◆ 猫をひろったこと ◆

1.離婚 ①


 猫を拾った。


 この状況は──つまり、そういうことになるんだろうか。


「ニァーォ」


 履かなくなった靴をドアストッパー代わりにして、玄関に僅かな隙間をつくった。


 その、中とも外とも呼べない微妙な空間にちょこんと座り、ふたつの黄色い目玉で俺を見る。


「ナァー」


 物言いたげに鳴く。


 ご主人、外に行かぬか──だろうか。


「行かねえよ」


 というか"ご主人"でもねえ。


 アイツは勝手に付いて来て、勝手に居座った。玄関を閉めるとにゃんにゃんうるさいから、ああしてをつくってやっているだけだ。


「ナァ」


 猫は、今度は催促するかのように短く鳴いた。


「行かねえっつうのに……」


 俺はテレビに視線を戻す。熱々のコーヒーカップを持ち上げ、ふと、また猫を見た。


 よく見ると僅かに距離を詰めてきている。


「呪いの人形かよ」


 意図せず、声に微笑が混じる。ナチュラルに猫と喋っている自分が可笑おかしかった。


 ──猫が喋るわけねえのに。


 そもそも体の構造が違う。仕組みが異なる。


 百歩譲って人間の言葉が解っていたとしても、返事が返ってくるはずはないのだ。


「なぁ、」


 また鳴く。心なしか猫にしては野太い声。


「だから行かねえってば」


 カップを傾け、目を瞑る。香ばしい豆の香りを堪能してから、俺はやっとコーヒーを、


「そんなことって。ホンマは行きたいんやろ?」


「ぶふッッッッッッ!!!??」


 口と鼻から勢いよく噴き出した。






「げほっ……げほっ……」


「ははっ。アホや」


「お前なぁ…………っ!」


 口を拭いながら振り向く。ベッドであぐらを掻く、やたらとスタイルのいい女。


 健康そうな浅黒い肌は大学時代からちっとも変わらない。


 すっかり忘れていたが、今日はジャスミン──こと日永ひなが茉莉まつりが俺の住むマンションに遊びにきていた。


「はよ拭き。シミになるで」


 ジャスミンは、窓辺に吊るしていたコートからハンカチを引っぱり出し、俺に投げつける。


「ちっ……偉そうに……。半分はお前のせいだぞこれ」


 俺は四つん這いになり、絨毯じゅうたんにできた黒いシミにハンカチを押し付ける。


「はぁ、なんでなん?」


「……俺の心とシンクロする発言しやがって」


「意味わからん。ウチは気晴らしにみんなで旅行いこって言ってるだけやん」


「だーから、行かねえっての。俺は平素仕事だ。休みの日は休むんだ。遊び呆けていられた学生の頃とは──」


「あ、ほらミサイル飛んで来たで」


「は?」


 ジャスミンの視線につられて玄関を見る。


 とっとっとっと……と、猫が居室の戸口まで移動してきている。それをミサイルと呼ぶにはかなりトロい。が、


「あぁぁ、おいっ! どっ、土足厳禁だっ!」


「ナァア」


 猫は甘えるように俺の腕にからだをりつけ、


 ぐりん、


 と、ハンカチの上にひっくり返った。くそ邪魔だった。


「あ、メスネコやん。秋田って、ほんま、エ・ロ・め・が・ね」


 どこか色っぽく言うジャスミンの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「……いや、俺メガネかけてねえから」


 大学時代はしていたが、それは伊達だてだ。


「しょーもないこと言ってないで、やることやろ」


「や、やることって何だよ」


 嫌な予感がして、俺はツバを飲んだ。


 ジャスミンはゆっくりと、見せつけるように脚を崩す。


 シーツとストッキングのきぬが擦れる。


「襲ってもええで」


 人差し指をあま噛みしながら、ジャスミンは舌足らずな声で俺を誘惑しはじめた。


 どきりとする。


 学生時代、何度この手で揶揄からかわれたか。未だにこのノリには慣れない。


「おい、俺のベッドで発情するな」


 俺は努めて冷静に返答する。


 事故的にまくり上がってしまっているスカートを直視しないよう、慎重に目をそらした。


 俺はせっせとハンカチの手を動かす。猫はその動きに興味津々だった。


「つまらん奴。せっかく人が慰めたろ思って身体はってんのに」


 ジャスミンはまたベッドであぐらを掻いた。


「あ? 何で俺が慰められなきゃならないんだよ」


「……それ本気で言ってるん?」


「……いや悪い。マジでわからん」


「ハァァ……」


 ジャスミンは重い息を吐いた。アホらし、とも呟く。


「まぁええわ。秋田のことはそこのチビちゃんに託す」


 そう言ってジャスミンは黒猫を見た。


 それから億劫そうに立ち上がり、吊るしていたコートを羽織はおった。


「え、なにもう帰んの? もうちょっといればいいだろ、明日休みなんだから」


 今日は日曜で、明日は祝日。


 俺の職場はカレンダー通りに休みが取れるから、今日は三連休の真ん中だった。


「ウチは仕事やし。それに元々長居するつもりやなかったから」


 顔見に来ただけ、と言ってジャスミンはにっと笑う。笑うと八重歯がけて無邪気になる。


 俺はその顔に弱い。


 ほだされるというか、何をされても許す気になってしまうのだ。


「……駅まで送るよ。徒歩だけど」


「うん、甘えとく。東京の道はよぉわからん」 

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