12.食事 ①


「いたたっ……や、優しくしてよ」


「仕方ねえだろ……初めてなんだよ」


「でもそんなにガンガンやんなくたっ──んっ」


 ──今、


 聞いてはいけない声を聞いてしまったような気がして、俺の腹の底に冷たい後ろめたさが広がった。


 さっさと終わらせなくては。


 そんなに悠長にやってる時間もない。


 何たって──朝っぱらなのだ。







 ──五分ほど前。




「うぇ。やば。ちょ、秋田さん来て」


 廊下のほうから声がして、俺は朝食のサンドイッチに被りつこうとする手を止めた。


「なんだ? 毛玉でも吐き出したか?」


 洗面台に行くと迩愛は、


 鏡に向かって固まっていた。


 アタマに塩コショウでも振り掛けているようなポーズで。


 いや、調味料ではなく──ロールブラシだった。


「絡んだ」


 絡んでいる。


 寝起きで乱れた髪の束が、不幸なことにうしろ頭の、しかも割と根元に近いところで絡んでしまっていた。


 これじゃあほどくもんも解けないだろう。


 間抜けな絵面えづらだ。


「はは」


 思わず笑ってしまい、低い声が出る。


「笑ってる場合じゃないんですけど」


「ハサミあるぞ」


「は」


 迩愛は、信じられないというような顔つきで鏡越しに俺を睨んだ。


「いや、だって取れねえんだろ」


「取れ、るよ。誰かがやってくれれば」


「誰かって?」


「い、いじわる……っ! なんで秋田さんを呼んだか考えようよ……」


 廊下の薄明かりでは手元が怪しく、俺は迩愛を居室に連れて行った。


 ベッドに腰を下ろすと、迩愛はぺたんとその足元に座った。


「サラサラなのにな。よくもこうなったな」


 その有様をしげしげと眺めていると、迩愛はブラシをもつ手を催促するように揺らした。


「ん」


 見てないでやれ、と言わんばかりに。




「ったい! ね、ねえ、もうちょいゆっくりお願い」


「はいはいお姫様」


「──っん……! あ、秋田さん!?」


「解ってるって。お前が思ってるより優しくやってんだ。こういうのって主観と客観で──」


「っていうかさ、引っ張ったってしょうがなくない? 絡んでんだよ?」


「いや、もうすぐごっそり抜けそうなんだよ」


「な、何が!? 髪じゃないよね!?」


「櫛に決まってんだろ。根こそぎ抜くからちょっと待ってろ」


「え、じゃぁ『ごっそり』っておかしくない!?」


「あーもうお前だまってろ!」


「…………!」


 そんな訳で、


 俺たちは隣の住人に聞こえたら百パー誤解されるような会話を繰り広げていた訳だが。


 ぐー……


 ぴたりと会話が止んだそのすぐあと、まるで見計らったかのようなタイミングで、漫画のような腹の音がなった。


 俺のではない。


 気持ち、迩愛の上半身が前のめりになる。


 それで止めようとしてんのか。


「腹、動かすと余計に音が鳴るもんだぞ」


「やめてよ。あたしじゃないし」


 そう言いつつ、迩愛の頭はテーブルに向く。


 そこには、まだ誰の口も付けていないおいしそうなサンドイッチがある。


「……それ、食っていいぞ」


 すこし間を置いてから、迩愛はサンドイッチに手を伸ばした。


「やった」


 自分にそれを口にする権利があるのか考えていたのだろう。そして、


 ──"ある"と結論した。


 白木がサバ缶をもらっていたなら、自分もサンドイッチくらい貰ってもいいはず。


 そんなロジックだ。


 昨日、布団の件であれだけ意地を張った迩愛だったが、今はすんなりと俺の施しを享受している。


 たぶんこの理屈は正解なのだ。


 俺はくい、くいと、優しくブラシを引く。


 そういやこいつ、昨日の晩飯どうしたのだろうか。


 昼は薬局で買うと言っていたからいいとして、夜は俺が仕事から帰ったあと、何も口にしていなかった。なら、


 食ってきたのか。──どこで?


 例の居酒屋か? まだ、通ってんのだろうか。


 別に、もう行くなとは言っていない。言っていないが、


「──いただきまぁ、っ……いっ……いたた!」


「あ、悪い」


 俺は無意識のうちに右手に力を込めてしまったらしく、はらりと、中途半端な長さの毛が俺の膝に落ちた。


「もー。いま絶対抜けたでしょ。髪の毛は十万本しかないんだから大事にしてよ」


「なんだそれ」


 申し訳なく思いながらも、その物言いに笑ってしまう。数えたことあんのかよ。


 改めて「いただきます」と迩愛は言った。


 サンドイッチがかじり取られ、小さな歯型ができた。


「お前、昨日の晩飯どうした?」


「食べたよ」


「そうじゃなくて、どこで食ったんだって訊いたんだ」


「内緒」


「あ? 言えよ。ハゲにすんぞ」


 口ではそう言いつつも、力は最小限にとどめている。


 迩愛もそれを解っていて、じゃれるように俺の足に背をもたせてくる。


「あはは、いたいって」


「また相席してきたんだろ」


「え? あー…………そうなるのか。じゃ、正直にいうけど、さっきのウソなんだ」


「は、何が嘘なんだ?」


「んっと、本当いうと食べてない」


「──えっ!?」


「──あっ!!」


 次の瞬間、──俺は右手のブラシを高々と掲げていた。


「「取れた!」」


 二人の声が綺麗にハモる。


 はらりと一本、長い毛が落ちてくる。

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