◆ 猫と過ごしたこと ◆

3.髪 ①


「秋田さんはさ、」


 と、迩愛にあは俺の名を呼んだ。


 俺は箸の先を咥えたまま動きを止める。


「あ……? 俺、自己紹介したか?」


 迩愛があまりに自然に俺の名を呼んだので、さらっと聞き流すところだった。


「え? してないよ。一回も」


「じゃぁなんで名前知ってんだよ?」


「……?」


 そこで迩愛も動きを止めた。しくも俺と同じく、箸を咥えた瞬間だった。


 あれ、何でだろ、と言わんばかりの表情で、迩愛は虚空こくうに視線を泳がす。


「いや、秋田で合ってるけどさ。秋田柳介りゅうすけ。どこで知ったんだろって、気になって」


 訊きながらサバ缶をつつく。


 一人用の小さなテーブルに向かい合い、一つのサバ缶を突き合っている。


 腹が減ったとはいえ朝っぱらだ。


 サバ缶というのは意外とデカい。二人で食うくらいが丁度いい量だった。


「うーん……会話の中で何回か出てきたから、自然とあたしのなかで定着してたかな。どこでって言われても、よく分かんないです」


「そうですか」


 ぼんやりと記憶を巡らせる。


 名前、出しただろうか。会話の中で。


 今朝起きてからの記憶を辿ってみるが、思い当たる節はない。




「……まぁいいや。それで、俺がどうしたって?」


「んっ、」


 油断していたらしい迩愛は、サバを咀嚼そしゃくしていた口を慌てて塞いだ。


 やや時間をかけて飲み下す。


「えーっと……。なんだっけ……?」


「えっ。いや、だから、『秋田さんはさ、』って言っただろお前。続きは?」


「あ、だからさ。その続きが何だっけ? ってこと」


「いや、俺に訊かれても」


 迩愛はまた虚空を見た。どうも考えるときにそうする癖があるらしい。


「忘れた。また思い出したら訊く」


「おう」




 会話が途切れ、沈黙が訪れる。


 ──ホーホー、ホッホー ホーホー、ホッホー ホーホー、ホッ……


 サバの咀嚼音と、ときどき缶に箸が当たる音、それから遠くでキジバトが鳴いている声だけ

が、今この世界のすべてだった。


 間が持たない。


 平素の営業で磨いたトーク力が、今この場でなんの役にも立っていない。


 普段はおっさんが相手であることが多いから、勝手が違って戸惑っているのだ。




(……十五か六くらいかな)


 目の前の女子高生を改めて眺める。


 さぞクラスではモテているのだろう。


 長い黒髪には気品があった。家出中という感じはすこしもなく、ツヤツヤで乱れの一つもない。


 顔が小さい。すっきりした顔立ちだ。大きな一重の眼。無理に二重をつくろうとしていないのが、非常に好感が持てた。顎も細く、キリっと引き締まっている。


 犬か猫なら、十中八九、猫。きつね顔、という言葉もしっくりくる。


 どこか韓国のアイドルを思わせる、端整な容姿だった。




 それでだ。


 美人なだけに、話しかけるのに気後れする。


(さっきは普通に話せてたのになぁ……)


 『問い詰めること』と『世間話をすること』の違いだろう。


 話題、なにか話題はないか。


「そのかみのっ──」


「あのさっぁ、──」


 なんつう間の悪さ。変に周波数が合ってしまい、会話が衝突する。


 俺は自分のイタさに苦笑したが、迩愛は屈託なく笑った。


「さっきから噛み合わないね、あたしたち」


「……うぐっ……」


 心外だ。


 普段なら、こう、もっとするすると言葉が出てくるのだ。


 こいつが美人なのが悪い。


 しかしそれをそのまま言えるほど打ち解けてもいない。


 下手に"口説いてる"なんて思われたら、それこそ心外だ。


 ただでさえ俺は『手が早いお兄さん』などと誤解を受けている。


「……はは」


 俺は笑ってやり過ごすことにした。


 ムキになって反論している場合ではない。


 デタラメばかり言うこの女子高生からきちんと情報を引き出すために、今は少しでも話しやすいムードを作ってやらないと。




 迩愛が訊いた。


「それで、なんて言おうとしたの?」


「いや、いいよそっち先言えよ」


 さっさと話させないと、また忘れられても困る。


 俺は迩愛の"髪"のことを尋ねたかっただけだ。一体どこで手入れをと気になったのだが、別に今じゃなくてもいい。


「そう? じゃ、あのね。シャワー浴びたい」


「しゃ、シャワー?」


 一瞬、迩愛の胸に目がいく。


「だめ?」


「お前が構わないならいいけど……。一応言っておくけどここ、男の一人暮らしの部屋だぞ?」


「え、知ってるよ?」


 気にも留めていない様子だ。


 すでに俺の頭の中では、こいつが裸でシャワーを浴びているシーンが浮かび上がっている。


 おっぱいのあたりなんて、かなり鮮明だ。さすがに一度触れただけのことはある。


 こういうのは、理性では止めようのない生理現象だ。


 男がそういうどうしようもない生物であることを、こいつは知らないのだろうか。


「あー……それならまぁ、ご勝手に」


 神に誓って覗いたりはしないが。


 その危機感の薄すさに、なぜかこっちが冷や冷やする。


「やった。じゃ、食べたらお借りするね、お風呂」


「おう。風呂場は廊下の右手の──……あ!」


「え!?」


 俺は昨晩から風呂を焚きっぱなしだったことを、今いきなり思い出した。

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