10.天気予報 ②
「ん。さむ……」
翌朝、テレビの前でネクタイを締めていると、迩愛がむっくりと体を起こしてきた。
肩からフトンがずり落ちて、シャツとスカートだけの寒々しい姿が
襟はだらしなく曲がり、袖も腹部も皺になっている。
迩愛はずびっと洟をすすった。
「週末は雪らしいぞ」
ぐるんとネクタイを表に返しながら俺は言った。
迩愛は返事はよこさず、半分開いたカーテンにぼんやりと顔を向けた。
その横顔はまだまだ寝足りなそうだった。
まるでコアラか何かのユルい生物を観察しているような気分になってくる。
「……あたし自分でベッドに行ったっけ」
かくん、と、その首が不思議そうな角度に傾き、長い横髪がさわさわとベッドの表面をなでた。
迩愛は鼻が詰まっているのか、どこか甘えたような声を出す。
それが寝起きのぼんやりした感じと相まって、
こいつ、寝起き可愛いな──
不覚にもそんなことを思ってしまう。
「えー……っと、まぁ、俺が運んだ」
「え。どうやって」
一重のおおきな眼がぱちっと開き、俺を見た。
俺はどぎまぎした。
何を馬鹿正直に告白してんだ。
嘘でも吐いときゃよかった。そこは出来ればツッコまないでほしかった。
迩愛はふいにくすっと笑ったが、何を言うわけでもなく俺を見続けた。
意地でも答えさせるつもりなのだ。
「こんな感じだ」
俺はすこし乱暴な手振りで、猫の首を掴みあげる真似をした。
「そうはできないでしょ」
冷静に突っ込まれる。流せやしない。
「こう、マックのトレーを運ぶように」
「抱っこしてくれたんだ」
「……し、仕方ねえだろ」
言いながら俺は、むやみにネクタイの角度を調節する。
「わざわざポットなんて持ってきやがって……あのまま寝かせてたら俺が悪者みたいじゃねえか」
雑に襟を折って、シュバッと窓辺に吊るした背広に手を伸ばす。
手元にひっぱり寄せた背広の裾が、事故的に迩愛の頭をなでた。迩愛はくすぐったそうに首をすくめる。
「気にしなくていいのに」
「ばか。気になんだよ」
第一、鼻声で『気にするな』と言われても、そうか、とも思えない。
そもそも、俺がそんなに薄情な人間だったら、こいつは今ここにいないはずだ。
迩愛はそっと俺から目線を外し、口を尖らせた。
「……………………重かったでしょ?」
急に女子らしいことを言うので俺は戸惑った。
「お前そんなこと気にするやつだったか?」
「……す、するよふつうに。あたし女子だもん」
「猫じゃねえのかよ」
「そうだけど、身体は女子だし」
女子、なぁ。
俺の視線は自然と流れ、迩愛の胸のふくらみで留まる。
リボンは昨晩から付けていない。
開いた胸元から綺麗な鎖骨が覗く。俺は目を逸らす。
「ん。まぁ、猫にしては重かったんじゃねえか。あんまり覚えてないけど」
「えへへ。メインクーン」
迩愛ははにかんだ。
正しい回答を選べたらしく、少なからず俺はホッとする。
「そっか。一緒に寝てたんだ」
細い
声の抑揚からして独りごとっぽい。
その白い天井に何を思い浮かべてんのか。
勝手にベッドに運んだことをキモがられるのではと一抹の不安はあったが、迩愛の様子からしてそれは杞憂そうだった。
といって、喜ばれでもしたらそれはそれで後ろめたい。
さっさと言ってしまうに越したことはないだろう。
「まぁ最初で最後だけどな」
俺は背広に袖を通すのにかこつけて迩愛から顔を背けた。
「へ? なんで?」
迩愛は慌ててこっちを向いた。
「出てけってこと?」
「いや、そうじゃない。今夜からフトンを分けるってことだ」
「フトンあるの? ないから一緒に寝たんじゃないの?」
「ねえよ」
むっ、と迩愛は眉根を寄せた。
「ないのにどうやって分けるのさ」
声も表情も不満げだ。
わがままそうな猫顔に、その表情はやたらとハマる。
面倒なことになりそうな気しかしない。
神経を逆撫でないよう、俺はつとめて穏やかな口調で話した。
「うん。だから今夜、仕事帰りに買って来るんだ。ニトリかどっかで」
「あたし要らない」
迩愛はきっぱりと言った。
「要るよ。これからもっと寒くなってくんだぞ」
「なら、今日みたいに一緒に寝よ。秋田さんが迷惑じゃないならあたしは──」
「いや、迷惑じゃねえよ」
実際、
迩愛は寝相もよかったし、いびきも歯軋りもなかった。
布団の中じゃ本当に行儀のいいやつだった。
強いて難点をあげるなら、香りくらいだ。
不思議なもので同じシャンプーを使ったはずの迩愛からは、きちんと"女子"の香りがした。
寝付くまで、どぎまぎした。
寝てしまえば気にならないかと思ったが。
そんな訳はないのだ。寝てからも呼吸はするのだから。
時折目を覚ましては、俺はその香りに安らぎを覚えた。
問題はそこだ。
何度か
今日は何事もなく朝を迎えられたが、明日はどうか分からない。明後日は。一ヶ月後は。まず無事では済まないだろう。
「迷惑じゃねえけど──困る」
「──迷惑なんじゃん」
迩愛はボソッとつぶやいた。
「……それなら床でいいです」
そうなるか。
「馬鹿言うな。ポットひとつで何を
「そんなに寒くないし。ホント、どっちかといえばフトン、暑かったくらい」
「いやお前、朝一で何て言ってたよ……」
のらくら起きてきて、開口一番『寒い』とか言ってのはどこのどいつだ。
「そんな昔のこと覚えてないよ。あたし猫だもん」
「お前なあ……」
猫をリスペクトしてんのか。それとも馬鹿にしてんのか。
「秋田さん、あたしのために何か買うとか、ほんとやめてほしい。そういうことするならあたし、出てくよ」
買うなら出て行く。
この部屋から出て行く、もう戻らない──そういうつもりで迩愛は言ったのだろう。
それで駆け引きが出来ているつもりなのだろうか。
そりゃ俺だって、いくらか迩愛の存在に依存しはじめている。
何だかんだこいつと過ごした一日は濃かった。いろんな感情を掻き立てられた。
急に消えりゃ寂しくもなるだろう。そこは認める。
だからと言って。
出て行こうとする迩愛を引き止める権利は、俺にはない。
出ていくと言われても、忘れもんすんなよ、くらいしか返しようがない。
それでは駆け引きなんか成立しないわけだが──
あまりに迩愛が必死なので黙っていた。
なんにしても、"迷惑はかけるまい"という頑なな気持ちは伝わってきた。その気持ちだけは汲んでやりたかった。
「……とはいえなぁ」
俺は絨毯に目を落とす。昨晩、床で丸まっていた迩愛の姿がオーバーラップする。
あの哀れな背中を放置できるほど非情ではない。
「うーん」
これといった妥協案も出せないまま、時間だけが刻々と過ぎていく。
腕に巻いた時計を見る。
そろそろ危うい時間だった。
「フトンは買う。けど、それの為に出て行くことはねえよ。使いたくなきゃそれでいい。これは俺の自己満だから」
「……まぁいいけど。でもあたしはゼッタイ使わないよ。床で寝る」
意固地め。
迩愛のわがままそうなツラが、一層憎い。
空気がピリッとしたものに変わる。
「…………」
俺は大きく吸い込んだ息を、ため息ととられないよう少しずつ鼻から漏らしていく。
それで多少は気持ちも落ち着いて、俺は窓辺に吊るされたコートに手をかけた。
──と。
迩愛もベッドの上ですくと立ち上がり、自分のブレザーに手を伸ばした。
「あ? お前もどっか行くの?」
このムードのまま、
出て行って──
それきり。
そんな可能性が頭を掠め、ぎくりと心臓が高鳴った。
その胸の痛みに、一つ教えられたことがあった。
俺はもう、どっぷりと迩愛の存在に依存してしまっている。
迩愛は澄ました顔でブレザーを羽織る。
出ていきたきゃ出てけ、そんなふうに、
無関心を装えるのか。そんなにもあっさりと
縁が切れるのか──?
厭な鼓動を続ける心臓が収まり切らないうちに、迩愛は答えた。
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