空の翼

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空の翼

 オレンジ色の電球色の照明。

 その光が、暖かさを醸し出している喫茶店があった。

 八坪程のスペースしかない小ぢんまりとした店内にテーブル席が五席あり、コーヒー豆の良い香りが漂っている。

 また、穏やかな響きを持つヒーリングミュージックが、そよ風やさざ波のような柔らかな自然音と同じ心地よさで流れている。

 不意に鳴ったドアベルが、低音のカランコロンと反響させ来客を知らせる。

 一人の少女が、店に入って来たのだ。

 まるで、野の花のように優しい雰囲気を纏う少女。

 少女は、肩まで伸ばした艶やかな黒髪に縁取られた顔立ちは整っており、瞳は大きく綺麗な二重瞼をしている。

 身長は高くも低くもなく、腰はくびれ脚は長くすらっとしていたが、胸元の膨らみは小さく華奢だった。

 服装は白いシャツの上に薄手の紺色カーディガンを着ており、下は膝丈までの黒いスカートだ。

 名前を三国みくに初穂はつほといい、中学2年生だ。

 狭い店内を初穂が見やると、一人の少年の姿を片隅に見つける。

 白いジャケットに紺のスラックスを着た少年だ。サラサラとした髪をしており、鼻筋が通った端正な顔をしてはいたが、決して美少年ではなかった。

 どちらかと言えば、気弱で優しげな雰囲気の顔つきをしている。

 柔和な、おっとりとした目元をした少年だ。

 しかし、そんな少年であっても、どこか凛々しさを感じさせたのは、やはり男だからだろう。

 少年は、初穂に向かって片手を上げる。

 初穂は、その少年を知っていた。

 でも、名前は知らなかった。

 ただ、知っているだけだ。

「お久しぶりです」

 初穂が頭を下げると、少年は微笑みながら席に着くように促す。初穂は、それに倣うように向かい側の椅子に座った。

「ごめんね、急に連絡して」

「いえ……」

 初穂は、首を振る。少し緊張した面持ちで、目の前にいる少年を見つめて少し俯く。男性と二人だけで会うことが、初穂にとって初めてのことだったからだ。

 二人が出会ったのは、一週間前のこと。

 初穂はバスで通学をしていたのだが、降車時になって初穂は通学定期券が無いことに気がついた。財布を確認するが持ち合わせも少なく、困り果てていた時に声をかけてくれたのが、この少年だった。

 少年は自分の財布を開くと、初穂の乗車賃を全額入れてくれたのだ。初穂は感謝の意を込めて頭を下げつつ、生徒手帳に自分の携帯番号を書いて少年に渡した。

「お金は、お返しします。こちらに、ご連絡下さい」

 そう言って、初穂は少年の手にメモ用紙を渡して、その場を去った。帰宅してすぐに初穂は、軽率なことをしてしまったのではと思った。

 自分の携帯番号を、名前も知らない男子に渡したのだ。

 初穂は引っ込み思案な女の子だった。

 男性恐怖症というものではないが、普段においてもクラスメイトの男子と日常会話をすることは、ほぼ無く、たまにする会話といえば事務的な内容ばかりだった。

 それ故に異性に対して免疫がない。

 その為か、初穂は恋愛に夢を持っていた。初穂は昔から恋愛小説が好きであり、未だに小学生向けの恋物語を読んでいることが多かった。

 あの少年のことを思い出す。

 助けてくれたので、悪い人では無いと思う。

 でも、もしかしたら、変な人かもしれない。

 そう思った初穂は、寝付きが悪くなった。

 翌日から毎日のように通学中にバスの中と窓から外を見てみたが、少年の姿を見つけることは出来なかった。

 それから三日後、自宅で勉強をしているとスマホのショートメールでメッセージが入った。内容から、バスで会った少年だと理解できた。

 数度のメッセージのやり取りの後、少年から、初穂が知っている喫茶店にて会いたいというものが送られて来た。

 初穂は迷いつつも、承諾する返事を送る。

 そして、今日が約束の当日なのだ。

 初穂はメッセージをやり取りしていたのに、少年の名前を知らないことに気づいた。

 少年の方も初穂に名前を聞いていなかった。

 そこで、お互い自己紹介をする流れとなった。

 初穂が名乗ると、少年も名乗り返す。

「僕は、白戸しらとくう。高校2年生です」

 初穂は内心で驚いた。まさか年上とは思わなかったのだ。

 だが、落ち着いて考えれば納得がいく。

 中校生の自分に対して敬語を使っていたのは、年上故の礼儀だったのだろう。

 初穂は、ほっと安堵の息を吐いた。

 どうやら、変な人に絡まれたわけではないようだ。

 同級生の男子には無い、大人びた印象があったのも、その為かと得心がいった。

 そこで、ふと会話が切れてしまった。

 何を話して良いのか、二人が困っていると、店主の奥さんが助け舟を出すように声をかけてきた。

「何にされますか?」

 二人は、メニュー表を開き注文する品を考える。

 少しすると、奥さんが注文したアイスティーとショートケーキを持ってきてくれた。

「ごゆっくり、どうぞ」

 微笑ましいものを見るような笑顔で会釈をし、去って行く奥さんの後ろ姿を見送ったあと、二人は再び沈黙してしまう。

 お互いに何かを言わなければと思いながらも、言葉が出て来ないのだ。

 そんな中、先に口を開いたのは、意外にも初穂だった。

 初穂は、意を決したように言う。

「先日は、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げる初穂。

 空は、それに答えるように、慌てて頭を下げる。

 頭を上げた初穂は、続けて言った。

「どうして、あの時、助けて下さったんですか?」

 初穂の問に、空は初穂の目を直視して答える。

「それは、三国さんが徳がある人だから。世界に必要な、生きるべき人です」

 初穂は、その空の言葉に胸を打たれる。

 てっきり、可愛いからとか、きれいだからとか。そんなありきたりな言葉を言われると思っていた。

 今まで、生きていて良かったと思えることはあっただろうか。初穂は決して要領の良い子ではなかった。 いつも自分は誰よりも遅く、何かにつけて先を行くクラスメイトや友達に対し、待って貰っているのが初穂であり、迷惑をかけないようにと努力してきた。

 でも、それが報われたと感じたことはない。

 いつも誰かに謝ってばかりいた。そんな自分を必要だと言ってくれた人は、これまでいなかった。

 初穂は、目頭が熱くなるのを感じる。

 目元を手で拭うと、初穂は改めて目の前にいる少年を見つめ直す。

 彼は、真っ直ぐに初穂を見つめ返してくる。まるで吸い込まれそうな瞳だった。

 そして、空は勇気を振り絞って言う。

「あの。三国さん。僕とお付き合い下さい」

 初穂は、一瞬、自分が言われたことに気づかず、呆然としていたが、意味を理解すると顔を真っ赤にして慌て出すのに数秒を要した。



「え! 初穂、彼氏が居るの!」

 昼休憩の昼食を学校の屋上で過ごしていた初穂は、友人の安理紗子と小西真美から休日の予定を訊かれて、予定が変えられないことの理由を答えての二人の反応だった。

 あん理紗子りさこは、勝どきな性格をしていて度胸があり、歯に衣着せぬ物言いをするクラスの中心的存在。

 小西こにし真美まみは、しっかり者で生真面目な娘。成績も良く、学年でも上位に入る優等生だ。

 真美は、紙パックジュースを飲むのをやめ、身を乗り出して初穂に詰め寄る。

「それで初穂の彼氏って、どんな人なの」

「彼氏って言うか。空さんは、その、付き合って下さいって言われて。放課後に会ってお茶を飲んだり、休みの日に一緒にどこか行ったりしているだけで……」

 初穂は、恥ずかしそうにしながらも、はっきりと付き合っていると言うのは抵抗があるようで、言葉を濁す。

「あんたね。付き合うって、どういう意味か分かってんの?」

「ど、どうって」

 理紗子に詰問するように詰め寄られ、初穂は困り顔でどもってしまう。

「もうその段階で、二人は恋人同士ってことよ」

 初穂は、友人二人からステレオ二重奏で指摘を受けて、顔を赤くしてしまう。

 そう言われると、確かに付き合おうと言われたのだから、そういうことになるのだろう。

 初穂は、まだ自分の気持ちが分からないでいる。

 一度会っただけで交際を申し込まれ、週に一、二度の割合で会っているだけだ。

 初穂が困惑していると、初穂の表情を見て、二人は初穂が何も分かっていないと察した。

 初穂は、今どき珍しいほど恋愛に対して夢を持っている。

 その為、男女交際というものが、どのようなものか知らないのだろうと二人は思った。

「まさか。ネンネだと思っていた初穂に先を越されるなんて」

 理沙子が嘆くように言う。

「いやいや。初穂は、理沙子より可愛いし」

 真美が突っ込むと、理沙子の日本拳法・直突きが炸裂し口喧嘩が始まった。

「何よ真美。私のこと、ガサツって言いたいの」

「そこまで言ってないわよ。ただ、理沙子はもう少し女の子らしくしたら。普通の女の子は、いきなり突きを決めたりしないわよ」

 真美は自分の正中線を防御する。

 正中線とは、人体を正面から見た時、その中心である眉間から股間までを結ぶ一本の線の事。人体の挙動の軸であると同時に急所が集中している線だ。

 それを見ていた初穂は、苦笑を浮かべながら思う。

(二人は自分なんかより遥かに綺麗でスタイルも良いのに、何を言うの)

 と。

 ものの数秒で二人の口喧嘩は、取っ組み合いに発展する。

 真美は講道館護身術が使える有段者で、理沙子は日本拳法の道場に行っているので、二人にとってじゃれ合い程度のことだ。

 ふと二人は、我に返る。

「私達、何でバトルしているの?」

 と真美。

「そうよ。元はと言えば、初穂が原因じゃん」

 と理沙子。

 二人は初穂を左右から挟み込んで、悪魔の笑みを浮かべる。

「という訳で初穂。ちょっと、お姉さん達の事情聴取にゲロしてもらおうか」

「そうよ。不純異性交遊の実態を教えてもらおうかしら」

 理沙子が言うと、真美が続けて言った。

 二人共男女交際の経験がないだけに、どんな甘酸っぱいことがあるのか興味津々といった様子だ。

 初穂は、冷や汗を流して困り顔をする。

「で、付き合ってどれくらい。二人はどこまで行ってるの?」

 真美の問いに、初穂は思い出すように目を上に向けて考える。

「えっと。もうすぐ三ヶ月くらいで、遠い所だと隣町のショッピングモールのカフェまで遊びに行ったかな」

 初穂は、ふと自分で言った言葉に引っかかるものを憶えた。

(あれ?)

 とても大切な何か。

 思い出そうと考えている間に、理紗子と真美は同時に溜め息をつく。

 初穂は、何故二人がそんな態度を取るのか分からずに首を傾げる。

 理紗子は、呆れたような口調で言う。

「そうじゃなくてさ、男女の関係。ほら、キスとかエッチとか何回したの?」

 初穂は、その言葉に一瞬、何を言われたのか理解できなかったが、すぐに顔を真っ赤にして俯いた

「そんな、私達まだ手だって繋いだことないのに……」

 初穂の言葉を聞いて、理紗子は真美に目配せをする。真美は理紗子の目を見て、二人でアイコンタクトを行う。

(おいおい。この娘、マジでネンネだぞ)

(信じられない。清純異性交友ってあるのね)

 理紗子も真美も愕然とした顔をした。

 そして、俄然初穂の彼氏に興味が沸かない筈がなかった。二人は男の名前、年齢、容姿等のスペックを聞き出す。

「高校生か、ほぼ大人じゃん。初穂、毎回どんなデートしてる訳?」

 理紗子が訊くと、初穂は恥ずかしそうにしながら答える。

「空さんは、カフェとか喫茶店が好きで、そこでお茶とケーキを食べて日頃の話しをするの」

「その後は?」

 真美が突っ込むので、初穂は事実を答える。

「そこで別れて、終わりだけど。何か変?」

 理紗子と真美は同時に溜め息をつく。

 落胆そのものであり、本日二度目だ。

「まあ。空さんが、凄く生真面目で初穂のことを大事にしているってのは良いことだと思うわ。でもね、もうちょっとロマンチックさが欲しいわね」

 真美が言うと、初穂は少し考え込むように沈黙してから口を開く。

「全然、無くは。無いけど……」

 初穂は、顔を赤くしたまま黙り込んでいる。

「ほほう。聞かせて貰おうじゃん」

 理沙子は、まるで獲物を狙う猛禽類のような鋭い目つきをして話に乗る気になる。


 ◆


 空は、初穂とのデートの際は、カフェや喫茶店でお茶をし、向い合せで座り話をするが、空の視線を初穂は外してしまった。

 怖い訳でない。

 男性慣れをしていないことで、不安や緊張感を避けようとする心理防衛のようなものだ。そんな初穂に対し、空は初穂の顎に手を添えると、視線を合わせようとする。

「三国さんの瞳がきれいだから、もっと見ていたい」

 空は、そう言った。

 初穂も、空に見つめられると、ドキドキするから気持ちは分かるが、あまり見詰められては落ち着かない。

 初穂が困った顔をすると、空は謝る。

 そして、初穂に質問する。

 どうして、そんなに緊張するのかと?

 初穂は正直に話す。

 今まで男性と付き合ったことがなく、男性と二人きりで会うことに免疫がないと。

 それを聞いた空は、優しい笑顔で語りかける。

 大丈夫。これから少しずつ慣れていこう。

 初穂には、それが一番嬉しい言葉だった。


 ◆


「ふぅん。惚気てくれるじゃないの」

 理沙子は、面白くなさそうな口調で言うが、その表情は興味津々で嬉しげだ。

 理沙子と真美は、初穂の恋愛話を根掘り葉掘り聞いてから、自分の恋バナを話した。

「それにしても、付き合って三ヶ月前になるのに手も繋いでないなんて」

「……おかしい。かな」

 真美の感想に、初穂は少し不安になる。真美はスマホで検索し世間の恋愛事情を調べる。

「大体デート三回目でキスはするのが多いみたい。後は、高校生、大学生、社会人でちょいちょい差はあるみたいね。あ……」

「どうしたの真美?」

 怪訝な表情をする真美に、理沙子が尋ねると真美はスマホ画面を見せる。記事を読む。すると理沙子も怪訝な表情になった。

「どうしたの。二人共」

 初穂が訊くと、真美が言いにくそうにした。

「長くても付き合って三ヶ月キスがない状態は、年齢や恋愛経験問わず交際の状態としてよろしくないって。彼女を大事にする彼氏は、キスをしないことで純愛を貫き、ひいてはそれが彼女を大事に想う気持ちを伝える手段にしている人がいるけど、カップルは適切な時期にステップアップして関係を深めていく方がうまくいく。

 周りのカップルに合わせる必要はないけど、普通じゃないカップル・変なカップルはなかなか上手くいかない事実もあるって」

 初穂は顔色を悪くする。

 確かに、付き合い始めて三カ月近く経つのに一度も手を繋ぐこともなければ、キスもないというのは、一般的な恋人同士とは言えないだろう。

 でも、自分はまだ中学生だ。

 キスなんて恥ずかしくてできない。

 二人の話を聞いて、初穂は改めて思った。

 でも。

 と。

「……私、空さんのこと好き」

 初穂は決心したように言って、続ける。

「突然、付き合って欲しいって言われて。私、友達からならって恋愛小説で読んだセリフを、そのまま言っちゃったけど。気がついたら私、空さんのこと考えただけでドキドキして、会えたら凄く嬉しくて。

 だから、空さんとはちゃんとした、お付き合いがしたい。彼女にして欲しい」

 初穂は、そう言いながら、頬を朱に染めていた。

 理紗子と真美は、初穂の言葉に同意していた。

 空は、誠実で真面目で一途だ。少しの年齢差こそあるが、空は初穂と真剣に向き合おうとしている。それは理紗子達にも分かった。

 初穂は、すぐに行動に移した。

 スマホで電話を入れると、自分からデートに誘っていた。


 ◆


 放課後。

 初穂と空は喫茶店でお茶をしていた。

 空は、初穂とのデートでいつも通りお茶を飲みケーキを食べて談笑をする。

 初穂も、空との会話を楽しんでいる。

 しかし、初穂の様子が少しだけ違う。

 何だかソワソワしているのだ。

 空は少し首を傾げる。

「三国さん。どうかしました?」

 空の言葉に、初穂は慌てる。

 空との初デートでは、毎回緊張してしまうが、今日は更に緊張する。

 初穂は意を決して言う。

「あの。私のこと、名前で呼んで下さい。お付き合いを申し込まれて、私友達からって言いましたけど。やっぱり、彼女になりたいです」

 初穂は恥ずかしさで、顔を真っ赤にして俯いていた。

 空は、初穂の願いを聞き入れて言う。

「初穂さん」

 空は、初穂の名前を呼んだ。

 すると、初穂の顔がぱぁっと明るくなった。

「はい」

 初穂が嬉しそうに返事をした。

 空は、そんな初穂を見て微笑む。

 それから初穂はチケットを差し出した。

「プラネタリウムのチケットです。空さん、再来週の日曜日空いてますか?」

 空は、初穂が差し出したチケットを見る。彼は少し思い詰めた表情するが、初穂をみて応える。

「大丈夫だよ。それより覚えていますか、僕が言った期限……」

 空は何かを言いかけるが、初穂は空とカフェ以外のデートができることの方が嬉しくて、両手で頬を包んでおり、聞こえていないようだ。

 空は言いかけたことを引っ込め、プラネタリウムから始まったことで二人で星の話しを始めていった。

「では空さん。また」

「……うん」

 初穂は喫茶店前で空と別れる。

 空は、初穂の後ろ姿を見送ると、狭い路地へと姿を消した。

 彼は額に腕を当て苦しそうに汗を流すと、黒い物を吐き出していた。

 ドボドボと、滝のように吐く。

 空は倒れるように、その場に沈んでいた。


 ◆


 初穂は空とプラネタリウムに訪れていた。

 空は、お茶を飲みながらのトークデートが好んでいるのを知っていたが、その中で星の話題が出ていたことから思いついたのが、プラネタリウムデートだ。

 初穂が緊張しながら待ち合わせ場所に行くと、空はもう待っていた。

「初穂さん」

 そして、初穂の姿を見つけるなり、笑顔を浮かべるが、心なしか元気が無いようにみえた。

 でも、初穂は会えたことで胸が高鳴った。

 空と一緒にいるだけで嬉しくて楽しい。

 初穂はそう感じた。

 そこは一風変わったプラネタリウムだ。

 星を眺めるシートは座席ではなく、ダブルベッドのような座席であり、二人並んで横たわり星空を眺めるようになっていた。

 完全にカップル向けに作られた大人のプラネタリウム設備となっていた。

 二人は横に並びに仰向けになる。

 すると、突然照明が落ち真っ暗になる。

 だが、初穂は暗闇の中でも隣にいる空の存在を感じ、安心することが出来た。まるで、自分の部屋で寝ているような安らぎを感じることが出来たのは、好きな人と一緒に居るからだと思った。

 そして、ゆっくりと夜空の星々が映し出される。その光景に、初穂は目を奪われる。

 8Kの高解像度映像で投映される美しい星の海。初穂は感動し、思わず感嘆の声を上げる。

 そんな初穂を、空は微笑ましく見つめていると、不意に初穂の視線が合う。

 初穂はドキリとする。

 初穂は恥ずかしげに俯き、空も照れ隠しのように笑う。初穂は、そんな空を見て思う。

 この人は、こんな風に笑えるんだと。

 空が、いつも見せる笑顔とは違う。

 そのことに、初穂は気づく。

 それはきっと、自分に気を許してくれているからだと。

 だから、それがとても嬉しい。

 それから、何分か経った頃だろうか?

 ふと、周囲を見ると隣のカップルがキスをしているのが目に入る。

 その瞬間、初穂は顔を真っ赤にさせた。

 理紗子と真美に言われたことを思い出すが、自分には恥ずかしくて、いきなりキスなんて無理と思った。

 でも、今のままでは上手くいかない。

 初穂は、右隣に居る空の左手を見た。

 恐怖とは異なる怖さがあった。

 勇気を振り絞り、そこに自分の右手を伸ばし重ね、た。

 と思ったが、初穂には小指と小指を重ねるだけで精一杯だった。

 空の手がビクッと震えたが、ゆっくりと小指と小指を絡めるように指を繋いでくれた。

 繋いだ小指から、空の温もりを感じる。

 初穂の心臓は破裂しそうなくらいに鼓動した。

 しかし、それ以上に幸せを感じていた。

 初穂は、そのまま空の顔を見る。

 空は穏やかな表情をして、初穂を見ていた。

 初穂が空の目を見ながら言う。

「ほ、星を観に来たんですよ」

 空は、目を逸らすことなく初穂の言葉を聞くと言った。

「観てるよ。三国さんの瞳に映った星を」

 そして、二人共黙った。ただ、小指を繋ぎ続けた。

 初穂は思った。

 ずっと、こうしていられたらいいのに……。

 空が話しかける。

「……ありがとう。楽しかったよ、今まで」

 空の声に耳を傾ける初穂だが、空の様子がどこかおかしいことに気がつき、空の顔を見ると、やはりいつもより昏い表情をしていた。

 初穂は心配になり空に声をかける。

「空さん?」

「ごめん。もう時間だ」

 上映時間が終わっていないにも関わらず、空は、それだけを言うと立ち上がり、初穂に背を向ける。

 空の様子は明らかにおかしかった。

 何が起きているのか初穂は分からず、慌てて立ち上がると、空の後を追いかけた。空は非常階段を登り屋上に出ると、フェンスにもたれかかり青空を見上げていた。

 初穂は声をかけるのを躊躇したが、意を決して口を開く。

 空は振り向くが、顔色は優れなかった。

 初穂は不安になると同時に、空は唐突に言った。

「別れよう」

 と。

 初穂は、その言葉を聞いた途端、呆然とした。彼女は何も言わずに、ただ、涙を流していた。

「ごめんなさい。私、何か嫌なことしましたか。すぐに直しますから。そんなこと言わないで下さい」

 初穂の必死の訴えに、空は困り果てて、初穂から視線を外すと呟いた。

「違う。そうじゃないんです。僕が交際を申し込んだ、あの日の約束を覚えていますか?」

「約束?」

 初穂は、空が何を言いたいのか理解できなかった。

 空は、初穂が覚えていないことを知り、悲しげな表情を浮かべると、初穂に向かって深々と頭を下げた。

 それは、土下座にも近い姿だった。

「三ヶ月だけ、付き合って下さい。僕は、そう言いました。今日が、その三ヶ月目なんです」

 初穂は、ハッとする。

 そして、思い出す。

 そうだ。確かに返事した。

 奇妙な交際申し込みだと思いつつも、それはたぶん空自身のことを三ヶ月目経っても交際を続けたくなかったら初穂から別れても良いですよ。という確認のための約束だと思っていたのだ。

 でも、どうして?

 初穂は混乱するばかりだ。

 すると、空は口元を抑えた。

 吐き気を抑えるように。

「空さん。大丈夫ですか」

 初穂は空に駆け寄ろうとすると、空が初穂に対して初めて見せた感情。それは怒りだった。

「来るな!」

 初めて聞く空の怒声に、初穂は驚きと恐怖を感じた。すると空は初穂に背を向けると、突然嘔吐した。

 真っ黒なナニカを口から吐き出すと、その場に倒れ込む。

 初穂はパニックに陥りながらも、何とか冷静になろうとした。

 空の身に一体何が起きたのか分からないが、とにかく救急車を呼ばなければと思いスマホを取り出すと、空は、それを制止するように言う。

「ダメだ!」

 そして、再び黒い塊を吐き出した。

 それが、二度、三度と続く。

 黒いソレは液体なのか粉体なのか分からなかった。空が吐いたそれは、地で弾けるように広がり空気中に霧散しては消えていく。

「空さん。病気ですよ。一緒に病院に行きましょう」

 初穂は空に呼びかけるが、空は疲れた様に身を起こしフェンスにもたれ掛かりながら立ち上がる。

 初穂は、その姿に戦慄した。

 空の体は、明らかに衰弱していたのだ。

 このままでは死んでしまうかもしれない。

 初穂は、訴える。

「違う。病気なのは初穂さん。君なんだ」

「え?」

 初穂は訳が分からなかった。

「正確には。病気だった、だけどね」

 空の言葉に初穂は驚くことしか出来なかった。

 今、目の前にいる少年が誰なのかすら、分からなくなっていた。

 空は、初穂の戸惑いを察したのか話を続ける。

 その表情には笑みさえ浮かんでいた。

 まるで、この結末を喜んでいるかのように。

「僕は初穂さんに嘘をついていました。僕は、高校生じゃない。ましてや、人間でもないんです」

 初穂は、空の言葉に動揺した。これ以上聞いてはいけないような気がした。今までの関係が壊れてしまうが、それでも空に尋ねずにはいられなかった。

「それって、どういう意味ですか?」

 空は、ゆっくりと息を整えると、覚悟を決めた表情で言う。

「僕はカラドリオスなんです」

 空は正体を口にした。


【カラドリオス】

 古代ギリシアやローマの著述家たちが記した不思議な神鳥。白き聖鳥。

 真っ白い鳥で、病人の下を訪れ、診断と治療を行なう。

 危篤の主の枕元に現れ、回復の見込みがある。もしくは徳の良い者なら患者の目をじっと見つめ、人の体内を冒す病魔を吸い取り肩代わりする。

 それから空高く飛び上がり、大気中に病気を吐き出すという。

 中世ヨーロッパでも神の使い、あるいはキリストそのものとして信じられていた。


 その言葉は、初穂の頭の中を真っ白にした。

「他の者は、ものの数秒で一度に大病を吸い取れる器があるのに、僕は出来損ないだから。君の中にあった病を、何度も小分けにして、ゆっくり時間をかけないと病を全部吸い取れなかった。

 君に会った瞬間、死に至る病気に君がかかっているのが分かった。正直、僕には荷が重すぎる病だったけど、時間をかければ初穂さんが病に蝕まれる前に何とかなると思ったんだ。

 だから、さっきの時も含めて三ヶ月目という時間をかける必要があった。君の病気を治せて良かった」

 空は、初穂に向かって微笑む。

「そんな空さん。私のために、あんな苦しいことを何度も……」

 苦しげに病魔を吐き出す空の姿を思い出し初穂は、涙を流す。

 病という毒を代わりに飲み込むのだ。

 空が初穂の瞳を見続けていたのは病魔を吸い出すため。初穂と会っては別れ、一人になっては病魔を吐き続けては、瀕死の状態になって倒れ込む。空は、それを会う度に繰り返していたのだ。

 それは、カラドリオスと言えど簡単なことではなかった。それでも、初穂を助けたいという気持ちから、命をかけて実行していたのだ。

 それが分かるだけに、初穂は申し訳なく思った。

 そして、自分なんかの為にそこまでしてくれる空に、好意以上のものを持った。

 これが愛というものなのかと、初穂も理解した。

「初穂さんは、生きるべき人だから。これで、僕は心置きなく羽ばたける」

 その言葉に、初穂は鋭く反応する。

「空さん……。どこかに行っちゃうんですか」

 空は、初穂の問いに寂しげな表情を浮かべると答える。

 その答えは初穂にとって残酷なものだったが、空ははっきりと口にする。

「僕はカラドリオス。世界には、死んではいけない人がまだいる」

 初穂は空の正体と使命を聞かされた時に薄々分かっていたが、言葉にして言われると、その事実を実感してしまう。

「やだ。行かないで」

 初穂は世界の人なんかどうでもよくて、わがままを言った。空に駆け寄ろうとすると、空は手でそれを制した。

「近づかないで。初穂さんに寄られたら、僕は飛んで行けなくなる」

 空は初穂を見据えると、はっきりと言う。

 それは、拒絶の言葉だ。

 初穂は、泣いていた。

 それは、空も同じだ。目尻には涙が浮かんでいる。

 彼は優しく言った。

 まるで子供をあやすように。

「僕は初穂さんに生きて、幸せになって、笑ってもらいたかったのに。泣かせちゃったね。本当、僕は出来損ないのカラドリオスだよ」

 その言葉が余計に初穂を泣かせた。

 泣いてはいけないのが分かっているのに。

「出来損ないなんかじゃない。空さんは、私の恩人で王子様で……。好きな人だから」

 その声は穏やかだが、有無を言わせない強さがあった。

 すると、空は少し驚いた顔をした後、困ったような笑みを見せる。その笑顔がとても悲しくて、初穂は胸が張り裂けそうになった。

「また、会えますか?」

 空は、初穂の問いかけに悲しそうに首を横に振る。

「僕は、お医者さんのようなもの。病気を治したら、もう会ってはいけないんだ」

 空の身体が光り輝いていく、その姿はまるで天使だった。初穂は、空に抱きつきたい衝動に駆られるが、それをぐっと堪える。

 初穂は、空の気持ちに応えなければならない。

 彼女が、空に対して出来ることは、笑顔で見送ることだと思ったからだ。

 光が収束された瞬間、空が立っていたその場所に、白い小さな鳥がいた。それが空だと分かる。

「初穂さんの枷を取り払いました。夢に向かって飛んで行って下さい」

 鳥は、初穂に背を向けると、ためらう。

「空さん」

 初穂の呼びかけを振り切るように、鳥は飛ぶ。

 鳥は、初穂から離れ、青空に飛び立った。

 初穂は、鳥が遠くなるのを追いかけながら、フェンスが倒れそうな勢いでしがみ付く。必死に手を伸ばすが届かない。

 初穂は、鳥が消えた場所を見ながら言う。

 それは別れの言葉ではなく感謝の気持ちだった。

 空のおかげで、自分の命を救われた。

 これからの人生がどうなるのか分からないけど、この出会いを大切にしたい。

「ありがとう」

 涙を流しながら、初穂は泣きながら笑って空に呼びかけていた……。

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