4.隙間 ②
「は? なんで?」
予想外の反応に、我知らず大きめの声が出る。
「だって、悪いよ。まぁまぁ歩くんでしょ? 今日最後の休みって言ってたし、ゆっくりしててよ」
「おま……勝手に他人の家上がり込んでシャワーまで借りといて……そこで遠慮するのか……」
「はは。でもそれは、……うーん。なんていうんだろう」
迩愛は目線を天井に移動させる。肩から流した黒髪を大事そうに撫でながら、考えている。
「秋田さんの邪魔にならないように、ひとりでやれる範囲でのお願いだから。あたし自身が動けば済む話だし。でも、わざわざ付いて来てもらうのは悪いかな、って」
ふむ、俺は腕を組む。
解るようで、解らない。
でも、解らないなりにひとつ知れたことがあった。
おそらく迩愛の中で、独自の基準──何かルールめいたものがある。
この部屋で俺の厄介になるにあたり、迩愛は迩愛なりに、自分の行動を正当化するためのルールを設けているらしい。
ただ、それが何かまではわからなかった。
迩愛は、肩に垂らしていた髪を腕で持ち上げながら言う。
「あたしは秋田さんに、白木がしてもらったこと以上のコトは、求めないから」
丁寧な所作で髪を背中に戻し、首を振って揺らす。そうして気が済んだような顔をした。
笑うでもなく憂うでもなく、それもやっぱり、つまらなさそうな顔に俺には見える。
「俺がしてやったこと……、なぁ……」
猫を洗ったこと。
隙間からの侵入を許したこと。そういや、サバも食ってたな。
じゃぁまぁ、そうなるか。
確かに今のところ迩愛は、俺があの黒猫にしてやったこと以外は求めてこない。
『白木は私だし、私は白木だから、お兄さん。私もここに居ていいってことにならない?』
そういう理屈か。
さっきは理解不能だったが、今なら少しくらい──
と、納得しかけたが。
「……いや。お前、猫じゃねえだろ」
危うく雰囲気に流されるところだった。
その大前提が成立しない限り、その理屈は通らない。
「猫じゃないけど白木だよ」
「……やっぱお前の理屈よくわかんねえ」
顔を渋くさせる俺を見て、
「しょうがないな」
そう言って迩愛はしゃがみ、洗面台の傍に置いてあった自分のバッグをごそごそと探った。
出してきたのは財布だ。
「はい。特別に見ていいよ」
渡されたのは何かのカードだった。
「何だこれ? 東京都立……──あ!」
学生証だ。
顔写真もしっかりと載っている。
きちんとメイクをしている迩愛の顔は、本当に人形のようだった。
「そこじゃなくて、こっち」
学生証には当然、名前も書かれている。
「……
「そうなりますね」
迩愛はどこか苦々しく言って、俺の手からカードを引っ張りとる。
その力強さと素早さに、『これ以上は教えまい』という強い意思が伝わってくる。
迩愛は財布をしまい、バッグを提げる。
「いいよね。あたし、ここに帰ってきても」
「え、いや……」
迩愛は俺の言葉を待たず、玄関まで移動してローファーを履いた。
「あたしが帰ってきたとき、この隙間は、まだ開いてるんだ」
愛しいひとにでも語りかけるような口調でつぶやき、迩愛はドアにそっと触れる。
「…………」
なぜだか知らないが、俺には迩愛が、哀しんでいるように見えた。
「秋田さん」
「……おう」
迩愛はこちらには目もくれず、
「いってきます」
俺の返事を待つこともしないで、その隙間を開いて出て行った。
こつこつ、と内廊下に響く靴音が遠ざかっていく。
「……悩んでんだろうなぁ」
家出するくらいだ。そりゃ当然か。
俺だって高校時代、家を飛び出したことはある。親の顔が見たくない、一人で生きたい、そういったありきたりな理由だ。
でも、名前を偽ろうと考えるまで思い詰めたことは、なかったように思う。
玄関が緩慢な速度で閉じていき、部屋から飛び出した古い靴のつま先に引っかかってまた隙間をつくった。
俺はそれを見届けてから、ゆるりと
猫も、迩愛も出て行った。
せっかく一人になれたというのに、まったく気が晴れない。
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