≒ Prologue.白猫


 ──カショッ。


 どこか耳心地の良い音を飛ばし、日本酒が入った瓶が開く。


 ぐびっとあおると、はらの奥に熱いものがじわりとが広がる。


「……っく……っっそ苦え……」


 こんなもの、好き好んで飲む奴の気が知れている。


 べつに飲みたい訳ではない。


 これは、言うなれば賞と罰。


 まずは残業お疲れさまでしたで賞。


 仕事の帰りに酒を飲んで帰るというこの行為、自由こそが自分へのご褒美である。


 次に、罰。


 今日の仕事で手違いがあり、先方のスケジュールを大幅に遅らせてしまった。


 そんなわけでこのクソ苦い、飲みたくもないカップ酒が選ばれた。


 焼けるような喉に、冬の夜の空気を目一杯送り込む。


 肺が凍えるかと思った。


 星空を仰ぐ。


 やけに澄んでいる。知ってる星座の、一番大きい星がチカチカと瞬いている。




 俺は片手に吊るしていたコンビニ袋からタバコを出した。


 薄いビニールを剥いて一本咥えた。──で。次、どうすんだっけ。


「あ、そうか……! 火が要んのか……!」


 二年もブランクがあるとそんなことも忘れるのか。


 すこし落胆しながらタバコを箱に戻し、またビニール袋に放り込んだ。


 まぁ、吸いたい訳じゃなかったからいいのだ。


 すこし自由に浸ってみたかった。


 千紗ちさとの離婚でバタバタしていた生活が、最近ようやく落ち着いてきた。


 仕事終わりに公園で道草。スーツ姿のまま、ワンカップ。


 こんな楽しいことはない。


 あとこれもある。


 俺は袋から缶詰を出した。──サバ缶だ。




 俺は片隅にしつらえられた木のベンチに掛け、缶詰を開けようとした。


 そう。開けようとしただけだ。


 開けていないのだ。


「ナァーオ」


 開ける前に、そいつは現れた。


「ナァーオ」


 猫なのだ。


 目の前に、薄汚い黒猫がいる。


 俺は瞬時に悟る。


 こいつは誰かに餌付けされている。缶詰自体に反応していやがる。


「……なんて食い意地の張った猫だ……」


「ナァーーオ」


「やらねえよ」


 俺はそれをコンビニ袋に戻し、さっさと公園を出た。


「ナーオ」


 猫は俺の背後を、執拗しつようにつけて来た。


「……はぁ、……はぁ、これならさすがに……付いて来れねえだろ……」


 エレベーターのないマンションの階段を、俺は四階まで一気に駆けあがった。


「ニャァァ」


「う、うそだろ」


 軽く絶望した。


 猫にマンションを知られてしまった。


 部屋に閉じこもった。絶対に入れるつもりはなかった。


「恨むなよ、猫。このマンションはペット禁止だ」


 しかしどうやら俺は野良猫の執念というのを甘く見ていたようだ。


「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」「ナァー」


 猫はうちの玄関前に居座った。


 風呂に入っても猫。飯を食っても猫。布団をかぶっても猫。


 恨めしい思いで玄関のドアを睨む。


「ニアーオ」


 ドアが猫に変わってしまったのかと思った。ノイローゼになりかけている。


 俺は根負けして、玄関を少しだけ開けた。


 猫はぴたりと鳴くのをやめ、俺の足をするりとくぐり、室内へ入っていった。


 適当に床に置いていたビニール袋に、猫はごそごそと首を突っ込んでいる。


 ふと顔を上げ、俺を見る。


「ナァ!」


「……や、やらねえぞ。それはまた別の話だ!」




 あの日、は開いた。


 おかげで俺は二つの面倒を背負い込むはめになった。


 いや、一つか。


 どうなんだ。




 ──猫は迩愛なのか?

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