2.サバ缶 ①


 ──真新しい匂いがする。


 帰ってくる度にそう思う。


 あと、すこし……けもの臭い。


「ナァオ」


 居室の扉に体をり付けながら、黒猫は軽やかな足取りで近づいてくる。


 ただいま、と言いそうになり、慌てて口をつぐむ。


「まだいたのか」


 猫は俺の股の下をくぐり、玄関扉の前で伸びをして、鏡餅のように腰をおろす。


「ニアーオ」


 何度目だこれ。


「ニアーオ」


 俺はドアを開け、すこしの隙間をつくって古い靴を挟んだ。


「これで文句ねえな」


 と、猫はするりと隙間を通ってウチから出て行った。


 出てくんかい、と喉元まで上がってきた言葉をギリギリで吞み込む。


「……わっかんねえやつ」


 風呂の自動給湯を押して、俺はベッドに仰向けに倒れこんだ。


 テレビでも点けるか。


 と考えたが、止めた。聞きたくもない音を耳に流し込むという行為を想像しただけで疲れた。


「…………」


 特に何をした訳でもないのに、体はヘトヘトだった。まるで丸一日歩きづめたかのようにダルい。


 カーテンを閉めるのさえかったるい。


 レースカーテンの向こうは暗かった。


(まだ夕方じゃなかったか……)


 飯、どうしよう。風呂めんどうだな。洗濯もしてねえ。


 次第に何もかもどうでもよくなってきて目を瞑った。


 吸い込まれるような感覚とともに、俺は眠りに落ちた。






 ニアーオ






 何かが聞こえる。


 ここよりもっと遠くで、深い残響を帯びた声がした。


 何と言っているのか、俺のいる所からでは判らなかった。


 俺は身体を持ち上げようとするが、ぴくりとも動かない。金縛りにあったかのようだった。


 薄く目を開くと、視界の隙間に、猫がいる──ような気がした。


(……いや違うか……?)


 猫だと思ったその黒い塊は、もこもこと緩慢に形を変えていく。そういった光景は何かの映画で見覚えがあった。


 変身術か。ハリーポッターの映画のワンシーンだ。


 尻尾がだんだん短くなり、頭が風船のように膨らんでいく。耳のシルエットと同化した。


 体も厚みを持ち、伸びて膨らみ、胸が隆起する。


 それが女性ひとかたちだと判るまで、大した時間はかからなかった。


 そして。




 おーい




 呼びかけられる。


 気の強そうな声。口調は優しげだが、芯があり落ち着いている。


 女は、ぺたんと床に座り込み、傍で横たわる俺を見下ろしている。


 さらさらと髪が揺れている。


 千紗なのか?


 言葉は声にならなかった。口が開いただけで、声が喉から出てこない。


 単色だったシルエットに色が帯びる。


 制服を着ていた。


 俺はそれに見覚えがあった。たまに見かける都内の高校のものだ。


 千紗じゃない。千紗は大学進学で上京してきた口だし、第一、俺は千紗の高校時代を知らない。


 世界が明るみ始める。


 女子高生の姿は、より強く姿を現わす。


 俺は知らない女子高生と見つめ合っていた。


 視界の端に、ぼんやりと本棚が映る。白い壁紙、吊るされた衣類。木目のクローゼット。テーブルや座椅子に、ノートパソコン。脱ぎ散らかした靴下とかマフラーとか。


 思いっきり見覚えがある。


 ここは俺の部屋だ。




 というか、俺はいつの間にか夢から覚醒していた。


 そして女子高生を凝視している。


 その唇が、ちいさく動く。






「死んでるの?」






 ──俺は、身体を跳ね起こした。

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