不意の先達 作:奴
右も左もわからぬ砂漠、大岩の谷に隠れて焚火が一つ。薪は十分にくべられてい、火の勢いはずいぶん盛んだった。誰か幾人かの人間がある証拠と言ってよかった。むろん茫漠たる砂上にあって国境というのはもはやあるかなきかの境界線だが、軍からの横流しでもって手にした地図からすれば、境目の真上あたりである。のみならず、戦火のはなはだしき時下であるからして、もとより国と国の境を往来するのは結句命をなげうつことにほかならない。
戦争は一進一退のいまだ安全の予断を許さぬ情勢で、双方にらみ合いの段階であるからして、国境上には無数の作戦が遂行され、いわばぼや騒ぎの連続であった。交戦の偬倥は幾遍と去来した。商人の私はその分陰を偸んで国から国へ渡る事情を持ちあわせていたのだから、いかに死に臨する可能性があるとしてもぜひ渡ってゆかねばならぬのだった。そして軍部の地図は目下いっとう安全な地所を選ぶためになおと必須なのである。
焚火は沈静の間際などではなく暗夜に煌々と光を放ち、熱を感じさせた。それはまさしく人跡いまだ乾かざることを証じ立てるものであるがゆえ、またそれに思い至り自覚を強めればこそ、私の生命にかかわる緊張は矢を引きしぼるがごとくにいや増していた。かりにも、いずれの軍にであれ発見されるとなれば、その将来は結句苛烈な死と定まっている。知己の数人はこのために意識明瞭のさなか皮を剥がされてしまった。私はその真っ赤に驚愕したまま、黙するともみえず黙しとおす死骸を幾遍となし目の当たりにしてきたのである。彼らはみな無音の叫び声を上げ、また沈黙していた。
したがって焚火の赤い炎はすなわち、皮膚を剥奪された人体の血と筋肉の赤色であろう。そういう印象はなかば死の予感がごとくに私を感化し、きわめて切実な危険の音となって脳中に響くのであるが、しかるに幸いなるかな、私は今般冷静で、不思議と第一に火の主の推定、第二に逃走経路の策定とはや計算が進んでいたし、しかのみならずもうこの勢い盛んな火焔を囲んでいた連中の同定もおおかた済んでいたのである。焚火の主はわが国のものかと推察された。すなわちそれは火のほかたった一つ放置された古新聞であるが、そのごく狭い余白には昨日前の日記がつけられてあったのである。この事実が私にさしあたりの安堵をくれたのは言うまでもない。
とはいえ、同胞だとしても、向こうは私を国権の埒外へ逃走しようする国賊と計上するわけだから、かりにも遊行の途と露見すれば、いや許可もなし砂漠を往ずる形姿をここに認めれば、同胞相猜する境地は必然であった。むろん秘密裡行き交う人間は無数と存在するのだが、また決して許された所業でもないからして、およそ味方とあってもそのかどで死罪確実といえた。なにより工作員の嫌疑は免れない。
そのときのことである。今や月下に青白くなった岩面を歩く音が私に向ってだんだんにはっきりとし、一個の人間がなす硬質の跫音と固まった。かつかつさくさくいう音は私に、もはやこれまでと絶対の死を覚悟させ、ただ振り返るばかりで遁走の余地ももはや持たなかった。官軍賊軍いずれにしてもその結果は結句同一ながら、私の最終処分を断ずる者らを目に焼きつけんと見すえた。
もはや愕然とする事由もないと思われたのだが、私は驚かねばならない事態に面することとなった。それはわが国のとも敵国のともつかない軍靴を履いた、一頭のジャッカルであった。
「声を出さぬよう」とジャッカルは前足の一本を私に向かい中空に差し出した。つまりが黙れの身振りながら、もとより驚愕の念に身を震わせる私は早くに声音を失っていた。
「私はここいらを縄張にするジャッカルの族長であります」
「しかし話をする余裕はもうございません」とジャッカルの族長は軍靴の音を立てぬよう岩の上で足踏みをした。「わたくしたちジャッカルどもだけが知る抜け道がございます」
軍靴を履いたジャッカルの族長は私の了解拒絶の如何をうかがうまでもなく背後の闇へ進んでいった。火勢いまだ繁く、そうであるがゆえ四辺八辺の闇は平生より濃やかにみえる。そのなかへうむを言わさず溶けゆこうというのだから、私はジャッカルの族長を見失うのではないかと恐れて、のみならず音を立ててしまわぬよう、忍び足で走りその尻を追いかけた。いったいになぜジャッカルが靴など履いておるのか、またなぜ軍靴を履いておるのか悉皆不分明であるのだが、ともかくもついてゆくが先決といえた。
「ここです」
「どこへ行き着くのです?」
黙然と追従するを余儀なくされたがため、私はようやくこれだけを発することができたのだが、ジャッカルは黙せよとばかりいっさい返答をせず、屈めば入れるほどの穴に首を指し向けた。
「ジャッカルはみなここを通って国と国を行き交うのです。特別な指令を受けた者はこの秘密の抜け穴を使わねば、すぐに発見され殺されてしまうのです」
族長の低い声色は第一に私の声を封じこめる観があったのだが、第二には屡次に及び浮かぶ疑問を寄せつけない態度もあった。だからしておのずから従順とならざるをえないのだが、心理側面ではいっさい納得の溜飲が下がらなかった。味方とも敵とも判然とせぬ、なんのため救済の経路をくれているのかも不明瞭である。ともなればこの蛇の巣穴のごときをたやすく使うのもためらわれた。
「なにをしておるのです」ジャッカルの族長は言った。「ただ入ってゆけばよいのです。そう悠長にしておられません」
「しかしあなたがたは何者なのです」いきおいこういう別辞を弁ずることになる。「われわれの味方なのですか。それとも中立ですか」
「われわれはただジャッカルの一族にすぎません」軍靴の族長はこう述べた。「なにをなさっておるのですか。命の危機が迫っておるのです」
私は不得要領の心持を拭えぬままにして辞去する仕儀となった。ジャッカルの洞穴はいったいどこへ続いているのか、またどれほどの距離があるのか知れたものではなかったが、もはや進むほかないかぎりは従うのみであった。硬い岩肌を巧みに刳り抜いていったとも自然出来したとも解せる小さな穴へ、私は我が身をあたうかぎり縮こませて這っていった。
こういう御伽話のごときはいったいに信ずるをたやすくせぬものの、事実は以上のとおりであって、なにも欺く算段はいっこう立てておらんが、この明快な現実も一般に通ずる見込のないものと考える。したがってこれまでこういう話はなべて口外せずにおいたが、爾来数十年を閲した今ではかえってなにをか隠すべきとも思われるので、このとおり話した仕儀である。私は隣国へ渡った。無事に渡りきった。あの穴は砂漠の片隅につながり、そこから二十分の徒歩で知己の村へ入るを得た。そのときもよほどジャッカルの話を開陳しようと意図したものの、ついに話すこともなく、ただ幸運に恵まれたとばかり話したまでである。実をいうと私があの穴を通ってゆくそのさなかにわが軍は付近の谷にひそませていた小隊を越境させ、哨戒にあたっていた敵軍をつついたとのことで、ジャッカルの族長の述べるところはまるで錯誤のない警告であった。境界上でいつまでも本式に至らぬ小競合いをやっておるのは、いかにも小国同士、事を大きくしたくはない肚であるが、それにしても出くわせばすなわち死罪というには変わりない。戦火に巻きこまれれば無事では済まぬが決している。だからしてちょうど戦闘のさなかと身構えておるただなかに私が友人を訪ねたのは巻舌の境地であろう。それを神の差配とも神秘ともいってみせるのは、かえってごまかしの効くことである。
あのジャッカルが誰であったか、爾来再三の面会はならず、だんだんに夢のごとくにもなりぬ。今こうしてようやく語ったのは、記録せねば風化の一途と急いた次第である。
しかし会わぬはあの族長ジャッカルであり、私は幸いにしてその子孫にまみゆるをえた。かの不意なる先達に案内を受けたのちおおかた十年のあいだ、その手合いの話を噂にも聞かず、漸々神獣とも空想しだせばなおと幻に感じられてくるところ、ある思いつきで古代人の遺跡を知己数名とともに見物へ行ったときのことである。国家のあいだに微妙な行違いはいまだあり、戦勢膠着のままいちおうの停戦協定も看板きりにして不穏な空気已まずという時節、商人出稼ぎの吾人はやはり生命家計をおのが双肩に担い砂漠の乾風を呼吸しており、今でも易々越境するとはいかぬが尋常ながら、また越えてゆかねば飯が不足するともあり、生業これと定まっておるからして、これを貫徹せねばならない。
その合間、いかようにも身分を詐称して今や隣国人として生活し、一渡りの行商のすえ郷里に戻ろうというその幾日か前である。行き交ってはや二十年とか経過したその時分、顧みるに一度とも遺跡へは行っておらぬと気がついて、知己に案内を頼めば、快き承諾の由賜り、明日にも帰路という昼方、幾千年前の者らが居住した岩窟へ赴いた。
一帯は静かに厳かであって、処々岩面が浮き立つ砂上に堅固な楼閣ともおぼしき巌。そこに無数の穴が穿たれ、なるほどはるか昔日にはこれが住居と推察される。巌窟楼との謂いははたして正確か、そういうことを徒然思索し、しかし今時なんらの痕跡もなくただ風穴とも見えるばかりとなりぬるを眺めるに人間の息吹だけは今吹く風のうちに残響しておる。バラックよりは、隙間の多い木造よりは、よほど地所に適するようながら、しかしここ数百年は空家などと知己笑いぬ。
その帰りである。砂丘を登り岩地に至るときに、随行の少年がやあと指をさす向こうより、あれこそ過去の積層に圧されおぼろなるジャッカルの一族、五匹の群れで現れぬ。砂地に紛れる体色、ただ背中ばかりが黒い外貌で、先頭の一匹は出自の知れぬ例の軍靴を履いておる。ああ! と私は落涙の気味。あの日はいったいに幻ではなかった。私は真にジャッカルの導きを授かったと、だんだんに没する日の烈火の光線を浴びながら感動に身を震わせる。むろん同行の者らは知るべくもなし、怪しげな群れとそれを凝然見はるかす私を、こもごも右顧左眄するばかり。
「父に案内をされた方でしょう」族長は言った。
「いかにも。しかしいったいに父と申しますのは……」
「わたくしはその息子でございます。父は亡くなったのです」
「しかし」とあの族長の息子にあたる彼はこう言を継いだ。「なにも戦争の犠牲になったなどということはございません。ただ天寿をまっとうしたのです。与えられた年月を生き、そうしてわたくしに族長の位を譲り渡したのです」
「いやはや、そうでございましたか」私はいかにも慇懃な態度におのずからなっておった。
「その節はたいへんに助かりまして、どうやらあれからそう経たぬうちに戦闘があって、死者もずいぶんな数といいますが、あのときあの方がいらっしゃらなければ、私はおおかた流れ弾を喰らっておったでしょう」
「あのときはほんとうに危険だったと父は申しておりました」
そうして最後に、今や族長になったそのジャッカルはこう言って、帰っていった。
「族長に値するジャッカルはみな霊力を持ち、あらゆることがらを見通しますが、あのとき新たな戦になることを父は了知しておったのです。そうしてあの谷間に一人たたずむあなたさまが軍人などではなく、ただの商人だということも察知しておったようです。ジャッカルは、たしかに屍肉を狙うあさましい動物かもしれませんが、しかしわたくしたちなりに矜持もございますし、なにより無駄な血が流れることを好みません。無辜の殺傷極まる戦争を恨みますが、兵器にはとうてい敵うべくもございませんし、ジャッカルの担うべき領分と侵すべからざる領分というのがまたございましょうから、ただできるだけのことを致したのです。それであなたさまをお助け致したのです。あなたさまがお元気でいらっしゃることは父も霊力伝いにわかっておったとは思いますが、こうして、父の子としてあなたさまにお会いできたのは幸せなことです。それでは、さようなら。お元気で」
燃える太陽は平生よりいっそう灼然として赤かった。族長の霊氛をともなってなおと烈しく燃えているのだった。光線を背に受けながら、光の行く手に進んでゆく五匹をわれわれは飽かず眺め、低木と草原がまばらなる地平に消えてゆくのを見送った。
2023.5.12 九大文藝部・書き出し会 九大文芸部 @kyudai-bungei
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