1.離婚 ②


 東京とはいいつつ、都心から外れたこの町は山に囲まれている。


 高いマンションにのぼれば富士山も見えるし、反対の方角にある新宿のビル群は指先で摘めそうなほど小さい。


 家賃も手頃で、空気も澄んでいる。


 初めてこの町に来たときの印象は、『住みやすそう』だった。


 職場が近い、というのが決め手で、俺は今のマンションを即決した。




 駅前の通りはイルミネーションで彩られはじめていた。


 すれ違う男の大半が、ジャスミンを横目で追いかける。


 その度に俺は軽い優越感に浸る。


「ほんまに元気やったんやな」


 唐突にジャスミンが言った。少し声の通りが悪いのは、口元がマフラーで覆われているからだ。


「俺、元気ないなんて言ったか?」


 ここ最近のラインでのやり取りを思い返してみる。


 確かにバタバタしていた時期はあったが、それ以外はふつうに接していたと思う。


「言ってへんけど普通しょぼくれてるやろ。まだ二週間やで、──千紗ちさちゃんが、おらんくなってから」


 唐突に放り込まれた『千紗』という単語に、俺はぎくりとして歩みを止める。


 一瞬の思考停止を悟られないよう、俺はぎこちなく、また歩き始める。




 千紗と離婚をしたのは、正確には16日前だ。


 だから、正しく言うのなら今日で"三週間目"ということになる。


 何をもって離婚というのか、今の俺はまだよく解っていない。


 千紗が出て行った日なのか、書類を提出した日なのか。


 16日前に千紗は最後の荷物を引き取りに来た。そして、


『今までありがとう。それから、……ごめんなさい』


 そんなことを言った。さようなら、とは言われなかった。


 一緒に過ごしてきた『今まで』を、千紗は『ごめんなさい』で締め括った。


 それは千紗なりの「さようなら」だったのだと、今にして思う。




 俺が返答に窮していると、ジャスミンは気を使ってか話題を変えた。


「猫はあれでよかったん?」


 そう言って苦笑する。


「いいんだよあれで」


 さっき部屋を出るときのことだ。


 てっきり俺たちと一緒に出てくるものだと思っていた猫は、なぜか居室から離れなかった。


 あれだけ外に出たそうな素振りを見せておいて、いざ外に呼んだら無視をされた。


 そのくせ玄関を閉めたらにゃーにゃー鳴いた。


 だからドアに隙間をつくってきた。


 そこからそっと顔を覗かせて、猫は俺とジャスミンの背中をじっと見送った。


「……猫の気持ちはよく解らねえ」


 駅の構内に入る。俺ははなをすすった。


「なんで名前つけへんのよ」


「別に飼ってるわけじゃないからな。見ただろ。勝手に居座ってんだよ」


 切符の券売機に人が集まっている。でかい路線図を見上げてる人が何人かいて、あとは左に右に、と人が行き交っている。


 夕方の五時前だが、それなりに人けがあった。


「せやけど自分で拾ってきたんと違うん?」


「猫を? ちげえよ。付いて来たんだよ。仕事の帰りに、コンビニの袋をぶら提げてたら」


「飼い猫かなぁ」


「野良だな、あれは。最初見たとき泥だらけだったし」


「え、ほんならあんたがシャワー入れたったん?」


 ジャスミンは目を丸くした。


「そうだけど? だって嫌だろ、汚れた体で部屋の中歩きまわられちゃ」


「……飼ってるやんそれ」


「いや、だから──」


「秋田さぁ」


 ジャスミンは券売機のタッチパネルに触れながら、呆れたように言った。




「あんたほんまは寂しいんと違う?」




「……え?」


 俺は間抜けな声を出してその横顔を見た。


 ジャスミンは横目で見返した。


「そ、」


 二の句が継げない。


 図星、なのか?


(いや、そんなわけ……)


 猫と暮らしているのは不本意だ。奴を黙らせるために、なし崩しに出来上がったのが、あのスタイルだった。


 それ以上のことは考えたことがなかった。


 鳴くから開ける。汚いから洗う。おとなしくさせたいから缶詰をやる。


 あの黒猫から享受したものなど、何一つない。


 面倒くさいし、はやく出て行けとも思う。


 でも。


 いざ出て行ったとしたら、どうなんだ。何もなかったかのように前の生活に戻れるのか。


 試しに想像してみるが、


 ──いや、戻れるだろ。そんなの、普通に。


 俺は思考を一蹴いっしゅうする。


「考えすぎだ」


 ジャスミンは目を瞑り、溜息を吐いた。鼻先までマフラーに沈んでいく。


「……あっそ」


「…………おう」


 出てきた切符を取り、ジャスミンは「ほんなら行くわ」と言った。


「ありがと、送ってくれて。それと、」


 足を止める。


「さっき部屋であんたのこと誘ったやん。あれ、別にほんまに襲っても良かったんやで」


 それは、冗談だろうか。


「いや、それは」


「あはは。一生の機会を棒にふったな。じゃぁね」


 ジャスミンは特に名残惜しい様子も見せずに、淡々として改札の向こうへ消えていった。


「……寂しい、か」


 あんな猫でも、俺の気持ちに潤いを与えていたりするんだろうか。


 よく解らん。


 俺はきびすを返して駅を出た。

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