折れきれぬ筆、走れ

紫鳥コウ

折れきれぬ筆、走れ

 西沢から着信があったのに気付いたのは、イベント会場の最寄り駅のホームだった。折り返そうかと思ったが、電光掲示板を見るともうすぐ電車が到着するらしい。Y駅に着いてからかけ直すことにして、行きよりもずっと重たく感じるリュックサックを背負って休日のせいか混んでいるモノレールに乗った。

 二度目の乗り継ぎの前に西沢に折り返しの電話をかけたが、今度は彼が出ない番だった。撤収作業中だったから気付かなかったということをテキストで送り、夜に溶けていく空の青みを見ながら、快速電車が来るのを待った。


 駅の改札をでてからようやく、今日の夜ごはんについて考えはじめた。食欲がないわけではないが、いまはなにより家に帰ってぐっすり眠りたかった。長引いている不眠症は、今日のイベントへの緊張感に勇気づけられて、わたしを横にさせる気力さえ与えなかったのだ。

 緊張がまったく解けたいま、わたしはなににも頼らずとも眠れるのに違いなかった。が、家に帰りそこにある寂寞を吸い込んだときに、嘔吐感に襲われた。今日のことは、切実な問題がいくつも積み重なっている現状への一時的な逃避に過ぎない――という鋭い一撃が浮ついたわたしのこころを樹の幹に縛り付けたのである。

「わたしのことを笑えばいいさ」という言葉がすっと口から抜けでていった。わたしは、自分のいままでが、大切なひとのいままでにより成り立っていたという認識を欠落させたまま、夢を語って目標を追っていたのである。

 今度は、自分のことを犠牲にして、大切なひとを助ける番だ。そう決めて研究者の道をあきらめたのだが、このアパートの一室は、すっかりわたしの研究室としての身なりを整えてしまっている。


 西沢から電話があった。メールを送ってくれればいいのに。あと少しで眠れるかもしれないというときだっただけに、あまりに苛立たしく感じられた。


「KP!」

「かんぱい」

 画面に映っている西沢は、やけに陽気に見えた。なにかいいことがあったのかと訊いてみたが、久しぶりに会話をするという理由だけでテンションが上がっているとのことだった。わたしは、こんな自分にもそれくらいの値打ちはあるのかというようなことを思ったが、何ごともあまり額面通りに受けとらないことが、深い傷を負わない秘訣だというようなことをこの数年で学んでいた。

「わたしも、久しぶりで緊張してる」

 できるだけ明るい調子になるように意識をした。

「どうよ?」

 これは、西沢が相手の近況を訊くときによく使う問いかけで、彼はその返答によって、なんとなくなにかを察するのを得意としていた。

「まあまあ、かな」

 こういうとき「元気です」とか「楽しいです」とかいう言葉を発さなくてすむのは、西沢のような付き合いの長い友人だけだ。

「昨日、あのイベントがあったんだっけ」

「うん、行ってきた」

「優しい世界だったんだろ?」

「うん、優しい世界だった」

 昨年、初めてイベントに参加したときに、そこが「優しい世界」だったという感想を、わたしは周囲に話していた。

「新刊、今度送ってよ」

 わたしたちの郷里の風景が、自然と頭に浮かんだ。のみならず、昨年の終わりころに発生した、わたしの家庭の悲劇にまで想像が及んでいった。

「お前の母ちゃん、よくなってたね」

 西沢は、いまのわたしが負っている一番の傷に触れようとしてきた。

「まだ、完全には治ってないんだよ。というより、もう一生付き合っていくしかなくて」

「俺から言うのもあれだけど、心配してたぞ、お前のこと」

「べつにもう、割り切ってるつもりなんだけど」

「そんなの、真に受けるわけがないだろうよ」

 長期休暇でも年末でもない平日の夜に、オンラインでプチ飲み会をしようと誘ってきた西沢の魂胆が透けて見えるような気がした。

 それからしばらく、実際的な問題に関する話が続いたが、西沢はわたしの沈んでいく調子を哀れんだのか、

「あっ、あれはどうなったん?」

 と、話頭を転じてきた。

「あれ?」

「ほら、前に言ってた青春小説のこと」

 それは、昨年の夏に友人五人で開いたオンライン飲み会のときに話した、或る小説の構想のことらしかった。

 当時のわたしは、この小説を書きしかるべきところに応募するのだと気炎を吐いていたが、その後に相次いだ悲劇のせいで、全く手をつけていなかった。


 電気を消したあとも、やはり頭は冴え冴えとしていた。

 ひとりの少年の青春のストーリーが、次々に想像されていった。

 この小説を書ききれなかったなら、そのときに、二つ目の夢もあきらめた方がいいのかもしれない。この夏までに、堂々と「了」という字を打てなければ。

 書くしかないのだ。どうせ眠れないのだとあきらめて、ノートにプロットめいたものを記していった。スタンドライトの光が、舞台照明のようにノートの上に落ちている。

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