8.居場所
お手洗いは、居酒屋という感じがしないほど広くて綺麗だった。
私はじゃばじゃばと水を流して手を洗った。
ハンカチをしまって鏡に向かい、化粧が崩れていないことを確認した。
そのままぼうっと客観的に自分を見ていた。
肩に触れる。
気になる。
さっき化粧直しに立ったとき、何気なく触られた。
「キモいなぁ」
ぎゅっと掴むと肉がつぶれて普通に痛かった。
けれど、触れられた感覚よりもはるかにマシだ。
時間を確認しようとしてスマホを取り出し、
「いや、だから。電池ないんだって……」
私はそれを握りしめる。
遅くなっちゃったなぁ。
ふと秋田さんの顔が浮かぶ。
待ってるかな。
「……な、訳ないか」
席に戻ると。
「あ、
割り箸の先にたこ焼きをつかみ上げたまま、その
色とりどりの食事に囲まれてほくほくしたその笑顔は、居酒屋の黄色い電光でテカテカしている。
「あはは、帰んないですよ。金本さんといるの楽しいし」
取り
どこかの会社で役員をしているとか、いつだか誇らしげに言っていた。
私は金本さんの向かいに座った。
「えーそうかな? 普通に話してるだけなんだけどねー。あ、でもこの前経理のエミちゃんにねぇ」
金本さんはそういって少し間をおき、ちらっと私の様子を窺う。
他の女性の名前を出せば私が妬くとでも思っているのだろうか。
自分に気があると思っている、その前提がもうキモい。
私は心を無にして聞いた。
その心に、ふと彼の声が浮かんだ。
──『いや、俺も行くよ』
薬局への道が分からない私に、秋田さんは案内を買って出てくれた。
でも私は、彼のその言葉を大切に胸のうちにしまっている。
『俺も行くよ』はたぶん、『一緒に帰ろう』と同義なのだ。
秋田さんがあの言葉の裏にどんな想いを秘めていたのか、どんな考えで言ったのかは分からない。
でも、無意識下に私を連れ帰るつもりでいてくれている。
そう思った。
私は帰れる。
秋田さんの住む、あの部屋に。だから──
──『いってきます』
そんな言葉が出てしまった。
言ったら言ったで、どうしようもなく帰りたくなってしまった。
隙間。
(帰ったところで、開いてるか分からないのにね)
私は思わず失笑を零してしまう。
「……ふふっ」
「──で、会議中だっていうのにエミちゃんそのとき、」
金本さんの話がふいに止まり、ちらっと私を横目で見た。
やば。
話、聞いてないって思われたかも。
気を悪くさせないだろうか。機嫌を損ねることはちょっと避けたい。
キモいけど、私を気に入ってくれている金本さんは、気前よくご飯を食べさせてくれるし。
関係は維持したい。それで、
「いや、金本さんの話おもしろくて」
そんな言葉が出た。
それで彼を勘違いさせてしまった。
金本さんは席を立ち、テーブルを回って私の横に座った。身体を密着させてくる。
(失敗したな……)
私は遠くにあった料理を取るふりをして、さりげなく距離をとった。
「あっ」
ガランッ──!
幸いにもグラスは空で、誰も何の被害も受けなかった。なのに。
「おっとっとぉお!! 近坂ちゃん大丈夫──っ!?」
金本さんはテーブルにあったおしぼりで、私のスカートをごしごし拭いた。
その手つきが、はっきりとイヤだった。
私の胸元を覗き込むような頭の角度、そのイヤらしい目線も。
「だ、大丈夫ですからっ」
私はじわじわと捲れていくスカートを押さえる。太ももがぞわぞわした。
金本さんは不必要に肘を曲げ、それがなんども私の胸に当たった。
「え、でもシミになっちゃうと困らない? 制服だよ」
「ぜんぜんまったく! あ、ほら店員さん来ましたよ!」
それは本当だった。
見通しを悪くしていたパーテーションの裏で、店員の頭がひょこひょこと近づいてくる。
「お客様、申し訳ないんですけれど──」
と、その店員は私を見た。
「そろそろ入れ替えの時間でして」
「あ、もう出ます」
ランチから、夜のふつうの居酒屋の時間に切り替わる時間になったのだ。
前にスマホで調べたが、法律的には、制服のままでも夜の10時までは居酒屋に居られるものらしい。
けれど、私のような明らさまな未成年に居座られれば、店の外聞に障る。
それでこの店は、夕方が過ぎると未成年らしき客に、声をかけてまわっている。
『コスプレです』
と言い切って夜まで居座ったことも過去にあったが、今日は天の助けのように思えた。
「それじゃ金本さん、ごちそうさまでした。ごめんなさい慌しくて」
私はバッグを乱暴に引っ張り上げ、立ち上がる。
金本さんはいつの間にか居住まいを正し、スマホをいじっている。タヌキだ。
「泊まるところあるの? 面倒みるよ?」
金本さんも立ち上がる。
「いやいや、ほんと、親が迎えにくるんで」
デタラメだ。そしてチグハグだ。
「え、家出してるんじゃなかった?」
「じつはこの前、仲直りして。今日はだから、金本さんに今までのお礼を言いたくて」
よくもこんな作り話がするする出てくる。
「そっかぁ……」
口惜しそうに言って、
「じゃ、これ渡しとくから」
金本さんは懐から白い、長方形のカードを取り出した。名刺だ。
「困ったことがあったら、いつでも連絡して。会社なんていつでも抜けれるから」
俺がいなくてもうまいこと回るんだ、とよく分からないことを言った。
私は分からないなりに感心したふりをして、急いでレジの横を通り過ぎた。
外に出て。
私は見るともなく、居酒屋の窓から店内に横目を向ける。
金本さんのテーブルに、別の新しい女性が、伺いを立てるように立っている。
金本さんは立ち上がり、やっぱり懐から名刺を出した。
・
堪らなく『帰りたい』気持ちになる。
でも。
「……どこにだよ……」
私が本当の意味で、帰れる場所──うん、『居場所』。
そんなものが在るのだろうか。
出会って間もない彼の顔が、また浮かんだ。
「……秋田さん」
でも。
私はまだ、彼の困っているような顔しか見たことがなかった。
戸惑い。困惑。
そりゃそうだ。朝起きたら知らない人間が部屋にいて、泊めてくれなんていう。
改めて自分の無謀さに呆れる。
まだあの隙間は開いているんだろうか。
あの部屋に帰っていいんだろうか。
「…………わかんないんだよ……」
気持ちが込み上げてきて、私は目尻を拭う。
「……お父さん」
そう呟くと。
私の足は突如目的を持ったように、私をある場所へと運んだ。
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