3.髪 ②


「…………うっ」


 綺麗そうなタオルを洗面下の戸棚から引っ張り出した俺は面食らった。


 落ち着いた色味の、高級そうなバスタオル。


 それは元嫁──千紗ちさのものだった。


「何でもいいよ、タオルなんて」


 俺の後ろで迩愛にあが言う。


「俺もそう思う」


 これは千紗ではなく、タオルだ。ただの使用済みタオル。


 思い出が残っているのは俺の心のほうであって、タオルはタオルだ。


 それ以上のものでもそれ以下のものでもない。


 とはいえ、さすがに元嫁のタオルを使わすのは、迩愛にも千紗にも悪い気がした。


「まぁ待てよ」


 俺は背中を丸めたまま、もう一枚、無難そうなタオルを引っ張り出す。


「選ばせてやろう」


 左右それぞれの手にバスタオルを持ち、俺は迩愛に選択を委ねる。


「これは猫を拭いたやつ。そしてこれは、……なんだろう。まぁ、いわく付きのタオルだ」


 迩愛はわずかに顔をしかめたが、


「普通にこっちでいいよ」


 と、猫のタオルを選んだ。




 ベッドに寝転がり、テレビを点ける。暖房も入れた。


 朝のワイドショーの音が流れてくる。


 それでようやく俺は、浴槽を打ちつけるシャワーの音から意識を遠ざけることが出来た。


「はあ……」


 "部屋に女がいる"というこの状況は、それなりに俺に緊張感をもたせた。


 なるべく意識しないつもりではいるが、気は使う。


 要するにこれは気疲れか。


(三連休の最後に、面倒なものを連れ込んでしまったな)


 いや、正確には『呼び込んだ』が正しい表現だろう。


 なにも俺は、好き好んであいつを連れてきた訳じゃない。


 あいつはあいつで、扉が開いていたから入ってきただけだろう。


 扉を開けていたのは俺だ。


 だからまぁ、呼び込んだ、が適切でしっくりくる。




 俺は何とはなしに玄関のほうに視線を向ける。


(帰って来ねえな)


 いまだに玄関には隙間がつくってある。


 居室と廊下を繋ぐドアも、締め切ることはしていない。


 いつでも自由に入ってこられるのだ。


 しかし猫は、昨日の夕方に飛び出して行ったきり姿を見せていない。


 入れ替わるようにして、あの女子高生・近坂きっさか迩愛が俺の部屋に現れた。


 例の──"隙間"を通じて。


「……あほらしい」


 俺はその先を考えるのをやめた。


 どうも今朝見た夢を引きずってしまう。




「シャワーありがと。あ、あったかい」


 迩愛が濡れ髪のまま居室に入ってくる。


 見た目がそんなに変わっていないところを見ると、薄化粧なのだろう。


 シャツの胸元がひとつ開いている。


 ガードのゆるいやつめ。


「おう」


 俺は寝転がったまま、迩愛の髪に目を留めた。


 濡れているせいで、色もボリュームもさっきとは違う。洗いたての犬でも見てる気持ちだった。


 その視線が気になったのだろう。迩愛は申し訳なげに笑った。


「ドライヤーが見当たらなくて」


 勝手に他人の部屋に入ってくるくせに、きちんと気遣いができるのが面白い。


「あぁ悪い。いつもこっちの部屋で乾かしてるんだ」


 俺はテレビの袖にあるちいさな戸棚からドライヤーを出してやる。


 迩愛は、へえ、と感心した。


「これいいやつだよ。あたしの姉ちゃんも持ってた」


「そうなのか? 俺はよくわからねえけど。ていうかお姉さん、いるんだな」


「あ~…………」


 声が尻すぼみになり、虚空を見つめる。


 やっぱりその仕草はクセなのだ。


 俺は内心面白がる。


「……猫はたくさん子どもを産むからね」


「ふっ」


 あくまで『あたし、猫』スタイルに拘るか。


 それはそれとして。


 俺の『姉がいるのか』という質問に、迩愛が『たくさん』というキーワードを返してきたのが引っかかった。


 べつに人数の話をしたつもりはないのだが、口をいて出たのだろう。


 ひょっとするとそれは、彼女の中の『姉妹』というワードに、非常に関連性の高い言葉なのかもしれない。


「何人姉妹なんだ?」


「一人っ子です」


「おま……言ってることめちゃくちゃだぞ……」


「うふふ」


 フローリングにぺたんと座り、迩愛は不敵に笑う。


 かちん、と電源を入れ、迩愛は、


「ミステリアス女子」


 と、ドライヤーの騒音の中でつぶやいた。




 熱風が、迩愛の髪を通してベッドにまで届く。


 風に乗った香りに、俺は懐かしいものを感じた。


 寂しいような、嬉しいような。


 それはとても一口では説明しえない複雑な感情だったが、決して悪い気分ではなかった。


 自分の髪を撫でる迩愛を見ながら、俺は今の今おこなわれた迩愛との会話を、頭の中でリプレイする。


 今回はうまくコミュニケーションがとれたんじゃないか。


 気分がいいのは、そのせいもあるかもしれない。


 ──ホーホー、ホッホー ホーホー、ホッホー ホーホー、ホッ……


 ドライヤーが終わり、またキジバトの声が聞こえてくる。


 迩愛はちいさな声で鼻歌を口ずさんでいた。


 手ぐしで髪をかすその女子高生の横顔を、俺はぼんやりと眺めた。


 いつの間にやら、沈黙がそれほど苦痛に感じられなくなっていた。

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