5.不在 ①
目が覚めてすぐに
不思議と千紗はいつも先に起きていて、俺の目が完全に開くのを待ってから、
『おはよう』
と微笑みかけてくれる。
寝起きの俺を気遣ってか、その挨拶はいつも極端に小声だった。
『いつから起きてたんだよ』
『アラームでもかけてるのか?』
『イタズラしてないだろうな?』
訊きたいことはいくつかあったが、千紗は『内緒です』といってはにかんだ。
人が聞いたら、『大の男が情けない』だとか言うのだろう。
しかし俺は、千紗に見守られながら目覚めることに、何よりの幸福を感じていた。
・
「あ、あいつめ……!」
冷たいフローリングにへばりついて、ごしごし床を磨く。
「あぁくそっ! こんなところにも!」
壁に沿って二、三歩移動したところでまた見つける。
猫の足跡だ。
フリー素材サイトにそのままアップできそうなくらい綺麗な肉球スタンプが、部屋のあちこちに残されていた。
猫が帰って来たわけではない。
一人暮らしを始めてから、掃除は週末にまとめてやることに決めていた。
数々の足跡はこの一週間で蓄積されたものである。
這いつくばり、床目線で汚れを探すと、
「あぁ……あるある……」
部屋の奥まで点々と続く、猫の足跡。
泥を踏んだような黒っぽいものもあれば、光に透かさなければ気づけない脂汚れに至るまで、より取り見取りだった。
「もうこれキリがねえな……」
俺は
どれだけ手間でも俺がやるしかないのだ。
一つ一つ、根気よく
──ごつっ
鈍い音が頭の中に直接響き渡り、さらに目の前に小さく火花が散った。
「────ぃってええ!」
頭を抱えて
ベッドフレームの角。
どうやらこいつで頭をぶったらしい。
「こいつ……ベッドの分際で…………あ? 何だこれ?」
床に落ちていた物体に目が留まる。
俺はぶつけた頭を撫でながら、そいつを拾い上げた。
ヘアゴムだ。
たぶん
ふとあの時のことを思い出す。
溶けるように冷たかった迩愛の手。
「……そういやあいつ、いつからここに座ってたんだろ?」
寒くはなかったんだろうか。
俺はフローリングに手のひらを当てる。冷たい。
叩くと、コンコンと硬い音が跳ねる。クッションフロアというわけでもないのだ。
俺はその場所にしゃがんだまま、ベッドの枕を見下ろす。
『生きてたね』
あのとき見せた迩愛の笑顔が頭にチラつく。
「……起こせばいいものを」
堂々と不法侵入する根性はあるくせに、起こすことはしないのだ。
俺の寝顔なんて楽しいもんでもないだろう。
寒い中、硬い床に座って眺めるようなもんじゃない。
「めちゃくちゃなやつだ」
軽愚痴を吐きながら、俺は戸惑っていた。
立ち上がる。
またヘアゴムを失くしてしまわないよう、テレビ台の上に置きに行く。
胸の底がくすぐられたように
迩愛のめちゃくちゃな行為に、なぜか
『よだれ出てるよ』
いつも俺より先に起きている千紗。
くすくす笑いながら、遠慮気味な声で『おはよう』と微笑みかけてくる。
あの日の千紗を、俺は今朝、ベッドの上で見つけてしまった。
『死んでるの?』
驚いて飛び起きた俺に、迩愛は、『生きてたね』と微笑んだ。
……いや、あれは微笑んだというより面白かっただけかもしれない。
それでも俺の頭の中で、今朝の迩愛はどうしようもなく千紗と重なった。
それから迩愛は、ひと仕事終えた人みたいに、軽く伸びをした。
『見守っていたよ』
そう言わんばかりに。
気づくと俺はテレビの上を高速でモップがけしていた。
そんな行為で心に浮かんでしまった思いは消せないとは分かっていつつ、無心で埃を掃き散らす。
むしろ埃は舞い上がった。
今朝の一連の出来事に合点がいき、俺は胸に湧きつつある感情を沈めるのに必死だった。
「めちゃくちゃなやつだ」
同じ台詞を繰り返す。
非があるのはあっちだ。非常識なのだ。自分の心に言い聞かす。めちゃくちゃな奴だ。
「帰ってこなきゃいいのに」
心にもない言葉をつぶやいた。
そして、その通りになった。
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