霧の朝の向こう側
西崎 劉
霧の朝の向こう側
“ギイッ……キイイッ”
霧の深い公園でブランコが錆びた鉄を擦らせて揺れていた。
“ギイッ……キッ、キイッ……”
女物の靴が片一方、無造作に転げている。
その上に湿った霧が細やかな水滴をまぶし、転がった靴を徐々に冷やしていった。
静かで、そして誰も居ないはずの公園。
─────────やっと、手に入れた。
一瞬、霧がこくなり、視界が遮られる。辺りは真っ白で何も他には見えない。
誰もいないはずだった。朝早くで日も昇らないほど暗い世界のはずである。
しかしその白い世界に、淡い燐光を放つ男が一人気配も無く立っていた。
腕にはまだ大人に成りきっていない僅かに幼さが残る少女がぐったりとした様子でその身を男に任せている。
少女の足には片方しか靴が無かった。
男は、愛しげに腕に抱いている少女を見つめていたが、スッと顔を少女に近づけると、その桜色の唇に自分のそれを重ねた。
「……愛してる。君とならば眠れそうだ」
腕の中のその存在を確かめるかの様に、男はもう一度、瞳に少女を映した。
“ギイッ……キイイッ”
霧の濃度が益々厚くなり、少女を抱いた男の姿を視界から消していく。視界が完全に絶たれて、まるっきり彼らが見えなくなった時、何処からともなく少し錆びれたブランコが揺れる音が聞こえてきて、それを自覚すると共に、霧が薄らいで行った。
“キイッ……キイイッ”
霧に隠された公園が再び目の前に現れてくる。
“キイッ……キッ、キイイッ……キイッ”
さきほどまで男がいた場所には誰も居らず、足跡すら見当たらない。
“キイッ……キッ、キイイッ……ッ。”
ブランコの揺れがフイに止まる。
霧がそれを境に徐々にその姿を消していき、それと共に辺りをぼんやり照らしていた電灯が自分自身の光を吹き消していった。
ダークな色に染まっていた景色を塗り替える様にして、暖かなオレンジ色を代わりに与え、その度に空の色が段々優しく成って……そして、夜が明けた。
すべてその日に起きた事だった。少女は近所の中学に通っている極普通の中学生である。
名を“轟加奈子”といった。
彼女の通学路には、なかなか目を楽しませてくれる物が沢山ある。
例えば商店街。新製品を派手に宣伝するスーパーや、今流行りのチョコパフェを食べさせてくれる喫茶店や、雑誌で掲載された新曲を早く入れてくれるレコード店などが目白押しにぎっちりと並んでいる。
友達と学校の帰りにちょっと寄り道出来る場所には、遊園地が有った。
ここではお決まりの観覧車やジェットコースターの他に頻繁に企画物が催される。
夏の花火大会でもないのに、花火が上がっている時は、アトラクションや色々なイベントがあっている場合が多い。
そして、毎週金曜日には、その遊園地の一角で、占星術を行う人が黒いテントを張った。
その人は、歳はどうみても七十は越えている、少し陰気そうな“お爺さん”である。
いつも、白地に星と月の柄のトレーナーを着込み、下はブルージーンズのズボンを履いていた。
……どうみても、占い師には見えない風体だったが……しかし、彼の占いは殆ど九十九パーセントの的中率を誇っていた。
「……加奈子……さん?貴女は、加奈子という名前ですよね」
もう辺りは暗くなりかけた夕暮れである。
加奈子は、学校で所属しているクラブを終えて家に帰る途中だった。
友人三人と通学路から少し外れるが、このまま別れるのも何だしという気楽さで、そのままずるずると遊園地に寄ったのだ。
アイスクリームを食べながら、ベンチに掛けて、たあいない会話を展開する。
女の子だったら良くする話……例えば洋服の話や町で見かけた男の子の事、今度の日曜日に何をするかとかその類である。そんな事を飽きる事も無く楽しげにクスクスと笑い声を上げながら話していたが、それもそろそろ尽きて、明日また会う約束をお互いに交わし、友達と別れたのだった。そして、それぞれが改めて帰宅の路に着いたのだが、加奈子だけ違う様子を見せた。何故ならその遊園地の出口で声をかけられたのだ。
これが、これから起こる奇妙な出来事の前触れだったのかも知れない。
加奈子は、確認するように名前を呼ばれたので、驚いて振り返った。
すると、この遊園地で占星術をしている占い師の“お爺さん”がその場に立っていた。
「……えっ?どうして、私の……」
彼は、老人特有の柔らかな笑顔を浮かべて、加奈子の問い掛けを視線で止めた。
「私はもう随分、人を見てきたからね。雰囲気で判るものだよ」
「…………」
加奈子は、老人のその言いように、奇妙な表情を浮かべる。
そして『そんなものかなぁ』とでも言わないばかりに首をひねった。
老人はそんな加奈子にはまるで頓着する事も無く、言葉を続ける。
「貴女の星が変わった輝き方をしている。今日は人通りの多い所をなるべく選んで帰りなさい」
「……どうゆう事?」
「いいね!?」
老人はそれだけいうと、肩を軽くポンポンと叩いて、じっと加奈子の瞳を見た。そして、何事も無かった様にその場を去っていった。
加奈子は少し気味悪く思ったが、それをどうこうしようとする気持ちはまるで無かった。
何故なら加奈子自身、占いという不安定で曖昧な物をまるっきり信用しないたちだったのだ。だから、老人の不思議な忠告を無視して、いつも通りの道順を追って、家路に着いた。先に帰ってしまった友人二人同様。
わあっ!びっ、びっくりした」
目の前に赤いゴムマリが転げてきた。昔はどこででも見かけたのだが、今はそう滅多に見かけない。
加奈子は、夜食用に買ったジュースやお菓子の入った袋をガサガサいわせながら、自分の横にそびえ立っている壁にバウンドして当たったマリを追いかけて拾うと、マリの飛んできた方向へ振り返った。
そこには少し寂れた公園が一つあって、とても可愛らしい少女がその公園の入口の所でこちらをみている。
少女の横には、ひび割れたガラスのふたの付いた掲示板があり、すでにその文字は錆などでかすれて読めない。かろうじて読めたのは公園の名前と、いつごろこの公園が出来た等くらいだろうか。
加奈子は、相変わらず陰気ねぇと思いつつ、車が来ないのを確認すると、少女の側まで行った。
この公園は、加奈子の通学路の途中にある。
家からそう離れていない場所にその公園があったせいもあるが、ここより広い公園はこの辺りじゃあまり見かけない。それなのに人が少ないのは、ひとえに公園のある場所が悪いせいだと加奈子は思った。
加奈子の一番古い記憶には、この公園で誰かとブランコで遊んだというのがあった。久しぶりに興味がその公園に向いたので、懐かしいと思いつつ公園の方へ歩み寄る。
「はい!これ、あなたのでしょ」
「有り難う、お姉ちゃん!」
少女は加奈子からマリを受け取ると、満面に笑顔を浮かべ、公園の中へ走って行った。 加奈子は、その少女に対して何か妙に懐かしい物を感じ取った。それは、一瞬だけであったが、それは十分、公園の中へ入る動機につながった。
加奈子は少女につられる様にして、公園へ足を踏み入れる。
加奈子はそこで、一人の青年と楽しげに遊ぶその少女の姿を見いだした。よく見ると、その少女は、左右のおさげに幅のある青い透ける様なリボンをしていた。
少女はマリをつきながら童謡を口ずさむ。
動作が一つ一つ変わるたび、風にあおられる様にして、ふわふわとそのリボンが揺れた。
マリがリズムを取っている様に、その少女の幼げな高い声が人を聞き入らせる。この年齢の子の持つ独特の魅力だった。
青年にとっても同じらしく、とても優しげな表情でその少女を見ている。
加奈子は兄妹かなっと思った。『仲のいい兄妹だなぁ』と思いながら、もうちょっと見ていたいと思い、自分の回りを見渡すと、手頃な所にベンチがあった。丁度よいと思い、学生鞄をそこに乗せると、夜食が入っている袋を取り出した。
加奈子の回りは公園独特のざわめきに包まれている。
静かな様でそうでなく、あちこち人々がお喋りをしていても気に障ることもない。
加奈子の腰掛けているベンチからそう遠くない所で数人の子供がかごめかごめをしていた。砂場では仲の良さそうな二人の男の子と一人の女の子が、砂の山を作っている。持参したカラフルなプラスチック製のショベルが印象的だ。
そこからちょっと離れた所で、わあわあいいながら小学生くらいの男の子達が追いかけっこをしていた。
もうすぐ日没である。
『なんで、この子達の親は心配しないのだろう』と思いながら、加奈子はガサガサいわせてビニール袋を破ると、カレーパンを取り出しかぶりついた。
そんな時、さきほどの少女と青年の会話が耳に入ってきた。
「お兄ちゃんはいつもここにいるんだね」
赤いゴムマリは、規則的なそれでも柔らかな弾む音を響かせた。青年は笑顔を少女へ向けるとブランコの柵に腰をおろし、優しく答える。
「……そうだね」
何処か空虚な寂しい答えが返ってくる。それが少女を苛立たせた様だった。
「変なの!自分の事なのに、なんでそのような言い方でいうの?まるで、自分の事を話しているんじゃないみたい」
少女はマリで遊ぶのを止めると、それを抱え上げて青年の側まで歩み寄り、その青年の顔を覗き込んだ。
そしてとても驚いた……半分困惑した表情をする。
「何でお兄ちゃん……泣くの?」
青年は首を振った。
「いや、泣いているわけじゃない」
少女は伸び上がる様にして、青年の頭を優しく撫でた。慰めている様に。
「どっか、痛いの?」
青年は無理に笑った。一生懸命心配かけまいと笑顔を作ったのだ。
「……痛く……ないよ?どこも。でも、変なんだ、勝手に涙が出る」
そういって、少女の頬に手を添えた。少女はしばらく青年を見上げ黙って見つめる。
青年は、その瞳を見て心の枷が緩んだのかぽつりぽつりと話しだした。
「お兄ちゃんはね、ここから……この場所から動く事が出来ないんだ。ずっとずっと昔からね」
少女は、マリを青年の足元へ置くと、背伸びをして、少女の胸元より高い位置にあるブランコの鉄の柵に座った。
「……どれくらい昔?」
青年は少し寂しい笑顔をして、空を仰ぐ。
そして、再び自分の隣に座っている少女へ視線を向けた。
「ずっと、ずっと、昔。お前がまだ生まれる前……かな」
そして、視線を足元の赤いゴムマリへ向けてそのまま固定させた。
「……とても好きだった子がいてね、でも、一緒にはなれなかった」
「なんで?」
「ふられた……のかなぁ。ある日彼女は一人の男の人を連れてきて、俺に言ったんだ。
『私は貴方の事、一番の友達だと思っているから最初に報告に来たの。私、この人と結婚するわ』彼女が紹介した男はいい奴に見えた。
その男と並んで立つ彼女は、とても幸せそうに見えた。……彼女がとても好きだから、誰よりも幸せになって欲しかったから、彼を認めた。……だってそうだろ?彼女は俺を友達としか見てくれなかったんだからね」
「…………」
少女は、何と答えてよいか判らなくて、足をプラプラさせながら青年を見つめ続けた。
「でも……寂しかった。
寂しくて悲しくて一人では耐えられなかった。心に夜が訪れた様な寒さを覚えた。そんな思いを抱えて、ふらふら歩き回るうち、誘われる様にこの公園に入ったんだ。そして、このブランコに気が付いたら腰をおろしていた。
……そして、いつの間にか、人ではないものになっていた」
そういって青年は眉をひそめた。
「お兄ちゃん達の様な存在はね。永遠にここに縛りつけられる。
心が満たされない限り……」
少女は不思議そうに聞き返す。
「心が満たされない限りって?」
青年は優しく笑った。
「自分が何を引換えにしても良いくらいに欲しいと思っていた物を手に入れた時。心の中が幸せでいっぱいになる時の事だよ」
「……じゃあ、お兄ちゃんにとっての、その幸せってなぁに?」
青年は笑顔を向けて少女の頭を優しく撫でた。
「な・い・しょ」
そしてウインクをした。
「…………」
少女は真面目な顔をして柵を下りた。そして、トコトコと青年の前まで来ると、屈み込んで見上げる様にして青年の顔を覗き込んだ。
青年は、今はもう瞳を潤ませていなかった。
「うそうそ!今の幸せは“かな”ちゃんと遊ぶ事かな」
「どうして?」
青年は笑顔を少女に見せる。
「だって、かなちゃんに会うまではね、寂しかったのは本当だよ。だって、そこに俺は“いる”のに、みんなはそこに誰も“存在していない”様に無視をするんだ。
無視をされるのはとても辛いよ。
始めは自分がどの様な姿になっているのか判らなかった。いろんな人が俺にぶつかり、俺を空気の存在の様にすり抜けていく。見えていないんだよ、俺という者がね」
そういって青年は苦笑した。
「それでも、その事を自分で認めたくなくて、最初のうちは無駄な事をいっぱいやった。
自分からぶつかっていって自分自身の存在を確かめたくて、『ばかやろう!気をつけろ』って怒られてみたくて、似たような事を繰り返したんだ。
あきもせず……ね。
でも、結果は何事もなかったかの様に、みんなは俺に気付かなかった。
そんな中で、かなちゃんだけだったんだよ。
振り向いて俺を見てくれたのは」
加奈子の心の中でカチリという音がした。
瞳は目の前の少女と青年を見つめ、加奈子のときめきにも似た、甘く、わずかに苦しいその小さな鼓動が、確実に全身に広がっていくのを感じる。
しかし、加奈子にはそれを止める術を持っていなかった。加奈子は心の中で一歩、後ずさりをする。
心は震えていた。
怯えているのだ。
その間にも、青年と少女の会話は時計が時を刻むだけ進んでいく。
加奈子は、頼り無くブルブル震える指で、首にかけている物をたぐりよせた。
いつも持っている事が習慣になっていた物だった。
友人に問いただされた時、何処で買ったのか不明で、返答に困った代物である。
首にかかっているそれは、飾りの部分がリボンの端と端をひねりを一つ入れて繋げた様な変わった形に、馬車の車輪に似た形の物が一つ組み込まれたデザインになっている。
その大きさはマッチ箱の大きさより一回り小さかった。
「これをあげる」
青年は、自分の首にかけていた物を少女の首にかけた。淡く乳白色に光るそれはとても不思議な形をしている。『これなぁに?』とでも言わないばかりに見上げると、青年は笑顔で答えた。
「ラビリンス。時封じの輪に、時巡りの車輪だよ。俺達の様な存在に、唯一許された娯楽の産物。
俺達の心だけが作れる魔法のペンダント」
歌う様に言う。
「自分の大切な時間を閉じ込める事が出来るんだよ。凄いでしょ」
「…………」
少女は、青年の笑顔が少女にペンダントを渡した時点で妙に歪んで見えた様な気がした。
少女は、瞳を数度瞬き、確かめる様にしげしげと青年を見つめる。しかし、目の前にいるのはいつも優しい“お兄さん”だ。
鍵っ子だった少女の遊び相手にいつもなってくれるいつもと変わりないお兄さんのはずなのだ。
少女は、さきほど感じた“違和感”は気のせいじゃないかと思う事にした。
怖いと思った気持ちも。
少女は気を取り直して笑顔を青年に向けた。
有り難うの意味をこめて。
「……このまま、かなちゃんを帰さなかったら、どうする?」
少女は、ペンダントを小さな手で弄びながら視線を上げた。
青年の方へ。
「お母さんが泣くよ」
「……妹とかがいる?」
「ううん。でも、妹と弟が欲しいなあ……そしたら、もっとお母さん、かなの側にいてくれるもん!」
「……そっか……」
青年は少し寂しそうに微笑んで立ち上がると、ブランコに腰をかけた。少女は、再びブランコの柵に腰をおろす。もっとも、さきほど座っていた向きとは逆だった。丁度、ブランコに座った青年と向かい合う様に座ったのだ。
「でも、妹と弟が出来たら、考えてもいいよ、お兄ちゃん。かなに出来る事だったら何でもしてあげる」
少女は片足づつ地に足を降ろすと、笑顔を浮かべたまま、ブランコに座り続ける青年の側まで歩いて行った。
「……お兄ちゃんの事、大好きだから……お兄ちゃんの願いを、かなが叶えて上げる!」
「……本当?」
「うん!本当だよ」
「本当に本当?かなちゃん」
念を押したその青年の瞳に妙な光が再び宿ったのを少女は見つけた。しかし、少女はそれに怯えながら“見ないふり”をした。
「……う、うん!でも、これだけはお約束よ、お兄ちゃん」
青年は子供の様に嬉しそうな表情で首を少し傾げてみせる。
「お母さん達を泣かせる様なお願いはしないでね」
辺りは霞む様にうっすらと、霧が立ち込めていた。
気が付くと、目の前の青年と少女以外の子供達は、掻き消えた様に居なくなっている。 あんなにドタバタ騒がしくあたりを駆け回っていた子や、楽しそうに砂場で遊んでいた子、かごめかごめをしていた子全てが、申し合わせた様にその公園から消えているのだ。
加奈子は、公園がすでに月明かりと所々に灯っている電灯の明かりが辺りを照らしているのに気付いた。
そろそろ自分も帰らなければ成らない事も自覚しているつもりである。
手元にあった夜食のパンも、お菓子やジュースも底をついていた。
加奈子は思い切って立ち上がると、手元のゴミをベンチの近くのクズカゴに何気なく放り込んだ。
「かーえろ、帰ろう」
決して大きな声だったわけではない。
加奈子は呟き程度のつもりだったのだ。ゴミがクズカゴから外れたのでそれを拾い、改めてカゴの中へ捨てた。そして、帰ろうと思って学生鞄を手に取った時、背後で声が聞こえた。
「お姉ちゃん!」
それは予想もしない声だった。
背筋が寒くなるほどびっくりしたのは言うまでもない。
振り返ると、ブランコの方で少女が手を振っていた。そして、少女の横に立つ青年と初めて目が合った。
青年の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間本当に嬉しそうに笑顔を見せた。
少女はそんな様子の青年をびっくりした表情でまじまじと見つめる。
加奈子の心の奥の何かの鍵が、カチンといって外れた。
それは青年の姿を見た時に湧いた様に現れた、心の奥に封じられていた物で、加奈子はそれが開放されるのを無意識に嫌っていた。
しかし、その心の中の封じられていた何かは、開放された事で容赦なくその姿を露にしたのだ。それは一つの映像として、拒否しがたい力で持って、加奈子の心を動かした。
青年は今までブランコに座っていたが、加奈子の姿を認めると、ゆっくりと立ち上がって加奈子の方に歩み寄って来た。
加奈子は青年の顔が見たくなかった。
何故なら、加奈子の忘れてしまった過去の映像の中に、加奈子の知らない一人の女性を愛しげに見つめる姿があったのだ。
それは一瞬での出来事で、その日は霧がとても深かった様に覚えている。
青年は、琥珀色の綺麗な瞳で、屈む様にして幼かったあの頃の自分の頭を撫でてこういった。
『霧が深くなって帰れなくなってしまうよ。
まだ、辺りが見えるうちにお帰りなさい』
そういってその場に加奈子を残して霧の向こうの女性の元へ青年は歩いて行ってしまったのだ。
霧の向こうで青年が少女に向かって何かを話していた。
少女は、加奈子と青年を代わる代わる見比べて、少し戸惑った様子を見せたが、赤いゴムマリを拾うと、青年の方へ手を振り走り去って行った。
(……あれは“私”なんだわ……)
見覚えのあったあの赤いゴムマリ。今は田舎に引っ込んでしまった親戚のおばあちゃんに貰った物だった。
あの少女のしていたリボンは、幼馴染みの真美が、加奈子との友情の証にと交換した物だった。
加奈子は怖かった。
全てが幼い頃、自分が目撃した光景と同じ様に進んで行くのが……青年の顔を見るのがとても怖かった。
例えそれが自分の初恋だったとはいえ。
逃げだしたくても足がすくんで動けない自分がそこにいる。
(小さい頃、失ったはずの初恋……)
「……加奈ちゃん。綺麗になったね」
青年は瞳を細め、眩しげにそう言った。聞き覚えのあるとても暖かな、そしてとても透明な響き。幼い頃の加奈子は、青年のその声が好きだった。
青年は、少し長めの栗色の髪を揺らすと、淡く微笑み、ゆっくりと腕を開いた。
「……弟の名前、学っていうの。妹は好美っていうのよ。とっても可愛くて、でも小さいからお母さん、今は専業主婦やっているの。
とても幸せよ」
加奈子は青年の方へ一歩、足を進めた。逃げようという気がしなかった。これから自分がどうなるか判らなかったが、青年を拒みきれない自分がいるのを知っていた。
「お父さんは仕事がうまく行くようになって、『仕事が楽しい、やり甲斐があるってこんなに幸せな事なんだ』っていつも言っているわ。
今度の重役会議で昇進間違いなしだって、私やお母さんに話してくれたの」
そういって、青年の前まで来ると加奈子は顔を見上げた。
「加奈の最後のお願い……聞いてくれる?」
青年は屈む様にして加奈子を腕に収めると頷いた。
「加奈の存在をみんなの記憶から消してくれる?」
青年は、自分が受け入れられた喜びに、瞳を僅かに潤ませ、頷いた。
加奈子は笑顔を青年に向けると瞳を閉じた。
辺りはどんどん深くて濃い色をした白に染まって行く。
加奈子は青年が自分に頬を寄せるのを薄れていく意識の中で感じながら、深海はこの様に静かなのかもしれないと考えた。
「……有り難う……」
加奈子は眠かった。
とても眠かった。頭の隅で、自分が選択したこの行動は、とても愚かだという事を自覚していた。
でも、幼かったあの頃に見た、あの苦しいほどの孤独を瞳に持つ青年を、その孤独から開放してあげたいと思ったのは、今となってみれば、紛れもない加奈子にとっての事実だった。
“コツン”
足に何かが当たった。まだ朝が早くて、外の空気もひんやりと冷たく、地面もしっとりと濡れている。
その場所は公園だった。
歩いているのはあの占星術をしている老人だった。
老人は屈むと足に当たった物を拾い上げた。
それは、学校が指定している通学用の革靴だった。
老人はそれに見覚えがあった。
腰を屈めて拾ったそれは、霧の残り香が漂う中、表面に細かい水滴を散りばめていた。
向こうのベンチには学生鞄が無造作に置かれている。
老人は、靴を持ったまま忘れられた様に置いてあるその鞄の方へ歩み寄ろうとした時、手元の靴とベンチに置いてある鞄がフイッと消えた。
老人の行動がそのままピタリと止まる。
「……私は、一体何をしようとしたのだろうか」
何か忘れている様な気がした。
何かが曖昧になった様に思う。
そして、手元をじっと見た。
『何かを持っていなかったか?』
手の感覚が僅かにそう呟き、それすらも曖昧な記憶の底へ消えていった。
手掛かりを求めて辺りを見渡すが、いつもと変わりない公園の当たり前の朝の風景が瞳に映るだけだった。
スイッと空を見上げた。
そこには朝になりかけの明るい太陽があり、その強すぎる光のお陰でその姿を消しつつある一つの星のきらめきがあった。
「……星が落ちる」
老人は一言それだけ呟くと、その公園を後にした。
何処かで笑い声が谺する。
自分の欲しい物を手に入れた満足した笑い声だ。
その声に公園全体が一度、身震いした様に見える。
それはその老人の気の迷いだったかもしれない。
了
霧の朝の向こう側 西崎 劉 @aburasumasi
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