5.不在 ②


「おいおい」


 バルコニーの手すりを、火の付いていないタバコでトントン叩く。


「おいおいおい。──もうじき日が暮れんぞ」


 目の前の交差点にそびえるバカ高い鉄塔を、俺は睨みつける。


 夕焼け空に伸びる弛んだ電線。


 景観が悪くてイラついているのではない。──迩愛にあが戻って来ないのだ。




 エレベーターなしの四階建マンション『ヴィラ・原小宮』。


 俺の部屋は、その最上階の西角にある。


「……あいつ、どんだけブラブラしてんだよ」


 こちらを向いて歩いてくる豆粒大の人間に、この数時間で何度目を凝らしただろう。


「はぁ……」


 俺は後ろを向いて、ベランダの柵に背を持たす。


 そうしてタバコを咥えた。


 バルコニーの天井を仰ぐ。


 吐き出した煙が白い。しかしそれは紫煙しえんではなく、ただの息。


 残念なことに、ライターがない。部屋の中にもない。ある訳がない。俺は千紗ちさとの結婚を機にタバコをやめた。


 口を付けただけのそれを箱に戻し、コートに突っ込む。


「冷えるな……」


 窓を開けた。物淋ものさびしい室内に、やや荒っぽい音が響く。




 居間で俺はぎょっとして足を止めた。


 BGM代わりにつけていたテレビに、目が釘付けになる。


『先月行方不明となっていた高校2年生の女子生徒が遺体となって発見された事件で──』


 胃が浮くような感覚があった。首の動脈がどくどくいって息苦しくなる。


『──今日、群馬県警は……』


 ぐ、群馬か。


 不謹慎かもしれないが、都外の事件であることを知って俺はホッと胸をなでおろした。


 戻って来ないなら戻って来ないで構わない。


 しかし、『行ってきます』と言われた手前、帰ってこなけりゃ気味が悪い。


「携帯番号聞いときゃ良かったか」


 心配は心配なのだ。


「あ……でもあいつ充電切れてるとか言ってたな」


 何のための携帯か。


『次のニュースです。東京都葛飾区にある水元公園で──』


 俺はまた冷や水をぶっかけられた心地になる。


『──イルミネーションがはじまり、街をゆくカップルたちの……』


「っしょーもねえ!」


 いい加減ハラハラすることにも疲れ、俺はテレビを切った。


(何が行ってきますだ。ぜんぜん帰ってこないじゃねえか)


 猫も、迩愛も、誰も帰って来やしない。


 唐突に1DKの空間がやけに広いものに思えてしまう。そんなことを思ってしまう自分が憎い。


 俺はコートを着たままベッドの上に乱暴に倒れこんだ。


 せっかくしわをとって綺麗にしたのに台無しだった。


 じっとしていることも出来なくて、身体を起こし、胡座を掻いた。


「お前のせいで三連休が台無しだ」


 誰もいない空間に向かい、俺は吐き捨てるように言った。


 ポケットに手を突っ込むと、ごそっといって手の甲に何かがぶつかった。


 タバコの箱だ。


 禁煙して二年くらいか。


 ここ一年まったく吸いたいとも思わなかったが、今はめちゃくちゃ吸いたい気分だった。


 薄暗くなり始めた部屋で、俺はまた独りごちる。


「…………ライターを買いに行くだけだ」


 言い訳がましい。


 本当は迩愛を探しに行きたいのだ。


 しかし出会ったばかりの彼女を迎えに行くだけの理由きっかけが見つからなかった。


 ぐっと膝に力がのる。


 窓辺に吊るしていたマフラーに手を伸ばす。


 ついでに暖房のリモコンを手にとり、運転開始のボタンを押す。


 玄関に向かいがてら、風呂の自動給湯も押した。


 これで帰ってきたらすぐに身体を温められる。


 明日から仕事なのだ。風邪を引くわけにもいかない。


 俺のため、俺のため、俺のため……、


 ぶつぶつ唱えながら廊下に出て、玄関ドアを細工する。


 猫一匹分の隙間が開いたドア。


 俺はそれを見て頷き、そのまま部屋を後にした。

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