしかしたら、今、
私の隣に誰かがいた未来が
あったのかもしれない。
陽奈「……ーーー…ーー…。」
ふと。
思い立って歌ってみる。
思い出のCDから
選曲してもよかったけれど、
なんでかな、ぱっと思いついたのが
私たちの初のオリジナル曲の
「君に傷を」だった。
陽奈「ーーーーーーー…ー…ーー……。」
楽しかった。
楽しかったんだ。
楽しかったの、みんなとの時間。
好きなことで語り合ったり、
意見を言い合ったりして、
ひとつの形になって行くのが
嬉しくて仕方がなかったの。
確かに私は意見を言うのは苦手だし
いいと思うみたいなことしか
基本言っていなかったと思う。
それでも、みんなもの創作に
参加できているのが楽しかった。
みんなで音楽をしている
あの時間が大好きだった。
…大好きだった。
もう1度ガラス戸を叩く。
変わらずヒビが入るどころか
振動が緩やかに伝うのみだった。
陽奈「ーーー……ーー…………ー…。」
ガラス戸に叩きつけた手を
ずるずると重力に沿って下す。
手を最後まで落とすと、
ぴちゃりと音がした。
刹那。
ざぁーっと騒音が耳に届く。
煩い。
煩くって仕方がない。
でも、よかった。
それでよかった。
それがよかった。
どれほど泣いても、泣いても泣いても
雨がかき消してくれるから。
大きな口を開けてみる。
それでも息しか出てこない。
…雨に濡れて意識は
ぼろぼろのままでも確信があった。
足はもう傷まないこと。
電話ボックスに入れなかったかな、
もう私の声は失われたこと。
そして、どこかの世界の、
過去の世界の私は
雨鯨のみんなには会わないだろうこと。
全部全部、私が選んだ。
私が、選んでしまった。
°°°°°
美月「…自信…ねぇ。」
---
美月「自分で決めることかしら。」
陽奈「自分で…。」
美月「そう。後悔があっても成功しても、自分の選んだこと、そしてその先の道に誇りを持つの。誰が何と言おうと、自分だけでもいいから納得すること。」
陽奈「…。」
美月「そうすれば、きっと自然のうちに自信はついてくるわよ。」
°°°°°
ああ、やっぱり。
やっぱり、私が選んだって
碌なことにならないじゃん。
陽奈「ーーーっ…!ーーーーっ!」
どれだけ泣いたって
自信がつくわけじゃないのに。
この課題は到底
なくなりそうにないな。
声の代わりになくなってくれれば
それでよかったのにな。
周りには音と共に帰ってきた景色が
これでもかと広がっていた。
鬱蒼と生い茂る木々、
ぬかるんだ床にぺったり座る私。
近くで転がったままの、
逆さになって水を溜めている傘。
どれもこれも、梅雨を飾るには
ぴったりなもので。
帰り道もわからないし、
このままわんわんと
息をあげれば良いかと、
それで生涯を終えても
いいかとすら思ったその時だった。
ふと、背後から光が
ちらついたのが見えた。
何かと思ってゆっくりと振り返ると、
そこには傘を差して
ぴっちりと警察の制服を着た大人がいた。
その人は私を認知すると、
焦らず、でも慌てて
私の方へと向かってきた。
咄嗟にその人が使っていた傘をさされたり、
何やら無線で連絡を取り合っている。
発見だか、捕獲だか、
なんと言っているのかもうわからない。
もう…頑張ったからかな。
ふらりと体が傾くのがわかった。
目を閉じる直前のこと。
遠くでお母さんのような
影を見た気がした。
こっちに向かって走っているような。
その顔色はどうだっただろう。
数年前、私がいなくなった時、
お母さんは私のことを
化け物を見るような目で見ていたのに。
今日は…なんだかー。
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