きみのよるべに

 いつものことながら彼女の提案は唐突だった。

「真莉、海行かない?」

「泳げないよ。」

 燦々と照る太陽。色とりどりのパラソルに、屋台の美味しそうな匂いが漂う。ピカピカ光る浮き輪に、水着の彼女。日傘を支えながら座り込む私にかき氷を差し出してくれて、一緒に頬張る。

「まだギリギリ四月なんだけど。」

 真夏のバカンスは霧散していった。それもそうだ、海開きもすんでいないし。ただ水着姿の彼女が見られないのはちょっと残念。

「なにしに行くの?」

 サンゴや星の砂を拾い歩こうにも、このあたりの海岸には落ちていないと思うけど。ワカメでも取るのだろうか。海女姿の彼女もいい。

「お散歩。」

 手で口元を覆いながら目だけで笑う。カゴを背負った彼女は手を振りながら去っていった。ひとのことは言えないが彼女が積極的に歩こうとするなんて珍しい。何かあるな、ということはだいたい察しがついた。それはさて置いても久しぶりの外出だ。

「行こう。」

 ふたりの間に挟まる彼女の手をいいことに、鼻が触れるまで近づいて。せっかくの提案ですから、乗ってあげましょう。


◇◆◇◆◇◆◇◆

 出かけるのは食後でいいということなので、遅めの昼食をゆっくりとっていた。

「とびっきりおめかしするよーに、と言いたいんだけど。」

 本日のお昼ご飯、そば粉のガレットをフォークで丁寧に折りたたみながら彼女が言葉を切る。変なところで几帳面だなぁと思った。真ん中にのせた目玉焼きの黄身だけ残しながら食べている。

「ど?」

「今日はスカートじゃない方がいいです。あと頭も、こう、自然体でお願いします。」

 服装の指定が入るのは初めてだ。なんだなんだ。ビーチバレーでもするのかな。訊いても教えてくれないだろうし、お互いのサプライズは甘んじて受け入れることが私達の間では慣例になっていたから、理由を問うことはしない。当の彼女はその話なら終わったとばかりに、丸く残った黄身と生地の下に慎重にフォークを差し込んで、手早く口に放り込む。ぎゅっと目を瞑って文字通り至福を噛み締めていた。その間に彼女の皿からマッシュポテトをひと口失敬する。

「真莉。」

「はい。」

「マッシュポテトなら冷蔵庫にあるよ。」

「そうだね。」

「……ベーコンもーらい。」

「ベーコンとマッシュポテトは釣り合わないでしょう。」

「このベーコン美味しいんだもん……。」

「それは認める。付け合わせだけもうひと皿食べよっか。」

「いいの? 真莉さん太っ腹ー!」

「デート企画してくれたお礼。」

 私の皿は黄身でべとべとになっていたから、彼女の皿を受け取ってキッチンに。スープに流用しようと思っていたベーコンを数枚よそって、マッシュポテトをこんもり盛り付ける。肉とじゃがいもの組み合わせは最強だ。戻る前に少しだけつまみ食いをした。


◇◆◇◆◇◆◇◆

「準備オッケーです。」

 肩掛け鞄のストラップを握りながら敬礼っぽいポーズをとる。気持ち顔もキリッとさせた。キリッ。

「ほんじゃ、行きましょーか。」

 ポケットに両手を突っ込んだ彼女に先導されて家を出る。久しぶりにスニーカーを履いた気がする。軽くていいなと思った。

「庵、駅はこっちだよ。」

 駐車場に歩を進める彼女を呼び止める。軸をぐらつかせながら振り返った彼女はやっぱり口元に手を当てていて。その手に何か引っかかっていた。

「今日の足はこっちだよ。」

「車のキー? 庵、運転できたの。」

「惜しい。バイクです。」

 じゃじゃーんと言って指し示された先にはシャープな車体が鎮座していた。ほいっとハンドルにかけてあったヘルメットを投げてよこす。すんでのところで受け取って、おずおずとかぶる。重い。首がぐらぐらしそうだ。

「乗って。」

 スタンドを跳ね上げてバイクに跨る彼女は正直すごく絵になる。かっこいい。

「乗るって、後ろ? 横に何かつけるんじゃないの?」

「後ろだよ。座席あるじゃん。サイドカーはレンタル料高いの。」

 確かに座席はある。けどこれは、これは彼女の腰に手を? 回すということか?

「ちゃんとつかまっててよ。」

 躊躇っているうちにぐいと腕を掴まれる。そのまま両手を組み合わされて、勢い余った私は彼女の背中に鼻をぶつけた。

「高速乗って一時間くらいかかるから。」

「サービスエリア寄りたい。」

「アメリカンドック!」

「ソフトクリーム!」

「サービスエリアで食べるおやつってどうしてあんなに美味しいのかなぁ。」

「不思議だよね。」

 バックミラー越しに笑いあって、オレンジの車体はゆっくりと滑りだす。徐々にスピードを上げて、バタバタとはためく服となびく彼女の髪を交互に見て、それから景色に目を移す。ものすごい速さで情報が流れていって酔いそうになる。前に視線を戻すと彼女の背中しか見えない。これはこれでいい。

 さわやかな風と彼女の体温とでうつらうつらしながら、なんとか振り落とされずにサービスエリアまで辿り着いた。券売機に小銭を投入し、抹茶ミックスソフトのボタンを押し込む。彼女は宣言通りアメリカンドックだった。カウンターでソフトクリームを受け取り、窓際の席を陣取る。駐車場が見えるだけだが気分は大事だ。さっそくスプーンを突き立てて、ぴこんとなっている先端を頂く。この部分が可愛くて好きだ。

「おいひい。」

「んむ。」

 彼女もアメリカンドックにかぶりつきながら頷く。はじめはそのまま、次にケチャップ、マスタード、両方の順でかけるのだそうだ。いつからひつまぶしの話になったんだろう。ひと口ずつ交換して、土産コーナーを冷かし、サービスエリアをあとにする。

「ここからはすぐだよ。」

「ほんとだ、海!」

 きらきらと輝く海面が目に飛び込んできて眩しい。見惚れているうちに出口へ進路変更して、ETCゲートを颯爽と通る。知らない街だ。もしかしたら小さい頃に来たことがあるかもしれないが、その頃とは街の方も変わってしまっているだろう。堤防沿いを少し行って、コインパーキングに駐車する。ヘルメットを取ると快適さに涙が出そうだった。

「磯臭ーい。」

「第一声がそれ?」

「事実じゃん。」

 荷物を持って歩き始める。彼女は海と逆方向に向かっていた。

「どこ行くの?」

「まだ時間あるから、ボウリング。」

「えっ、やったことない。」

「私もない。だからつきあってよ。」

 平日で客も少なく暇なのか手厚いお姉さんに逐一訊きながらもたもたと靴を借り、エントリーシートを記入して、あてがわれたレーンへと移動する。

「ボールの重さが選べるらしい。」

「一番軽いのは……八ポンド?」

「たぶん。私は十一ポンドにしてみようかな。」

 意味もなく丁寧にボールを拭いて、穴に差し入れた指が抜けなくなるんじゃないかという恐怖と闘いながらの一投目。綺麗な弧を描いて側溝へ落ちた。彼女もガター。二投目は辛うじて端のピンを一本倒す。彼女はまたしてもガター。そんなこんなでワンゲーム目は惨憺たる結果だった。スコアシートを受け取るとお姉さんが「バンパーレーン使ってみます?」と提案してきた。ガターにならないレーンのことらしい。最初に言ってほしかったがこれも商法か。私達は一も二もなく頷いていた。お姉さんは半笑いで「これもどうです?」と、子供向けらしい滑り台型の補助具を出してきた。ゾウの絵が描かれている。この上を転がすとまっすぐ投球できるというスグレモノのようだ。再びレーンに戻って投球を開始。

「わっ、狙いが……。」

「ボール戻ってきたんだけど。」

「スペア!」

「チャレンジ? お菓子もらえるの?」

「お姉さんさすが!」

「お願い、ゾウさん……!」

 様々なものの力を借りて、先程の三倍のスコアを叩き出した私達はお姉さんにお礼を言ってボウリング場をあとにする。だいぶ日も落ちてきていた。足元を気にしながら階段を下りて砂浜に出る。砂のひと粒ひと粒が夕陽を受けて赤く輝いていた。半分埋まっているテトラポットの上にやっとのことで登って、腰を落ち着ける。

「真莉真莉、見て。」

 彼女の声に顔を上げると、ちょうど海面と太陽が接するところだった。反射光が細かな欠片となって踊る。青いはずの海ですら濃い橙に染まって、脳髄を揺らす。いつのまにか止めていた息を吐き出しながら、陳腐でいて的確な感想が口をついて出る。

「きれい……。」

「でしょ、これ見せたかったの。」

「今日なのも、意図的?」

「もちろんですとも。」

 彼女が日付を覚えていたことも、それを祝おうと思ってくれていたことも、こうして実際に祝ってくれたことも、何もかも嬉しかった。

「真莉とはじめてちゃんと話した日。あと私の引っ越し祝い。」

「ありがとう、あとおめでとう。」

「こちらこそありがとう。私、真莉がいなかったら家探して途方に暮れてたと思うよ。」

「庵も、我儘な私を見放さないでいてくれてありがとう。誰かに誕生日を祝ってもらうのも久しぶりで嬉しかった。」

「私も。年中行事ではしゃいだのなんて何年ぶり? 毎日真莉と顔合わせて美味しいご飯食べて、すごく幸せ。」

「憧れのひとだった庵が今まで一年間隣にいたなんて夢みたい。」

「現実ですー。これじゃキリないね。」

 頬をつねるべき手が頭をぽふぽふする。何か違う気がするが彼女らしいのでよし。

「な、泣かないでよー……。」

「ちが、夕陽が染みただけ。」

 慌てて伸ばした袖で顔を拭う。けれどとめどなく溢れる涙は拭っても拭っても足りなくて、彼女は私が泣き止むのをずっと待っていてくれて。そのことにまたこみ上げるものがあって、体中の水分が全部流れてしまったんじゃないかとさえ思った。それでも気持ちはまだ消化不良を起こしていて、表現する術も持ち合わせないまま沈む赤を見るともなしに見る。どれくらい時間が経ったのかもわからない。彼女はいつものように、隣で手を握ってくれていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆

 またしても彼女の誘いに乗って、今日は彼女の部屋で一緒に寝ることになった。引っ越し当初の彼女の部屋はリビングだったけれど、玄関から丸見えの自室もどうかということで宅内お引越しをしたのだ。それにしても、自発的に同じ布団に入るのは初めてじゃないか? 眠れなかったらどうしよう。

「雨降ってきたね。」

「雷鳴らないといいね。」

「ほんとに。」

 枕もとのリモコンに手を伸ばして電灯を消す。雨音が一層よく聞こえる。

「じゃ、おやすみ。」

「おやすみ。」

 まだ夜は少しだけ肌寒い部屋で、狭い布団に詰め込まれている。一年前、手紙を書いて。それから起きたたくさんの偶然の上にこの状況が成り立っているということを考えると少し滑稽だ。雷さえ鳴っていなければ彼女は無敵で、顔は見えないけどもうすうすうと寝息を立てている。布団をかぶり直して、開けていても意味のない瞼をようやく閉じた。


 気のせいだろうか。それとも夢だろうか。何かが割れる音と、一気に強くなった雨脚、ごうと鳴る風の音。思い過ごしならいいけれど、布団をそっと抜け出して音のした方へ向かう。手探りで電灯をつけようとする前に、足の甲にはたはたと雫が降りかかるのを感じる。顔を上げた途端に吹いた風に、前髪をすくわれる。極めつけに閃光が迸った。


◇◆◇◆◇◆◇◆

 雷が鳴っている。が、今日は真莉がいるから大丈夫。と思ったのにいくら手を伸ばしてもその背に触れない。トイレにでも立ったのだろうか。少し待ってみる。

「……長くないか?」

 目覚まし時計のライトをつけてしきりに時刻を確認していたがもう十分は経っている。倒れていたりしないといいが。心配なので探しに行くことにする。

「ぅひっ。」

 寒い。天気が悪いからかもしれないが、窓でも開いてるんじゃないかと思う。腕を組んで屈みながら風の抵抗を最小限にする。トイレのドアをノックするが返事はない。カギはかかっていなかったので電気を点けて開けてみるがいない。ということはリビングか彼女の自室かだろう。さっきよりも強くなったように感じる風を受けながら、廊下を進む。何かにつまずきそうになった。片足で押しのけて通ろうとするが、思ったより重量がある。何だこれは。両手で転がしてどかし、電灯のスイッチを探り当てる。蛍光灯に照らされたそれはコンビニでよく見るアレだった。

「……ソフトクリームの立体看板?」

 なんでこんなところに転がってるのか寝起きの頭には理解が及ばないが、そんなことはどうでもいい。あまりにも静かで、明るくなってやっとその存在に気づいた。

「真莉。」

 うずくまる背中に近寄ろうとすると、足の裏に鋭い痛みが走る。ついでのように唇も噛む。

「いっ……!」

 あたりにきらきらと光って見えるもの、それがようやくガラスの破片だと理解する。リビングの窓には大きく穴が空いていて、冷たい風雨が吹き込んでいた。つま先立ちでなるべく欠片を避けながら歩く。

「真莉、寝てる? 風邪ひくよ。」

「……れちゃった。」

「なに?」

「窓、割れちゃった。」

「明日大家さんに電話して修理してもらおう。」

「割れちゃったんだよ。」

「真莉は怪我してない?」

「まど、われたんだよ。」

「真莉ってば。」

「われちゃったんだよ……。」

 その頬をつうと雫が伝って、彼女は虚空に手を伸ばす。今までのが響いていないのならと、意識的に大声を出した。

「真莉、私はここにいるよ。」

 はっとしながら私の方を振り向く。

「ここにいるから。」

 小さく震える肩を抱き締める。不安定だった呼吸が次第に整っていく。

「真莉、怪我してる?」

「……うん。」

「救急車呼ぼう。」

「うん。」

「大家さんには明日電話して、看板はコンビニに返して来よう。」

「うん。」

「愛してるよ。」

「……私も。私も、愛してる。」

 雷がひとつ落ちて、明かりが消える。唇から今更のように血が滲みだして鉄の香りで浸食されていく。それを薄めるように彼女の唇を奪う。

「にがい。」

「ごめん。」

 笑顔で言う彼女に、苦笑しながら血液混じりの唾を飲み下した。

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窓辺による 硝水 @yata3desu

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