2.サバ缶 ②


 朝を迎えていた。


 白々とした光が部屋に差し込んでいる。


 目やにでパリパリになった眼をこすり、俺は再びその信じがたい光景に目を向けた。


「生きてたね」


 くすっと微笑する女子高生。……が、ベッドのそばでうーんと伸びをしている。


「…………な」


 何事だ。


 ごしごしとまた眼をこするが、女は消えない。


 恐る恐るそいつに手を伸ばすと、指先にザラっとした質感が伝わった。それは紛れもなくブレザーの感触だった。


 ぷよっ、と指先が押し返される。


(え……、『ぷよっ』?)


 なんだこの心地よい弾力は。


「手が早いね、お兄さん」


「え? ……っ、あ、いや、これは」


 俺の手は、女子高生の胸に埋もれていた。


 なんてこった。


 こんな分厚い生地の上からでも、しっかりと"おっぱい"を感じることができるなんて。


 でけぇ……。


 胸のボタンは引っ張られているし、下パイに当たる部分は影が落ちて立体的だ。


 ぶにゅっと手を差し込んだまま、まじまじと観察していると。


「こういうのは、夜にやることだと思う」


 そう言って女子高生は、俺の手にそっと自分の手を重ねた。


 その手は雪のように冷たく、俺は慌てて手を引っ込める。


「それとも朝派なのかな?」


「な、なにが」


「だいぶ元気っぽいけど」


 女の目が止まった先に、俺は視線を落とす。


 ジーパンのまま寝ていていよかったと心底思う。多少こんもりしているが、寝間着ではこんなもので済まない。


「…………こいつの事は気にするな」


 俺はそばにあったタオルケットをそっとたぐり寄せた。




 小悪魔──女の整った容姿を見て、そんな言葉が浮かんだ。


 我儘そうな猫顔。それに、気も強そうだ。美人ではあるが、何者かは分からない。


 俺は気を引き締める。


「え、何してんの……? ここ俺ン家だけど」


「そうかな? 私にはマンションに見えるけど」


 そりゃそうだが。


 こいつは馬鹿なのだろうか。それとも俺を言葉の迷宮へいざなおうとしているんだろうか。


 というかこいつの目的は何なんだ。


 それ以前に、誰だこいつ。


 ブレザーにスカート、紺のハイソックス。


 女の装いからは『女子高生』以外の情報が見えてこない。


(俺が起きても逃げない、ということは泥棒ではないよな……)


 まぁ取られて困るようなもんなんて、そもそも置いていないのだが。


 猫のために部屋を開けっ放しで外出できるくらいだ。


 そんな高価なものは、とっくに売るか預けるかしてある。


「あれ……、そういや猫がいねえ」


 部屋を見渡すが、少なくとも目の届く範囲には見当たらない。


 寝ている間に出て行ったのだろうか。


 いなくなるのは勝手だが、どこかに隠れて悪さをしていたら堪ったもんじゃない。


「ねこ?」


「お前見なかった? ニャーニャーなく黒い生物」


「……あぁ、白木か」


「シラキ?」


「うん。あれは、あたしの移し身だよ」


 女子高生は平然と言った。


「う、……移し身?」


 俺の脳裏に、今朝みた夢が蘇る。猫。変身。女子高生。そこまで考えて、


(いやいやいや。そんなわけねえだろ……!)


 俺はかぶりを振る。


 さっきのは、あれだ。眠りながら猫の声か何かを聞いたのだろう。


 それが昔みた映画のワンシーンを想起させた──それだけのことだ。


 あんなもんはただの夢だ。


 猫が女子高生に化けるなんて事、あってたまるか。




「お兄さん、白木を飼ってたんですよね?」


 女子高生は、急に敬語を取り入れて話した。


 社会人の俺にはそのちぐはぐな感じが、物すごく気になる。


 いっそタメ口で統一すれば、と言いたくなる。


「だからシラキって何だよ……。猫のことか?」


 ふと、『大家の差し金』説が頭に浮かぶ。


 この娘は大家の親戚か何かで、誘導尋問によって俺が猫を飼っていることを吐かせようとしている。まんまと敷金をせしめて家賃を釣り上げようというはらか。


「ウチは猫は飼ってないぞ」


「嘘。だってシャワーも入れてくれたし、ご飯も与えてくれたし、宿まで提供してくれてるじゃん」


「なんで知ってんだよ……」


「今だって、ほら。白木のために玄関を開けてくれてますよね」


「……あぁ、あれか」


 俺は寝起きで重い身体を起こし、のそのそ玄関へ向かう。


「おら。閉めたぞ。うちは、猫は飼ってない」


「へんな理屈」


 女子高生は笑いながら膝立ちになり、制服のスカートの裾を伸ばした。背筋が伸びて、胸が強調される。やっぱりデカい。


 それから女は立ち上がり、


「よっこいしょ」


 またベッドに座って俺の方を向いた。


「白木は私だし、私は白木だから、お兄さん。私もここに居ていいってことにならない?」


「お前の理屈のほうが変だぞ」


「そうかな」


 女子高生はずいっと片眉を上げる。


 俺は居室に戻りながら、ついでにキッチンの奥やトイレの隅に視線を走らす。


 猫はどうやら、本当にいないみたいだ。




「それで、お前は誰なんだ」


 俺は座椅子を女子高生のほうに向けて腰を下ろし、いかめしく腕を組んだ。


 女子高生は、整った容姿を悩ましく歪める。


「誰って……それけっこう難しい質問……。名前をいえばいい?」


「名前もそうだが、住所とかそのへんの情報」


「名前は……」


 女子高生は少しためらってから答えた。


「ニャー」


「ふざけてんのか」


「違うよ。ニア。しんにょうに、を書いて、さいごに『愛』。それで、ニア」


 こんな字、と言って女子高生は、指で空中におそらく『尓』という字を書いた。


迩愛にあ──ねぇ……」


 嘘をつくにしては、パッと出てこない漢字だろう。まぁ、昔から使っている偽名という可能性もないではないが。


「苗字は? それと、家はどこだ? どこに住んでるんだ?」


「苗字は、……ないよ」


「ない訳あるか」


「ないってば。だって、野良猫だもん」


 女子高生──迩愛は得意気に話す。


 俺は渋い顔になる。迩愛は気まずげに目をそらして苦笑した。


「あはは……じゃぁ、『キッサカ』で。『近い』に坂道の『坂』」


「『じゃぁ』って何だよ……名乗るときにつかう言葉じゃねえだろ……」


 俺は質問を重ねる。


「まぁいいや。住所は?」


「ない。野良」


「あっそう…………」


 俺は脱力した。




 まぁ十中八九、家出だろう。


 だから身元を隠したがる。家に帰されたくないのだ。


(こんな巨乳の美人にも悩みなんてあるんだな……)


 ぱっちり開いた迩愛の大きな眼と視線がぶつかる。


「なに?」


「別に……」


 俺はそっと目を逸らした。


 『小悪魔』という第一印象は、いつの間にか俺の中で薄れていた。


 気が強そうに見えたが意外と温厚だし、話し方もどこかつたない。


 それに笑うと、ものやわらかい印象になる。


 愛嬌はある。人当たりは良い方だろう。


 それにこの器量である。学校では目立つ存在に違いない。


(家庭で問題を抱えてるタイプか……)


 根拠はないが、そう思った。




「警察いくか」


「……え?」


 迩愛の眉間に皺が寄る。身体を強張らせる。緊張している。


 俺は重い息を吐いた。


「……そんな怖い顔するなよ。訊いてみただけだ。お前を警察に連れてく勇気は俺にはねえ」


「なんだよ……」


 迩愛はその表情のまま、肩を落とした。心なしか恨みの籠った眼をしている。


「お前は実感ないんだろうけど……。今この状況でお前は俺よりもかなり優位な立場にあるんだぞ」


 迩愛はわずかに首を傾げる。


 解んねえか。


 家出JKを連れてきました、はいそうですか──で済むはずがないのだ。


 まぁ根掘り葉掘り聞かれるだろう。


 そして俺は間違いなく疑われることになる。


『アンタこの女子高生に手を出してないだろうね』


 例えこいつが擁護してくれようと、そういう疑いは簡単には晴れるものではない。


 というかむしろ、逆恨みしたこいつにあることないこと吹聴される可能性のほうが高い。


 多分警察はそっちを信じる。


 冤罪えんざいだったと証明できる頃には、俺は職を失っているだろう。




「……はぁ……厄介だ」


 俺は天井を仰いだ。


 しがないサラリーマンには生きづらい世の中なのである。


 迩愛は相変わらずベッドに座ったまま、どこか心細げに俺を見ている。拳はベッドのシーツを握り締めていた。


 それこそ連れてこられた野良猫のようだった。


(家出……なぁ……)


 どこか気の毒にさえ思える。


 たぶんこの心境を『ほだされた』というのだろう。


「……わかった。とりあえずは居てもいい。言っとくが、不本意中の不本意だ」


「……ほんと?」


 見るまに迩愛の表情が晴れやかになる。


 不本意ではある。


 しかし内心、俺も自分の言葉にホッとしていた。


 質問を浴びせることに疲れたのだ。なにせ俺は寝起きだった。


 時計を見ると、驚いたことにまだ七時前だ。


 朝っぱらから取り組む問題としては重すぎる。


「でもそのうち帰れよ。ずっといられちゃ俺も困る」


「えー。そのうちっていつさ」


「流せよそこは。そのうちはそのうちだ。『そのうち』自体を、そのうち決める」


 迩愛は苦笑した。


「何それ。投げやりすぎ」


「いや、お前と話しててもらちあかねえんだもん」


 ふいに訪れた和やかなムードに、胃のあたりが軽くなる。




「この問題は、一旦休止だ。俺は飯にする」


 そういえば晩飯も食ってなかったか。


 普段は朝飯を抜いているが、さすがに腹が減っていた。


 俺が座椅子から立つと、迩愛は視線はあちこち向けて、みるからにそわそわしはじめる。


「あー……。お前も食う?」


 俺は返事を待たずキッチンへ向かう。


「……いいの?」


 そんな声を背中越しに聞いたが、スルーした。


「今あるのは、そうだな……」


 口に入れられそうなものは限られていた。


「コーヒーかサバ缶、どっちがいい?」


「え。サバ缶」


 女子高生──近坂迩愛は、真顔でそう言った。

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