集中豪雨の村で(4000字版)
旗尾 鉄
第1話
濃い灰色の空から、土砂降りの雨が、丸三日以上も続いていた。
滝のような雨。バケツをひっくり返したような雨。両方の表現を合わせても足りないほどの集中豪雨である。不安と恐怖を感じる雨の光景だ。
まだ昼過ぎだというのに、日暮れ時のように暗い。
「うわあ、相変わらず酷いっすねえ」
俺の隣まで歩いてくると、ガラス製の玄関扉の向こうを眺める。
「うーん。とうぶん、止む気配なさそうだなあ」
俺、
ここは、村の避難所に指定されている村立小学校の正面玄関である。
ガラス扉の足元には、念のため土嚢が積まれていた。
校舎よりも低い位置にあるグラウンドは、完全に水没している。水深は一メートル近くありそうだ。
この村は盆地で毎年のように水害が起きるが、今回は深刻だ。
村全域が浸水しているらしい。この村に単身赴任して六年目になるが、避難は初めてだ。
避難者の多くは高齢者である。
三十九歳の俺より若い大人は、たまたま帰省していた大学生の鬼見坂君、その他ほんの二、三名しかいない。
年齢的にちょうどいい、というので、俺はこの避難所の世話役みたいなことをやらされているのである。
「じゃあオレ、いったん中に戻りますね」
鬼見坂君はそう言うと、丸っこい童顔をくしゃっとさせて笑った。
村会議員をつとめている祖父に頼まれて、避難所の手伝いに来たという。
人懐こい性格の好青年で、俺は好印象を持っていた。
午後三時を過ぎたころ、ようやく雨足が弱まってきた。
俺と鬼見坂君は、駐在所の
柴岡さんは五十代、体はあまり大きくなく、温厚な感じの人だ。
この村の出身でもあり、村のお巡りさんとして住民の受けがいい。
俺たち三人は、背中に村の名前が記されている雨ガッパを着て、船外機つきの防災用ゴムボートに乗り込んだ。
鬼見坂君は、ちょっと楽しそうだ。
船外機を起動すると、ボートはゆっくりと進みはじめた。
村の様子は、とうぜんだが普段の景色とは一変していた。
道路や田畑は完全に水没している。
鬼見坂家のような高台にある家を除けば、民家の大半は床上浸水の状態だった。
そんな中を、ボートが進んでいく。
「こちら駐在でーす! 誰かいませんかー!」
柴岡さんがハンドスピーカーで声をかけるが、返事はない。
どうやら、取り残された住民はいないようだった。
「じゃあ最後に、
「えー。オレ苦手なんだけどなあ」
洲手塚は、古い共同墓地があった場所である。昔は捨塚と書いたらしく、疫病や死罪などの『良くない死に方』をした村人の遺体を捨てた、などと伝わっている。
怪談や肝試しの定番なのだ。
雨は小止みになっていた。
夕暮れ時の洲手塚は、暗くて静かだった。
柴岡さんがスピーカーで呼びかけるも、なんの反応もない。
「そろそろ、切り上げるか」
柴岡さんがそう言ったときである。
「柴岡さん、あれ!」
鬼見坂君が、前方を指差した。
前方三十メートルくらいのところに、なにかが浮いているように見える。
柴岡さんが懐中電灯を向ける。
その瞬間、俺はぎくりとした。
それは、人間の後頭部だった。
俺たちに背を向けて、肩から上を水面に出しているのだ。
老女のようだった。
歳を重ねた髪は灰色だ。現代風にいえばグレイヘア。日本髪を結っていたようだが、崩れてボサボサになっている。
水面から出ている肩には、泥水で薄茶色に汚れたの衣類が見えた。白い
「おおいっ! 大丈夫ですか! いま助けますからね!」
被災者だと思った柴岡さんが、緊迫した声をかける。
だが俺は、なんともいえない嫌ななにかを感じた。
「ちょ、ちょっと待って、様子がおかし……」
俺が言いかけたとき、とつぜん、老女がこちらを振り向いた。
……首だけを回して。
肩から下は向こう向き、首だけを俺たちのほうへ回したのだ。
老女は俺たちを見た。
やせこけ、皺だらけの、それでいて眼だけがぎらぎらと光っている。
般若のごとき恐ろしい形相だった。
老女の視線は鬼見坂君を捉え、金切り声をあげた。
「鬼見坂の次男坊! この恨み、晴らしてくれる!」
老女は今度は肩から下だけを回し、こちらに向き直った。
バタフライのような泳ぎ方で、水しぶきをあげて迫ってくる。けたたましく笑い声を上げながら。
「うわああっ!」
鬼見坂君が卒倒した。全身を震わせている。
「山崎さん、エンジン! 早く!」
柴岡さんがオールに飛びつき、ボートの向きを変える。
後ろを振り返る勇気はなかった。
老女の狂ったような笑い声が、しだいに遠くなっていく。
俺たちはひたすら追いつかれないことを願いながら、やっとの思いで避難所へと辿り着いたのだった。
鬼見坂君は、高熱を発していた。
元看護師だった柴岡さんの奥さんが付き添ってくれる。
俺と柴岡さんは、部屋の一角にぐったりとへたり込んだ。気がつくと、全身にべっとりと汗をかいている。隣に座った柴岡さんは、顔面蒼白だった。
「……山崎さん。あれ、要救助者じゃないよな?」
「絶対違いますよ。というか、生きてる人間だったらあんな首の回り方しませんよ。あれって、あれは……」
「うん、わかった。わかった。この話は、内密に、誰にも言わないで」
柴岡さんは、ペットボトルの水をがぶがぶと飲んだ。
「柴岡さん、うちの婆ちゃんが話があるっていうんだ。いいかな?」
声をかけてきたのは、
九宮さんのいう『婆ちゃん』という方は、いわゆる『そういうのが視える人』なのだそうである。
九宮のお婆ちゃんは、かくしゃくとしていた。開口一番に言う。
「鬼見坂のお孫さん、たちの良くないのがくっついてるね」
「やっぱり、そうですか」
「明日の朝になれば、命を取られることはないだろう。今夜は戸締りをしっかりして、中に入れないことだね。むりやり押し入ってはこれないけど、内から戸を開けると入ってくるよ」
俺はこの手の話を信じない主義だったのだが、そんな主義など簡単に撤回した。
目のあたりにした恐怖には勝てっこない。
俺と柴岡さんは、すべての出入り口を念入りに施錠したのだった。
翌朝。
俺と柴岡さんは、おそるおそる一階へ降りてみた。
窓から、朝日が差し込んでくる。
この明るさが、昨日の恐怖をただの悪い夢に変えてくれる。俺はそう感じた。柴岡さんも同じ思いだっただろう。
だが、そんな俺たちの思いは打ち砕かれた。
正面玄関のガラス扉には、泥水でスタンプされた手形が無数に残されていたのだった。
あの集中豪雨から、二か月ちかくが過ぎた。
鬼見坂君の高熱は、三日後にようやく下がった。精神的ショックが大きく、いまは村を離れている。
鬼見坂君の祖父の肝いりで、来週のお盆に合わせて洲手塚の供養祭をするという。
柴岡さんが訪ねてきたのは、そんなある日のことだった。
俺たちは河川敷のベンチに腰掛け、缶コーヒーを飲みながら話した。
河川敷の簡易ゲートボール場は、あの水害のあと整備がされておらず、草ぼうぼうだ。
八月の夕陽が、川面をオレンジ色に照らしていた。
ひとしきり雑談したあと、柴岡さんは本題を切り出した。
「あの日のあのことなんだけどね。山崎さんは当事者だったし、隠しておくべきじゃないと思うんだ」
柴岡さんはそう前置きしてから、村の暗い過去を話しはじめた。
「鬼見坂の家は昔から代々の庄屋で、村の絶対権力者だったんだ。もう百年以上も前、この村で『村八分』が行われたらしい」
俺は頷いた。
当時の『ムラ社会』において、周囲の村人との関係を絶たれるのは、現代では想像できないほど過酷な制裁だったという。
「村八分されたのは、一人暮らしの婆さんだったらしい。素行の悪かった当時の鬼見坂家の次男坊に、面と向かって意見したそうだ。次男坊はそれを逆恨みして村八分をけしかけた。酷い話だよ」
陰惨な話に、俺の心はざわついた。
柴岡さんはコーヒーを一口すする。
「そのうち、その婆さんの遺体が発見された。洲手塚でね。みんなうすうす、次男坊の仕業だとわかっていた。だが結局もみ消されて、事故にされた」
「その後すぐに、問題の次男坊が原因不明の病で死亡した。高熱が続いて、苦しみ悶えて死んだそうだ。さらに二十年ほど経って、鬼見坂の当主が代替わりしたころ、その新当主の次男が事故で酷い死に方をした。そんなことが三代続けて起きたため、鬼見坂の次男坊は祟られる、なんて噂が広まったそうだよ」
背筋が寒くなった。
胸の中がドロドロして、飲んだコーヒーを吐き出しそうになる。やっとの思いで、俺は口を開いた。
「それじゃあ、良介君は……」
「九宮さんを信じるなら、大丈夫だろう。供養祭もやるからね」
……そうだろうか?
……百年以上も続く恨みが、たった一度の供養祭で消えるものだろうか?
俺の思考を見抜いたかのように、柴岡さんは付け加えた。
「ま、俺がそう思いたいだけなんだけどね。俺は警察官だからさ、本当は祟りがどうとか言っちゃいけない立場なんだよ。ただ、その婆さん、この村へ嫁いでくる以前は海女さんで、水泳が達者だったそうなんだ。そこまでつじつまが合っちゃうと、どうもねえ……」
俺は、口から出かかった疑問を飲みこんだ。
この人は、俺とは違うのだ。
柴岡さんは、これからも、この村で暮らしていく。
迷信、祟り、因習。そのほか、村のいろんなしがらみと、折り合いをつけて生きていかなければならないのだ。
早ければ数か月後には村を去る俺が、軽々しく口を挟むべきではない。
「……おっと、もうこんな時間だ。そろそろ帰るよ。話、聞いてくれてありがとうな。一人で抱えてるのも、ちょっと辛くてね」
俺たちは沈みかけた夕陽と川に背を向けて、帰路についた。
堤防の斜面に長く伸びた自分の影を踏むようにして、土手を登る。
パシャン。
俺たちの後ろで、水の跳ねる音が聞こえたような気がした。
集中豪雨の村で(4000字版) 旗尾 鉄 @hatao_iron
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