タルトオルド
裁判室で、亜麻色の睫毛がふわりと降りる。
「……さて、二十六日ぶりだねアシュレイくん。まさか断頭処分を下した生徒にまた会えるとは、さしものわたしも思わなかったよ」
容疑生という身分は継続、と言ってもペルシェの話では真犯人が自白した以上それは形式的なもので、フェーヴにアシュレイを拘束する権限はもうないのだという。
だから最後の仕事にとペルシェが裁判室まで送ってくれたのも、〈執行官〉としての仕事では本当はないんだろう。きっと彼女なりの善意だ。
カモミールティーとタルトを食べて食べてと勧められるので少しずつフォークを差しながら彼女の話に相槌を打っていると証人尋問という名目で呼ばれた事を忘れそうになる。事件に関する問答が一通り終わってしまうとフェーヴ〈裁判官〉はストレートで飲んでいた紅茶に砂糖を入れ始め、一口飲んだと思うと「あそうだ」と顔を上げた。
「シュトロイゼルっていたでしょ。あれはわたしの兄なんだけど、馴れ馴れしいからきみを困らせてないか気掛かりだったんだ。大丈夫?」
「え、」
昔から噂に聞くところだと〈裁判官〉とシュトロイゼルは元々血のつながった双子という話だった。確かに近くで見ると顔立ちや纏う空気が瓜二つなので疑われるような信憑性の低い噂ではないのだが、本人から直接聞くと改めて驚いてしまった。
「……友達として仲良くしてくれて本当に助かりましたよ」
アシュレイは目の前で自分を見つめる柔らかい笑顔にお茶目な友人を思い出して、力のない顔が少し綻んだ。
「六年生になるともう新しい友達はできないものだと思っていましたし、純粋にとても嬉しかった」
もしあの申し出が容疑生の監視のためだったりしたとしても、彼がいなかったらどこかで挫けていたかもしれない。シュトロイゼルには感謝してもしきれない。
「大人だなあ、アシュレイくん」
やれやれとここにはいない双子の兄を揶揄うように言う。
「ま、吉と出ただけいいか。多分ちょっとはしゃいでるんだよ。わたしたちはフェーヴの中でも特に若いほうだから、はじめから友達として長く付き合うって約束のできる後輩はいなかったんだ」
「そうですか……まだフェーヴに選ばれたわけじゃないのに、そう思うと忍びないですが」
フェーヴに選ばれるという重要な手順を聞かされていないのでアシュレイはずっとこの杖を借り物として扱っている。
視線を戻すと頬杖を外したマドレーヌが目をぱちくりとさせていて。
「あれ、聞いてない?」
「何を?」
アシュレイは曖昧だった予感に輪郭が帯び始めているのを感じながら、それでも分からないみたいに首を傾げた。それを見抜いているのか、マドレーヌは顔の前で手を振って誤魔化してくれた。
「ううん、それにしても、あいつ早い者勝ちみたいでずるいな。わたしとも友達になってよ、アシュレイくん」
「友達、」
ふと気付けばクラフティが捕まってから一日しか経っていないのにお菓子を振る舞われ、マカたちからは巻き込んで悪かったと謝ってもらってしまった。
波紋が収まっていくのに、誰もが慣れてきている。
「あの……やっぱりクラフティと会うことはできませんか」
「できない」
答えは分かっていた。〈裁判官〉のふわりと浮くような話し方は変わらないのに、絶対に覆らないという構えが端的な言葉で伝わってくる。
「彼は今座敷部屋にいるんだ。きみなら知ってると思うけど、座敷部屋は他の生徒は決して入ってはいけない場所だからね。……どうしたの? やっぱり、濡れ衣を着せられたから怒ってたりする?」
「僕じゃなくて、彼の友人が……いえ」
引き下がるとマドレーヌは眉尻を下げて微笑んだ。
「時に……規則はきみたちの邪魔になる」
それだけ言ってしばし彼女は口を閉ざし、静かにカモミールティーの二杯目を注いでお茶の時間を楽しんでいる。沈黙が許されてアシュレイの胸の中で揺らいだ波がゆっくりとゆっくりと水平に戻っていくのを待って。
アシュレイばかりがこんなに気を遣われていていいのだろうか。
「クラフティはこのまま処刑、でしょうか」
マドレーヌがタルトの生地を割ると、フォークが皿にぶつかってカツンと音を鳴らした。
「いつかね」
それからの時間の流れはなんだかゆっくりで、しかし別れは急ぎ足で訪れる。
「立つ日に知らされるのだけは心臓に悪いよな。送別会とかやってみたいもんだけど」
コートを着こんで大きな荷物を持ったフィーが、ソプドレジルアンの門に向き合うのを、少し後ろから同級生のみんなで見守る。
「まさかお腹の治療中に人形化が完成してるのがわかるとはねえ。めでたいことだけど、こんなタイミングでまた一人減るのはちっと寂しいな」
人形化が達成した生徒はそれを知らされてから二日ほどで先生の元へと旅立たなければならない。フィーの場合は怪我の完治を待った上に、先日の一件から隠れたメレンゲ食いがいないかの調査で丸一日寮外へ出ることが禁じられていたため、完成が判明してから準備をするのに数日がかかってしまった。その間も他の生徒には伝えてはいけない決まりなので見舞いに顔を出した際に何か隠されていると感じたのはこれか、とマカが納得したのは勿論、今朝方のことだった。
このような時に正直に気持ちを言葉にするコンテのことは尊敬できるな、とマカは思う。実際ここにいるほとんどの奴も根はあまり素直ではないが同意するように妙なうなり声をあげていて、一人の同胞の旅立ちを惜しんでいる空気が伝わってくる。
「で、アシュレイはいつ話してくれるんだ?」
肩に寄りかかったコンテが囁いてきて、アシュレイはつい口籠もった。明確に伝えたわけではないが、きっと聡い彼はわかっていたのだろう。合議室で限られた数の椅子の一つを選んで座ったアシュレイが、どのような立場にいるのか。
「……その、言いづらくて……」
めでたいことなんだから気軽に話してやってもいいんだぜ、とけしかけられても踏ん切りがつかないアシュレイに笑いが堪えられなかったコンテの手がばしばしと肩を叩いてくる。
「……フィーとはちゃんとお別れできてよかった」
呟いたのはコレットだった。今日ばかりはしおらしく、先程までずっと手を離さなかった親友にもう一度駆け寄りたいのをぐっと抑えてその背中を見つめていた。コレットのそばにはいつもフィーともう一人がいたのに、今では誰もいない両脇が寒々として見える。
「小さい頃からずっと一緒にいたのに、なのにあの子の考えてることをちっとも分かっていなかったの。アシュレイの冤罪のことも、沢山の仲間が死んだことも、私のせいだわ」
あの子と口にしたのがフィーのことではないことはこの場にいるみんなが分かる。座敷部屋で罰を待つ同級生。何も知らなかった彼女があの殺戮の罪を負うにはあまりに重すぎる。
「な、何言ってんだよ」コンテが掠れた声を取り繕って、珍しく何も言えなくなったのは彼自身も同じように感じているからなのだろう。マカは頭を掻いて溜め息を吐く。みんな、考えることはあまり変わらないわけだ。自棄にならないでとほざいた大罪人が脳裏にちらついて、言うつもりじゃなかったのに湿っぽい空気に一石を投じてしまった。
「……お前だってすぐに卒業する。運良く残っちまったオレたちは、また会いたければ外に出て、会いにいくしかないだろ」
「…………」
「なんだよ」
「……そうね。私はマカより頭もいいし、後にはならないわ」
「おいっ」
笑いが起こったのが気になったのか、フィーがこちらを振り向いて。その顔がただ純粋に門をくぐることを受け入れていて、彼女の肝の座った部分が強く現れていた。これ以上門のそばへ行けない生徒たちは各々叫んだり手を振ったり、長くてまるまる五年間の友人を見送る。
愛してるわ、とコレットが叫ぶ。すると笑顔で手をぶんぶんと振る友人は晴れやかで、六年近くの間全く触れてこなかった外の世界へ尻込みする様子はない。あの強さゆえに、彼女は人形に成れたのだろうか。
僕らにその真相は分からない。
「違うんだよ。みんな、……違うんだ」
友人の姿が眩しく見えたのはアシュレイだけではない。けれど喉元が熱くなる。
「アシュ……」
「過去とか先生のためとかじゃなくて。僕はみんなと笑顔で暮らせるなら、それだけでよかったんだ。」
手で拭っても受け止めきれなくて、足元の地面がぽつぽつと黒く濡れる。
「僕はただ、ただの日常を守っていたかっただけなんだよ……!」
あんな顔で旅立ってくれるなら、傲慢だけれど、君たちを少しでも支えてあげられたんじゃないかと思うのだ。報われるんだ。
こんな不器用な手でも。
コツコツ、と近くの煉瓦を叩く音がして。
「ペルシェ? いたんだ」
みんなが寮へ帰った後もしばらく立ったままでいたアシュレイがようやく校舎へ戻ろうとした廊下に〈執行官〉が壁に寄りかかっていて、結んでいた口を開いてちょっと揶揄うように言った。
「あんたも取り乱すことあるんだ」
「君と出会ってから結構アワアワやってきたと思うんだけど」
泣いていたのが見られていたのは恥ずかしいけれど、赤くなってしまった目元はもう隠せそうにない。
「ありがとう、ペルシェ」
「何?」
面と向かって感謝されることなんて経験がなかったペルシェは予兆もなくそんなことを言われて面食らってしまった。ペルシェが驚いた顔で固まるのを彼は首を傾げて眺め、胸に手を当てた。座敷部屋では黒だと思っていた髪が陽の光に当たって、緑がかった藍色を揺らして。
「君のおかげでこうして生きてる。君が僕の首を守ってくれたから」
微笑むアシュレイは傷ひとつないただの少年のようだった。首元には消えない烙印が隠されているのに。何人もの友人を失ったのに。
「……最初の段階で鳥の亡霊に着目したのはあんたでしょ、あたしたちは存在すらよく知らなかったんだ。だからあんたがいなかったら、講堂の惨劇は免れなかったと思う。そうしたらどっちみちあんたは死んでたね」
「運が良かったね」
守ったつもりはない。そう言ってもアシュレイが感謝を撤回することはないのだろう。そういう顔をしている。生徒というのはやはりよく分からない。出立前にフィーから押しつけるようにして渡された犬のぬいぐるみが片手を塞いでいてずっと落ち着かないし。
「そういえば返すよ、これ」
「え」
ぐっと握ったこぶしをアシュレイに差し出して、彼の手の平にころっと落とす。きらりと光るコインのようなそれは、アシュレイの制服からほつれて取れていたボタンだった。
「やっぱりこれを銀貨というには無理があるよ」
一拍呆けた後、アシュレイは泡が弾けるように笑い出した。
「あははっ」
○
ペルシェに連れられて合議室へ顔を出すと、ちらほらとフェーヴたちが集まって席に座っていた。
「アッシュ君だ」
「アシュレイひさびさ〜」
お菓子の匂いで満ちた合議室がフェーヴのお喋りの場になっていることにはもう驚かないが、今日はなんだかいつにも増して浮ついた空気だった。手を振られて笑い返すアシュレイの横を〈裁判官〉が目配せしながら通っていく。
「マドレーヌ。今日はきたんだ」
「いい日だからね」
キシェと会話しつつ自分の席に着くマドレーヌを指差しながら心配するような話しぶりでシュトロイゼルが話しかけてくる。
「アシュレイ、証人尋問大丈夫だったー? こいつおれの双子なんだけどお喋りだったでしょ。疲れてるのに付き合ってくれてありがとね」
「せい……」
「あ、ルー。自分のこと顧みた方がいいんじゃない?」
生徒の義務だからね、と返事したアシュレイの声は聞こえておらず双子は一斉に言い合いを始める。ペルシェのみならず他のフェーヴたちも放っておいているところを見ると彼らはいつもこうなのだろう。
「あれ? これ……」
自分の前に用意された今日のお菓子を改めて見ると記憶に新しい組み合わせというか。アシュレイが訝しげなのを見て、シュトロイゼルは立ち上がってみんなにお菓子を紹介する。
「今回はね、シュトロイゼルくんちょっとやっちゃったなーって思ったからそのお詫びも兼ねて。今日はおれが作ってきたよ」
「ああ、そっか。あはは」
お詫びと称して振る舞われたのはカモミールティーとタルトだった。アシュレイが憚らず笑う理由にピンときたシュトロイゼルの手がテーブルを叩く。その矛先は勿論。
「マドレーヌ、昨日の試作品盗んだな!? 自分で食べちゃったのかと思って焦ったじゃん」
「美味しかったよ、ね〜アシュレイくん」
「さいあく、形とかイマイチだったのにそれを裁判室で出すとか……許さん」
「おっ喧嘩?」
「やめな、食べものがあるのに」
「ごほん、」フェーヴの合議室が賑やかな運動場に早変わりする前に、シャルロットの咳払いがテーブルの秩序を支配した。腕まくりをしていたシュトロイゼルと逃げる準備をしていたマドレーヌ、止めるでもなく野次を飛ばすクレアと見守るだけの他数名。全員が口を閉じて〈生徒会長〉に注目する。
「……大きな事件がひとまず解決したわね。後処理は各々に任せます。何人かはわかっていると思うけれど今日は合議じゃなくて、大事なお知らせがあって出来るだけ集まってもらったの」
「はい、発表しまーす」
シュトロイゼルが今度は静かに立ち上がり、何か書類を掲げ持って読み上げる。
「生徒番号三一五、アシュレイ。厳粛な検査の結果、人形化の過程を全て修了した事をここに認めます」
「……え? 僕?」
祝福としてテーブルを叩く音が鳴り響き、アシュレイは思わず立ち上がって素っ頓狂な声を上げた。クイニアがそれを軽く見上げて言う。
「君は晴れてソプドレジルアンを卒業できるということだ。おめでとう」
「つきましては彼を正式に、〈司書〉としてフェーヴに迎え入れるべきと考えます。どうかしら、みんな」
反対意見は一つも上がらない。
「どうかしら、アシュレイ。〈司書〉という役割……図書館の管理人は、杖に選ばれた通り謙虚な貴方に似合うと思うのだけれど」
こちらに向き直って申し出るシャルロットの口調は命令ではなくて。
あとはアシュレイがどうするかだ。手にある杖を差し伸べられたフェーヴの手に収めるか、彼女の手の平に自分の手を重ねるか。
ぼんやり蝋燭の灯す暗闇の先で少女がつぶやいた。
君の番だ、と。
王様のためのオルゴール=メレンゲドール 端庫菜わか @hakona
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