第3話 講座を受けるまでのこれまでの人生

  私は12歳の時、ASDの診断をもらい、その時の知能検査で言語理解が138という数字をもらった。自分でも言うのも烏滸がましいかもしれないが、数値だけを見ると、昨今話題になっているギフテッドに当たる、と当時の担当医から指摘され、担当医も驚くような数値だった。

 しかし、2006年当時はギフテッドの概念もなく、適切な支援を受けられなかった。担当医から『これからとても苦労するよ』と言われ、残念ながらその予想は当たった。

私は15歳から23歳まで閉鎖病棟で17回も入退院を繰り返し、高校時代はほとんど学校に行けず、大学進学も諦めざるを得なかった。

 閉鎖病棟では独学で勉強をやるしかなく、院内学級制度もなかった。閉鎖病棟では何もしていないのに保護室へ監禁され、そこで男性看護師から性的被害も受けた。17歳の誕生日も病棟で迎え、自殺未遂を繰り返した。私は当時、進学校に所属していたのですが、病状悪化を理由に転科され、後に転校を強要された。

 高校一年の時受けた模試で、担任から『このまま行けば東大や京大だって夢じゃない』と言われたが、病状が悪化した私に、『女子高校生としての死体の価値がないから死ぬならうちを辞めてから死んでくれ』と先生から言われ、その進学校を私は転校するしかなかった。

 結局、高校時代は転科を含めて高校の教室を5回変わった。転校先の高校は不登校支援を打ち出す高校だったが、高校の勉強さえもさせてもらえず、単位を取るためにみんなでゲームセンターへ行くような授業スタイルだった。まともに勉強させてもらえないなか、一度だけ受けた河合塾の模試ではほとんど教わっていないのに現代文の成績が、偏差値78を越したこともあった。

 しかし、その学校で自殺者が出て、私は学校側から退学を強要された。高校中退した17歳のとき、解離性障害の診断を受けた。そこから約1年間、閉鎖病棟で過ごした。

 病棟でも看護師さんから罵詈雑言を言われ、滝山病院のような虐待も受けた。もちろん、素晴らしい看護師さんもいましたが、中には虐待とも取れるような発言、暴行をする看護師さんもいた。

 18歳のとき、病状が少しは収まった私は通信制高校に入り直し、1年で卒業できた。その時、お世話になった高校がNHK学園だった。そうなのでNHKは学校から見放された私にとって、救いの手を伸ばしてくれた存在だった。今でもNHKには感謝してもし尽くせない。ボロボロになった私が唯一打ち込んでいたのが小説などの文章を書くことだった。

 26歳のとき、九州芸術祭文学賞で次席受賞と『思考の整理学エッセイ賞』受賞できたのは、あの頃、どんなにつらい環境下にあっても、希望を失わず、閉鎖病棟でも多くの名著を読み、手書きで文章を書いたからだと思っている。



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