雨雫

「うん、そうだったんだ。」

「そうなんだね。」

「大丈夫だよ。」


うつらうつらとする私に

そっと手を伸ばしてくれている

誰かの姿が浮かぶ。


あれ。

私が目の前にいる。

目の前で眠っている。

そこに近づく、髪の長い友達。


漸く自分が夢を見ているらしい

ことに気がついても、

ぼうっと突っ立っていることしか

できなかった。


陽奈「…。」


目の前にいる私は今よりも

随分と体躯が違う。

幼いのだろう、小さく見えた。

しゃがみ込んでは

めそめそと泣き続けている。

何だか可哀想と思ったり、

自分って無様だな、なんて思ったり

様々な感情が入り乱れている。

その全てを処理し切ることができなくて

私はいつも逃げてしまう。

立ち向かっているつもりでも、

いつの間にかメーターを

振り切ってしまっているようで、

気づいたら全く知らない場所にー。


はっとしてしゅういを見回すと、

近くには木々しかなく、

僅かに刺す木漏れ日だけが

頼りとなる森の中にいた。

友達は、こんなところにまで

私を迎えに来てくれたんだ。

私の、私だけの大切なー。


陽奈『うえぇん……うえぇ…』


「大丈夫。怖かったね。」


陽奈『怖いよぉ……助けてぇっ…。』


「一緒にいるから、待っていよう。」


陽奈『本当…?一緒にいてくれるの…?』


「もちろん。だって友達でしょ?」


その子は夢の中の私ではなく、

こちらを向いてにっこりと微笑んだ。


…何だか覚えのある記憶だなと思った。

もしかしたら、私が忘れているだけであって

経験したことがあるのかもしれない。

はたまた、妄想し続けた結果

経験したと思い込んでいるのかもしれない。


私は確か、ずっとその子と話してた。

頭の中の友達と。

自分を安心させるためだけに

自分の殻に閉じこもって、

いつまでもこの時間が

続けばいいのになんて願いながら。

いっそ人間皆の口が

なくなってしまえばいい、

私も含め、人間の感情なんて

なくなってしまえばいいなんて

思っていたんだっけ。

当たり前だけど、

それが叶うことはなかった。


あ。

そうだ。

雨さえ降り出しそうな曇天に

早変わりして以降、

警察とお母さんが迎えに来たんだった。

遠くでちらちらと

人工の光が見えている。


こっちだよ。

私が声をかけようとした時、

お母さんはとんでもないものを

見てしまったかのような、

絶望と恐怖の混じった顔をしていた。

その視線の先を見る。


その先には……私。

1人で延々と話し、

時にけたけた笑っている私がいた。





***





陽奈「…!」



どうやらうたた寝してしまったらしい。

先生のお経のような授業が

そろそろ終わりそうになって

漸く目を覚ました。

いつ頃から眠っていたかすらわからない。

今はただ、生徒を当てるような

授業ではなかったことを

安心する他なかった。

ばくばくと心音が鳴る中、

1人静かにペンを握った。


…さっきの夢を思い出す。

最後、お母さんは私に

どんな対応を取ってくれたんだっけ。


…もう、覚えてないや。





***





授業が終わり、昼休みも1人で

黙々とご飯を食べてから

午後の授業を受ける。

自由に組まされるグループワークが

なくて心底安心した。

幸いなことに、先生が近くの席で

グループを作ってくれていたのだ。


しかし、相変わらず

声の出せないままなもので、

頷いたり予め書いていた

意見を見せることしかできなかった。

みんな「あ、そういう感じね」

という雰囲気を醸し出しているものだから

心苦しくて仕方がない。

私だって喋りたくなくて

喋ってないわけじゃないんだから

仕方がないのに。

それを分かってないから

みんなはそう好き勝手に

想像を巡らしているんだ。


…。

…本当に喋りたくなくて

喋ってないだけ…なのかな。


試しにマスク越しだが

口をもごもごと動かしてみる。


陽奈「…………………。」


掠れた息しか出てこない。

僅かな声にすらならない。

病状は前より酷くなっているようだった。

加えて、足の痛みは日に日に増している。

捻挫をし続けた後痺れて、

痛みのあまり身動きしづらい状況が

ずっと続いていてるような。


「それでさ、次の枠なんだけど何て書いた?」


「うちそこ適当にやったんだけどー。」


「むずくてわかんないよね。」


私を置いて話し合い…というより

雑談は進んでいた。

私は空気。

空気。

今一瞬だけは、存在全てが

なかったことになればいいのにと

強く思うことしかできなかった。


あーあ。

本当に声が出なくなったことに

不安や焦りはあるけれど、

どこか清々しく思っている私がいた。


根が卑怯なのだろう。

私はそういう人だった。


喋ろうとしなくていいから

気まずさはあるけれど

半ば気負いすぎずに

授業の時間は去っていった。

帰りのホームルームも終わり、

鞄に教科書を詰める。

席替えをしてしまったものだから

日差しの恩恵を受け取ることなく

この教室を後にすることになる。

もの寂しいような、

暑くないから嬉しいような。


その足で部活に向かおう…として、

鞄を肩にかける。


陽奈「……。」


…この状態で部活に行ったって

何もできないし邪魔に違いない。

けれど、今週の月曜日、頑張ったんだ。

頑張って参加したんだよ。

そしたらみんな心配してくれて、

でもまだ風邪だからって、

喉は痛くないけど声が出ないからって

みんなの合唱を聴いていることにした。

昨日は部活はお休みで

考えすぎなくてよかったんだけど、

今日は部活があるから…。


陽奈「…。」


行かなきゃ。

そう言ったのに「すぅ」と

相変わらず空気しか漏れなかった。


音楽棟に向かう途中、

音楽科の人たちや吹奏楽部、

軽音学部など音楽を好いている

人達の姿が多く見えた。

それぞれ楽器を持ち歩いている。


陽奈「……。」


音楽が好きなんだな。

みんな、愛の大きさも重さも

違うとは思うけれど、

好きと思うことに変わりはないのだろうな。


私は…。

…。

音楽、好きだった気がするんだけどな。


陽奈「…。」


重たい足を動かしながら

やっとのことで部室に向かう。

扉を開くと、早く来すぎたのか

1人の姿しかなかった。

癖っ毛でうねっている

長い髪の私とは正反対とも取れる、

ボブくらいでほぼ癖のない髪をした

北村さんがいた。

彼女は現2年生の中では

リーダー的な存在をしている。

誰にでも優しい、所謂本物の陽キャではなく

言いたいことだけズバズバ言って

人を下げて自分が上に上がるような

タイプの人間だ。


正直彼女のことは得意じゃないし、

向こうも私のことは苦手に

思っているのだと思う。


だってほら。

今だって目があったのに

すぐ自分の荷物へと視線を移す。

…じっと見られるよりは

ずっといい…か。


彼女は何やら持ち物を整理しているようで

鞄の中を漁っていた。

それを横目に見ながら、

離れた位置に荷物を置く。

2人しかいないと、

部室兼音楽室であるこの教室は

随分と広く見えた。

何度寝返りがうてるんだろうと

ぼんやり考えてみるけれど、

子供っぽすぎてすぐに頭から取っ払う。

これから見学をするというのに

部屋の隅でスマホをいじるのも

態度が悪い気がして、

壁を背にした状態で荷物の隣に座った。


しんと静まり返る中、

廊下からは別の部活動の生徒らしき

陽気な声が聞こえる。

中にはネットに投稿する用の

短い動画でも撮っているのだろうか。

健気に歌っていたり

何かしらの音楽が耳に届く。


陽奈「……。」


音楽、好きなんだなあと

改めて思うだけだった。


このまま声が出なくって、

生涯声が出ないままだったら

私は一体どうやって暮らしていくんだろう。

筆談で頑張るのかな。

それとも、古夏ちゃんと一緒に

手話で話すように頑張るのかな。

それとも…。


陽奈「…。」


人と関わるのをやめるのかな。

元から口数は少なかった。

どうせ変わらないじゃないか。

元からあるのかどうかすら

わからなかった機能じゃないか。


ぼんやりしていると、

ふと足音が聞こえてきた。

何かと思って、いつの間にか

俯いていたらしい顔を上げる。

すると、北村さんが

楽譜を持ったまま

こちらをじっと見下ろしていた。


北村「奴村さんさ、今日も見学?」


陽奈「…。」


肩を縮めて、小さく頷く。

すると、北村さんは

ふん、と鼻を鳴らした。

やっぱり苦手だな、この人。


北村「風邪なんでしょう?なら見学に来るよりも早く家に帰ったらどうなの?」


陽奈「…。」


北村「他の部員にうつるのも嫌だしさ。」


陽奈「…。」


北村「今すぐにコンクールがあるわけじゃないから、まあ多少はいいよ。県大会も8月だしね。」


陽奈「…。」


北村「でもさ、さっさと治してくる方が良くない?」


陽奈「…。」


北村「全体の合唱を聞いて批評をするんだったらうちらも嬉しいし勉強になるからいいんだけどさ、奴村さん、本当に見にきてるだけじゃん。」


陽奈「…。」


北村「新入生でもないんだし、ただ遊びに来てるわけじゃないんだから。」


陽奈「…。」


北村「無視すればいいのにしない私にも責任はあるけど、ちょっと困るんだよね。サボってるように見えて全体の士気が下がるのもあるし。」


陽奈「…。」


北村「まあ事情はあるだろうけどーー」


あ、と思った。

この人、今、多分怒ってるんだろうなって。

私、こういうところで

ずれているんだと思う。

普段生活する中では誰も怒っていないのに

怒られるかもしれないと怯えている。

けれど、実際怒られている時には

もしかして怒られているのかな?と

頭がショートした上で

そんな思考がふと湧いてきている。


こういう時、どうすればいいのか

全く見当がつかなくて、

その上何故かこういう時に限って

「ごめんなさい」が出てこなくて、

ひたすらに意味のない返事を重ねた。

何度「はい」と言っても

息しか出ていないわけで、

もちろん彼女に伝わるわけじゃない。

それでも、無意識のうちに

返事をしている私がいた。


ひとしきり話しても

まだ誰もこないあたり、

もしかして北村さんは

わざとこの空間を作り出したのでは

ないかとすら思ってしまう。


北村さんは言いたいことを

言い終えたのか、

突然話を止めてこちらを見た。

その目は、酷く私を蔑むような目だった。


北村「…何とか言ってよ。」


陽奈「…。」


北村「ねえ。」


す、とこちらに手が伸びてくる。

まずい。

絶対何かされる。

前髪を掴まれる?

首を絞められる?

殴られる?


…全てが被害妄想であると

疑うことすらせずに縮こまる。

大声で叫んだつもりだった。

けれど、すー、とからからの音しか出ない。

刹那、扉が開く音がした。


「こんにちはー。」


「うっすー。」


誰の声かもわからない。

ただひたすらに縮こまった。

頭を抱えて膝をこれでもかと

いうほど胸に寄せた。

助けであってほしい。

助けてほしい。


「え、ちょ、何してるの。」


「北ちゃんってば泣かせたの?」


北村「いや、誤解だって。ただ、風邪で声が出ないなら他の人にうつるかもしれないから、帰ったほうがいいって言っただけ。」


「いやいや、他にもなんか言ったでしょ。」


北村「他は…批評するならまだしも、ただ見てるだけなら困る…とか…。」


北村さんが誰か2人に

事情を説明している中、

私は咄嗟に隣にある鞄を手に取った。

そして他の誰かが来る前にと

鞄を両手で抱えて

そのまま音楽室を飛び出した。


後ろから呼んでいるのだろうか、

何やら声がしたけれど、

それすら全て無視して走った。

追いかけられていないことを願いながら、

がむしゃらに走り続けた。

下を見続けていたもので

いつか人にぶつかると思っていたら

早々に肩に衝撃が加わる。

ふらつきながら横目で確認すると、

それは多分結華さん…だったと思う。

悠里さんなのかどちらかあまり

自信はないけれど、

特徴的なあの冷淡そうな目つきが

こちらを見つめていた。


「ごめんなさい。」


その声が聞こえるも、

私は深く俯いたまま返事をすることなく

背を向けてまた足を動かした。

大切な時に謝ることも

できない私なんて

どれほど救いようがないのだろう。


どのくらい走っただろう。

気づけば電車に飛び乗っていた。

したことのない駆け込み乗車をして

ドア付近で息を荒げたまま

扉にもたれかかる。

ずきんずきんと足が痛む。

それすら忘れるほど心臓が痛い。

脇腹が、喉が、痛い。


乗車する人のうち

何人かがこちらを見たけれど、

興味なさそうにまたスマホへと

視線を落としていった。


陽奈「…。」


あーあ…。

最悪な退出の仕方をしちゃったな。

…。

もう、部活には行けないかも。

明日行ってもきっと

北村さんから他の人伝てに

悪い噂が広がってるに違いない。

車窓には夢の中の

あのどんよりとした雲よりも

薄暗い顔をした私が映っていた。


とぼとぼと家に帰る。

1階の花屋にはお母さんが

お客さんと話しているのが見えたけれど

ひとつ会釈だけをして

自分の部屋に篭った。


陽奈「……はー…。」


長く深くため息を吐く。

けれど、肩に乗った不信感や

不安定を煽るさまざまな憑き物は

落ちてはくれなかった。

鞄を置いてベッドに

寝転がろうとした時だった。

ふと、自分の部屋には

ないはずのものが机の上に

置いてあることに気づいた。


陽奈「…。」


これ。

そっと手を伸ばしてそれに触る。


それは、私が小さい頃

…スマホも全然持たせてもらえないくらい

小さかった頃に、

よく使っていたCDプレーヤーだった。

上には当時何十周

何百周したかわからないアルバムが

丁寧に乗せてある。

きっとお母さんが置いたのだろう。

私が今声を出せないことを知った上で

意地悪をしているのだろうか。

…そんな人ではないと

わかっていながらも

1番最初にこの発想に至る自分に嫌気がさす。


きっとリビングを片付けて

邪魔になっただとか、

元気を出そうとして…だとか。

そういったところだろう。


陽奈「…。」


先週1週間休む中で、

どんと増えた自由な時間では

ネットを使って音楽を漁っていた。

他にも本を読んだり、

思う存分寝たりと

やりたいことをこれでもかというほどやった。

けれど、満足しているはずなのに

反面何故か虚しくなる一方でもあった。

どうして不甲斐ないと思っているのか。

どうして罪悪感を抱いているのか。

自分のことのはずなのに

私にはてんでわからない。


ネットでは音楽を楽しんで

聞いているはずなのに、

その下のコメントや

歌っている人の技量の

凄さにばかり耳や目がいってしまって、

結局楽しむというよりは

どこかで自分を卑下していたのだと思う。

今時、同じような年齢の人も

音楽を作って歌える。

レーベルと契約を結んでいるような

プロのアーティスト以外の人の歌も、

上手い歌を無数に

聞けるようになってしまった。

一般人同士だからと他者と比べては

勝手に落ち込んでいく。

私の中では勝手に

音楽には上下があるなんて

思い始めていたのだろう。


CDプレーヤーの上にあった

アルバムを手に取って開く。

徐にCDプレーヤーの電源を入れ、

CDを導入してみた。


陽奈「…。」


しゅ、うぃー…と機械の動く音がする。

そうだ。

CDを入れて、再生を押しても

ほんの少しだけ待つ時間があったな。

今でいう動画の広告みたい。

何だかアナログだな。

…私の世界はいつも狭くて、

この音楽だけが居場所だって

思ってたんだっけ。


刹那、記憶の奥底で

耳馴染みのある音楽が流れ出した。


幼稚園生の時はお母さんが

ずっと家の中でこのCDをかけていた。

好きなアーティストなんだと言って

私にも何度も聞かせていた。

小学生になって、今度は私が

CDをつけるようになった。

お母さんはいくら好きな

アーティストとはいえど、

何百回も聞いたから飽きたのかもしれない。

けれど、私がプレーヤーを

勝手に動かしてつけてたっけ。

何度も勝手に使ううちに、

家の中ではむしろその音楽が

なっていないと不思議な気分に

なるくらいだった時期もある。

よく家に来ていたいろはも

その曲たちを覚えていってた。

いろはは落書き帳に絵を描いて、

私はその隣に座って歌を歌う。

春だって夏だって秋だって冬だって、

扇風機やこたつと共に

楽しくて仕方のない時間を過ごしてた。


…鮮明に思い出せちゃうな。

その時は、歌うのが大好きだったんだ。

いろはやお母さんが褒めてくれたのも

もちろんあるとは思う。

けど、それ以上に歌っている自分と

歌そのものが大好きだった。

これだけがあればいいとすら思った。

その時の私は今よりももっとずっと

明るくなかったっけ。

なのに、今は…。


膝を抱えるとじんわりと

痛みが広がっていく。

…中学あたりを境に

がらりと変化した私を見て、

きっとこのCDプレーヤーは笑ってる。


陽奈「…。」


吐息で音程を合わせてみる。


陽奈「…ふー…ふーふふ、ふー…。」


…あはは…。

合ってるのかわからないなぁ…。

あ行すら発声できなかった。

本当に心の病気ってだけで

こんなにも声が出なくなるものなのかな。

それとも本当に身体的な病気なのかな。

治るのかな。

たった今私はこんなに

歌いたいって思ったのに。


声が出せたら、

少しくらい自分の成長を

目の当たりにできるような

気がしていたんだけどな。

こんなに音程を正確に

歌えるようになったぞって、

こんなに裏声も綺麗に

出せるようになったぞって、

過去の自分に言ってやりたかったな…。


陽奈「…………っ。」


強く膝を抱くと、

びりびりと痛みが襲ってくる。

痛い。

痛い。


…何かがぽとりと

抱える膝に落ちるのがわかった。

昔に戻りたい。

戻って、楽しく音楽をやりたい。

楽しいって思いながら歌いたい。

…。


陽奈「…。」


…歌いたい。

それでも声は出なかった。

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