病に託けて
雨は、人を自由にする。
私は雨によって自由にしてもらい続けた。
気づけば雨の中。
私は知らない土地に立っていた。
周囲を見渡しても誰もいない。
近くに森みたいな場所がある。
山道だろうか。
私はその車道に立っている。
手のひらを見ると、泥だらけ。
汚れはあるのに、
何か大切なものが抜け落ちている気がする。
何かを、それを失くした。
無くすごとに雨に潜った。
雨の中、ひとつ記憶がある。
電話。
海の近くのー。
***
陽奈「…!」
はっとして上体を起こす。
湿気も相まってか、
ぐっしょりと汗をかいていた。
周囲を見回しても紛れもなく私の家で、
ほっと胸を撫で下ろす。
またやってしまったのか、なんて思った。
こんな夢を見るなんてついてない。
こんな夢…とは言え、
山奥に逃げ出してしまった…と
ざっくりとしか思い出せないけれど。
私にはひとつ、不可解な記憶がある。
それは、私から電話がかかってきたこと。
何を言っているのか分からない、
理解できない人も大勢いると思う。
けれど、本当に起こったことなのだ。
私は過去、私から電話をされた。
未来の自分からの電話だった。
今となっては、あの出来事は
夢だったのではないかと感じる。
まるで泡を素足で踏んだかのような
ぷつぷつという謎めいた感触、
そして一瞬で消える儚い存在。
…夢だったんじゃないか。
陽奈「…夢だったのかな。」
話した内容、話された内容共に
今ではほぼ覚えていない。
記憶の引き出しの中で
大切に温められてあるのか、
将又燃えるゴミの日にでも出されたのか。
その記憶の行方を知る者は
私を含めて存在しない。
当時、私は確か小学6年生くらいの
年端も行かない子供だった頃。
突如家の親機が元気に鳴り出したのだ。
その時の私は留守番中だったのか
1人だった気がする。
そうでなければ私は自ら
電話になんて出ようとしないから。
いろはは電話をかける前に
走って私の家まで来るタイプだから、
いろはではない自信があった。
お母さんかな。
お父さんかな。
知らない人だったらどうしよう。
そこまで考えて、念の為を思って
受話器を手にしたのだと思う。
私の予想により大幅に
改変されているかもしれない。
私だったらこうするだろうというのが
手を取るように分かる。
自分の嫌な特徴を晒しあげれば
自ずとその先の行動は読めてしまう。
嫌なもんだな。
陽奈「……夢…。」
やっぱり夢だったんだろう。
5年前のことだから覚えているはずもない。
夢だ夢。
微睡の中出会った妄想だ。
そう思えば心の奥の蟠りは
お湯に投入された砂糖のように
みるみるうちに溶けてゆく。
そうか。
こう考えてしまえば楽だったのかと
脳の中で踊る小人さんが数人。
今日の夢さえまともに覚えていないのに
5年も前のことなんか
覚えられるわけがないだろう。
ぼんやり時計を眺めると
既に10時を回っていた。
外の空模様は未だいいとは言えないけれど
夜中よりは幾分も収まっている。
陽奈「…ぁ。」
すぐに布団から出ようとして
ぴたっと足を止める。
そうだった。
今週はお休みをもらってたんだった。
先週のちょうどこの頃には
美月ちゃんと会って
助言してもらってたんだっけ。
何もしない日々が始まって
そろそろ1週間経とうとしているらしい。
あーあ、と声を漏らそうとした時だった。
陽奈「…?」
あまりに乾燥しているのか、
全くと言っていいほど声が出なかった。
痛みという痛みは
だいぶ引いているのだけれど…。
風邪を拗らせているということにして
片付けておくことにした。
もう1度窓の外を眺める。
雲行きは怪しいけれど、
なんとか外出できそうだ。
陽奈「…。」
久しぶりに友達のいる場所の
聖地とも言えるような土地に
…海に、行こうと思った。
私には、たった1人、
ずっと一緒に居続けた友達がいる。
家族や従姉妹とは異なった
繋がりを持つ彼女は
私にとって大切な存在で、
その子は比べ物にならないくらい
とても綺麗だった。
髪が膝裏くらいまで長くて、
頭部あたりは真っ白な髪、
毛先は蒼で綺麗な
グラデーションになっている。
いつも海に足首までだけ浸かって、
背を向けて私の話を聞いてくれた。
辛くなったら陸まで上がって
近くにしゃがんでくれる。
けれど、決して背を撫でてくれたり、
ましてや涙を拭ってくれたりなど
触れることはなかった。
最近彼女を頼ろうとしても
そもそも海にいてくれないものだから
まだ私の心への負荷は許容範囲と
言えるのかもしれない。
白い肌だから、
日差しが強いといつも不安になった。
だからかな。
いつからか空は夜と朝の間際のような、
深藍と薄い水色、
そして生まれたてのような浅いオレンジ色が
混ざったような色をしていた。
けれど、今から行く海は、
現実の空はもっと薄暗くて
希望を抱くことも恐れてしまうほど
悍ましいものなのだろう。
季節関係なく白いワンピース。
レースが細かく繕われていて素敵なもの。
ここは暖かくも寒くもない。
けれど、海の中は少しだけ
冷たいに違いない。
私は勇気がなくて
そこまで踏み出すことはできないけれど、
きっとそのはず。
その子には、季節なんて関係ない。
だって。
お母さん「陽奈ー、少し手伝ってー。」
階段下からお母さんの声がする。
布団から落ちそうになりながら
近くに置いた眼鏡を探す。
陽奈「……ぃ…。」
声が出せないことを思い出しては、
慌てて階段を駆け降りるのだった。
***
お母さんに頼まれたお手伝いを終えてから
肩に鞄をかけててくてくと歩いた。
いろはを誘うこともなく
1人で外出するのは
とてつもなく珍しいことだった。
お母さんもやや不安げな
表情をしていたけれど、
それ以上に嬉しそうな笑顔で
送り出してくれた。
きっと私が成長したとでも
思っているのだと思う。
実際は真逆なのに。
部活をサボって、海に逃げようと
しているだけなのに。
電車に揺られて向かう途中、
風が強かったのか
必要以上に揺れる時があった。
休日の昼間だというのに
いつもよりかは空いていて、
運良く座ることができた。
が、それでも満席になる程度には
人はいるわけで、
隣に誰かが座っては
肩身を縮めて弄っていたスマホをしまった。
近くや背後に誰かがいると、
スマホや自分の頭の中まで
見られているような気がしてしまって
容易に過ごすことができない。
たとえ友達だとしても
気が引けてしまうと思う。
いろはや家族ですらも。
陽奈「…。」
人と心を通じ合わせるような
コミュニケーションをとってみたいと
思ったことはあるのだけれど、
私には到底無理だ。
だって、自分も他人も
信じることができないのだから。
がたごとと揺られながら到着した海は
何だか濁っているように見えた。
傘を指し、濡れた砂浜を歩く。
靴の中に幾らか砂が
入っていくけれど、
昨日の水たまりにはまったときよりは
随分と可愛いもののように思えた。
いつだってそう。
最悪を経験して仕舞えば
並大抵のことには耐性がつく。
「あの時よりもマシだから」と
さらに頑張ろうとする。
そして、気付かぬ間に心も体も
容量を超えてしまう。
それで、崩れるの。
全部ばらばらになって
これまでのことが全て無駄に思えてくる。
陽奈「……ぃ………ぉ…。」
自分でも恐ろしくなるほど
掠れた声が流れた。
むしろ声というより
ただの風の流れとしか言えないほどだった。
マスク越しに彼女を、
頭の中の海で待ってくれる
彼女を探してみる。
けれど、当たり前だがその姿はない。
だって、ここは現実だから。
…。
現実には、私のことを
いつでも心配して、
いつもの場所で待ってくれているような
友達はいないのだから。
…せめて、空想でくらいは…。
海にいるその子には、
季節なんて関係ないの。
だって。
だって、イマジナリーフレンドだから。
陽奈「………ぁ…はは…。」
周囲には数人ばかりしかいなかった。
けれど、数人もいたのだ。
ここで蹲って声も出せないこの喉を
引きちぎってやりたいくらいだった。
出来ないけれど、大声をあげて
泣き叫んでみたかった。
けど、そんなこと数日も経てば
きっとできるようになる。
靴を脱いで海に踏み出そうと
思ったのだけれど、
昨日よりもまたさらに痛みを
伴い始めた足を理由に
踏み出すことはやめた。
いつだってやらない理由を探してる。
いつだって逃げる方法を探してる。
…いつまでも先に進めないことに
怯えながら安堵している。
陽奈「…。」
もう、帰ろう。
ここにいたって友達はやってこないし
頭の中の友達も現れてくれない。
ここにいても意味がない。
…。
陽奈「……ぁ…し、のぃ…。」
…。
あはは、何これ。
全然声出ないや。
けれど、明確にわかる病気なもので、
酷く安心している私が、
満足している私がいた。
目に見える病気は
正当な理由になると思ったからだろう。
駅に向かう中、公衆電話が目に入る。
電話ボックスの中には
誰かが入っているようだった。
雨のせいで見づらかったけれど、
それはー。
陽奈「……?」
一瞬、その人の髪の毛が
髪が膝裏くらいまで長くて、
頭部あたりは真っ白な髪、
毛先は蒼で綺麗な
グラデーションになっているように見えた。
しかし、人が電話ボックスの前を通ると
そもそも人は入っていなかったかの如く
がらんどうになっていた。
陽奈「……ぃ…の、せぃ…。」
気のせいに決まってる。
だって、あの子は…。
…。
何度も自分の中でいうほど
虚しくなってくる。
あの子は、存在しないから。
しとしとと僅かに降る雨の中
痛む足を引き摺りながら
電車に乗り込むのだった。
台風が過ぎてもなお
私の脳内では雨が降り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます