9.スウィート・ホーム ①


 俺は足を止めて、振り向いた。


 マンションはすぐそこだった。


 エントランスの、一段高くなっているタイルに足を掛け、そのまま停止した。


「あ……、ありがとう……? …………教えてくれて?」


 迩愛にあがなにを言っているのか、俺にはまったく理解できなかった。


 迩愛は相変わらず俺から二歩ほど離れた位置にいて、そこで足を止めている。


 薄明るい蛍光灯の光がその顔を照らしていた。


 なぜ、そんな言葉が出てくるのか。


 平然と笑っていられるのか。


 こんなにも嫌味を吐き散らかされたらキレるだろ、普通。


「……いや、怒れよ」


「怒るわけないよ。あたしは……うーん」


 迩愛は夜空に視線をやる。


 アゴが持ち上がった横顔。


 その瞳にマンションの光がきらきら映り込む。


「すっごく、なにかしてあげたくなった」


 迩愛はふいに空を見るのをやめ、俺に向かって足を進めた。


 それで。


「あ? ──え、お前、何……、えっ」


 ぼふ、と迩愛は俺に抱きついた。


「……ごめんなさい、遅くなって。べつになんもなかったよ」


 迩愛は俺の胸に顔をうずめ、くぐもった声でそう言った。


「や、」


 頭がしびれて指先に力が入らない。


 引き放したいのに、体が動かない。


「……ぐぅ……っ! は、な、れ、ろ……」


 迩愛はこれでもかというほど、俺の身体を締め付けた。


 どくどくと早鐘を打つ心臓。


 それが俺のものか、迩愛のものか、もはや判断がつかなくなっている。


 だけれど、


「放してほしい? ほしかったら言って」


「……む、むり……声でねえ……」


「出てんじゃん」


 迩愛は笑う。


 正直に言えば、振りほどこうと思えば簡単だった。女は俺よりも小さく華奢だ。


 無論、口もきける。『放せ』と言える。でも。


「む、むり」


 俺は脱力した。もう隙間などないほど密着していると思ったが、俺が抵抗をやめると迩愛の身体はさらに近づいた。


 胸が押し付けられ、俺の腹のところで潰れているのがイヤでも判る。デカくてやわらかいのだ、こいつのおっぱいは。


「えへ。あったかよー」


 顔をうずめて無邪気に笑う。俺はその頭を黙って見下ろしていた。


 なぜだ。


 なぜ、俺はこんなにも……。


 悔しいが、俺はどうしようもなく救われた思いだった。


 浮き輪の空気を抜くとき、体重をかけたら抜きやすい。


 俺は今まさに、その浮き輪だった。


 胸の底で渦巻く黒い塊が、ぷしゅーと音を立てて俺のうちから逃げていく。


「……さ、さすがにこれは、見られたら、マズい……」


 俺は辺りに目を走らせる。幸いにも通行人はいないようだが──


「なんで? あたしカレシいないよ。秋田さんは? カノジョいるんですか?」


「……いねえけど……そういうことじゃ」


 夜の、まだ七時にもなっていない。マンションの住人と鉢合う可能性は十分あった。


 一緒に歩くくらいならともかく、これは言い訳できない。


 俺なら通報する。


 30手前の男が、JKに、襲われています、と。


 いや、──逆か? どうなんだ。わからん。


「そーなんだ。へへ。ならいいじゃん」


「よ、よよよよ、よ、よくねえだろ」


「いいって。このままぜーんぶ吐き出しちゃいなよ。じゃないとあたし、分かんないもん」


「な、なにが!?」


「あたしが何を考えてここまで来たか、秋田さんにはわかる?」


「知るかよ! 離せよ!」


「離さないよ、嘘つき。離してほしくないくせに」


「あ~~~~!! 離せ、離してほ、し、い!」


 しかし迩愛は、


「やだよ。もう解っちゃったから。ねえ、あたしがどんな思いで居酒屋にいたか、知らない人と相席してるか、秋田さん知ってる?」


「知らねえって、ば!」


 俺はやっと、自分の意思でその腕を払った。


 荒く息をしながらその場にしゃがみ込む。アスファルトに手をついた。


「はぁ……、はぁ……、てめえ…………」


「知るわけないよね」


 そう言って迩愛もしゃがんだ。視線が正面からぶつかる。


「だってあたし、言ってないもん」


 真剣な眼差しだった。

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