10.天気予報 ③
「んと、薬局。シャワー浴びる前に行っとこーかなって」
「……………………あっそう」
どっと疲れた。
勘弁してくれ。週明けの朝イチだぞ。
「というか……。昨日行ったんじゃないのか、薬局」
「歩いたけど、なかったの」
「…………」
そうだとして、
駅までは行けたのだからコンビニでも何でもあったろう。要領の悪いやつめ。
「今日はある気がする」
迩愛はそう言ってとんとベッドから片足で降りた。
「あるって、薬局が、か? あるだろそれは」
コートに袖を通しながら後ろをついていく。細い身体で足音もなく歩く様はほんとうに猫のようだった。
「行き道だから連れてってやるよ」
「いいって」
「いや、ついでだ。ヘンに気をつかうな。いるんだろ、
「でも」
足を止めた迩愛は、これだけ言ってもまだ渋い顔をする。
「辿り着けないくらいならいいがな。正直、お前が帰って来ないのが一番困る」
迩愛は俺に向けた目をわずかに見開いた。
それで俺はいま吐いたばかりの自分の言葉を
「い、いや……断じて寂しいとかじゃねえぞ」
迩愛は何故かしたり顔になる。
何か言おうとする気配をむんむん漂わせ、結局その顔のまま玄関を振り向いた。
「…………ちっ」
なんでか知らんが負けた気がしてならない。
玄関で迩愛がローファーを履いている間に、俺はマフラーを巻いた。
隙間を作っているせいで、玄関はクソ寒かった。
当たり前のように吐息が白い。
踵に人差し指を突っ込んだ迩愛を見下ろす。
こいつはこんな服装で大丈夫なんだろうか。
身体、震えてないか、これ。
迩愛は上体を起こして、洟をすすった。
「…………行こっか」
すこし間をおいてから出てきたその声は、鼻声だった。
迩愛の長い髪はいいようにやられていた。
階段は屋外にせり出すような構造で、踊り場に出る度に冷たい風に吹きつけられた。
ビジネスバッグを左手に持ちながら、コートの釦を片手で一番上までとめていく。
「やばいやばい」
迩愛はけらけら笑いながら丁寧な所作で髪を束ねていき、例のヘアゴムを使って後ろで一つにまとめた。
何が楽しいのか、まったくわからん。
ふいと晒されたうなじに色香のようなものを感じた。
俺は一階に下りるまで、迩愛の目を盗んではその首筋に見入った。
風が強いのは上の方の階だけだった。
それでも身に沁みるような寒さは相変わらずで、俺は深々とマフラーに顔を埋める。
「……お前、寒くねえか?」
長袖長ズボンの俺ですら
唯一外気に晒された左手は、すでに感覚が失われつつある。迩愛は、
「寒くないよ」
白い息を吐きだした。
気持ち身体をくの字に折り曲げ、自分の両腕をぎゅっと抱くように身を竦めている。
スカート伸ばせよ、と言いたくなる。
太ももは爛れたように赤くなり、見ていて憐れなほどだった。
「仕事の帰りに買ってきてやるから。遅えけど……お前部屋にいろよ」
「いい。お昼ごはんも買うし。平気」
迩愛は涙目だった。
気持ちは解る。風が冷たすぎて目に沁みるのだ。
「…………もしかしてお前、フトンの件で意地張ってねえか?」
マンション前の交差点で信号待ちをしながら、横の女子高生の丸い背中に哀れな眼差しを送る。
「…………少しね」
迩愛は顔を上げずに苦笑して言った。
前触れもなく素直になる。
いつもこうなら可愛いのだが。
「でもやっぱヤなんだ。迷惑かけたら。ずるずるさ、なっちゃうと思う」
迷惑、か。
迩愛が俺に求めていることはそれほど多くない。
宿とシャワー、それにサバ缶程度の食いモンくらいだ。
俺に対してそれ以上の物を求めることを、迩愛は"迷惑"と表現していると思う。
とはいえ、けっこう重要なライフラインを俺は提供している。
それだけ頼っておいてなんでそこで一歩引くのかが解らない。
フトンくらい受け取れと。
その癖、今朝ベッドで寝かされていたことには文句の一つも言わないのだ。
ガバガバだ──ガバガバのルールだ。
でも、そういった詰めの甘さは嫌いではなかった。むしろ年相応で可愛らしいとさえ思う。
「ずるずるやりゃいいだろ。学生のうちは」
小刻みに震える丸い背中に、俺はそっと手で触れた。
一瞬びくりと身体を飛び上がらせたが、迩愛は振り向かずに信号を見つめ続けた。
「……学生だって大変なんですよ」
「知ってるよ」
外気にさらされた右手の体温がみるみる奪われる。
ぽんぽんとその背中を励ましてやり、俺は自分の首に手をやる。マフラーをほどくと、温まった首に痛いほど冷気が突き刺さった。
迩愛の首に巻いてやった。
「え?」
「俺だって五、六年前まで学生だったっつうのに」
「いや、そうじゃなくて……これ要らないよ」
「要るんだよバカたれ。こんなペラッペラな服で出歩きやがって。見てるこっちが寒くなるんだよ」
迩愛は、首に巻かれたマフラーに戸惑いながら触れる。
外すべきか悩んでいる、そんなふうだった。
「それ巻いてあったかくしとけ。風邪ひかれると面倒そうだ」
「うーん……」
それで迩愛の愁眉がひらくことはなかったが、でも外すこともしなかった。
信号が青に変わり、俺はさっさと歩き出した。
迩愛もしぶしぶ後ろをついてきた。
「お前にさ」
「うん?」
「何があったか知らないけど」
「…………うん」
「俺のことで、──しょうもないことで、うだうだアタマ使ってる場合じゃねえだろ」
「しょうもなくないよ」
「しょうもなくないなんて思うのは人間だからだろ。お前は、『猫』だろが」
「…………そう、かな」
「猫は、──白木は、白木ならなんも考えねえで飛び込んできたぞ。勝手に入ってきてベタベタ足跡つけて、飯漁って、好きなように生きてんぞ」
迩愛はそこで黙りこんだ。
あるいは付いて来ていないのかもしれない。
しかし振り向いて確認する勇気もなかった。
「自分のことを猫だと思ってねえのはお前自身じゃねえのか」
対岸の歩道まで渡りきっても返事はなく、それどころか気配すら感じない。さすがに不安になって振り向くと、
迩愛はすぐ後ろにいた。
伏し目がちに俯き、俺のマフラーに顔の下半分を埋めて。そして、
静かに涙を流していた。
「な……泣いてんのか……?」
恥ずかしいほどか細い声が出た。
突然の事態に驚き、戸惑い、きゅーっと気管支が絞られたように痛くなる。
喉元がヘコんだような違和感につづき、耳の後ろがどくどくと鼓動をはじめる。
「笑ってますけど」
相変わらずの鼻声でそう言い、迩愛ははにかんだ。その目尻からまた涙の粒が溢れ落ちる。
なんで。
俺、何かマズいことでも言ったか?
かつかつとヒールの音が近づいてきて、はっと顔を上げる。コートを着た女性が通り過ぎていく。
全くの他人だったが、なぜか緊張した。
迩愛も、濡れた瞳で俺を見つめながら、息を凝らしているのが判った。
その人の足音が遠ざかるのを待って、迩愛はくつくつと笑い出した。
いつの間にか迩愛の涙は止まっていた。
キラキラと光る涙筋だけが、今起きたことを現実だと伝えている。
「何て思われたかな」
「え……あぁ、」
冗談めかして。
今の今自分が泣いていたことなど何でもなかったかのように迩愛は言った。
本当にタイミングの悪いエキストラだ。
なんで泣いた、とは今さら聞けない雰囲気だった。
出来るとすればせいぜい言い訳くらいか。
「言っとくが、説教したわけじゃないぞ」
「解ってるよ」
「じゃ、なんで泣くんだ」
けっきょく訊いてしまっている。
「秋田さん、意味わかんなすぎて」
「俺のセリフなんだけど……」
あっははっ、と迩愛は声を出して笑った。
その屈託のない表情を見ていると、まぁ"なんでも"いいかと思えてくる。
決して"どうでも"いい訳ではない。
家出中の女子高生だ。泣く理由なんざ腐るほどある。
少なくとも笑いたくなる状況ではないはずだ。それが、
──笑っているのだから。
俺がこうして横に立っている意味はあるんじゃないか。
「だんだん、秋田さんの困ってる顔見るのが好きになってきたかも」
「お前……覚えとけよ」
俺が困ることで少しでもこいつの痛みを肩代わりしてやれるのなら、それもアリかもしれない。
「覚えときまーす」
「フトンも買うから。覚えとけよ」
「無理むり、覚えきれない」
あたし、猫だから──そんな言葉が続きそうだったが、実際迩愛は何も言わなかった。
代わりに迩愛は、マフラーの中でくすくすと笑った。
どうやらさっきのが最後の涙だったみたいだ。涙筋は乾き、表情は晴れやかだった。
積もり積もった想いがあるのだろう。
俺の言葉のどれかが迩愛の琴線に触れて、それが押し上げられた。溢れた想いが涙になって。
すぐに止んだ。
そうならまだ、心の中に重苦しいもんが残っていそうだ。
すぐには吐き出せなくても、それが目に見えただけで十分だった。
俺はやっぱり、こいつを俺の部屋に居させてやろうと思う。
こいつの気持ちの整理がつくまでは。
なら。
「フトンは要る。俺のために」
「……わかりましたよ。フトンね。はい」
迩愛は困ったように微笑む。
何なんだろう。
「お前、いつもそうやって素直なら可愛いのにな」
それとも、"たまに見せる"というところがミソなのか。
こいつの
「あはは、口説かれた。もうあたしたち、付き合っちゃおうか」
それはねえなと思ったが、口には出さなかった。
「茶化すな。ひっつくな。職場が近い」
腕の自由が奪われる。
真剣にヤバイ気がして、俺はやんわりと迩愛を振り払う。
「白木は秋田さんにこういうことしなかった?」
反射的に回顧してしまう。
「あー、たまにジャレてきたこともあったかな。なんで?」
「じゃぁこれもアリですよね」
歌うようにそう言って、迩愛は再び俺の腕を取った。
「よかった、あたし白木で」
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