会議室にて

津川肇

会議室にて

 飯野さんは、仕事ができない。普通の人なら一時間で終わることも、彼女に任せれば三時間はかかる。調べればすぐに分かるようなことを、何度も質問する。そうしてやっと終えた彼女の仕事は、いつも誤字や脱字に溢れている。その尻拭いをするのはいつも俺だ。


「関口さん、資料、なんか足りないみたいです」

 会議室で、飯野さんが呟いた。その横顔は長い黒髪に隠れて見えないが、彼女はまたいつものように眉を下げているのだろう。

「え、多めに刷っておいてって言ったよね?」

「だって、参加する人数は決まってるんだから、ちょうどあればいいじゃないですか」

 彼女が口を尖らせながらこちらを向く。低い長机についた両手に体重をかけ、少し腰を突き出し、足は軽く前後に広げている。ミスをした人間とは思えない態度だったが、すらりと長い手足のおかげで、その姿は画になるほど美しい。きっと、こんな仕事よりモデルに適性があるに違いない。

 会議の資料は事前にアジェンダで共有してあるとはいえ、こんなミスがあっては俺の顔が立たない。頭の固い上司は、活字の資料がなければ機嫌を損ねるに違いない。

「とにかく、今からコピーしてきて。俺はプロジェクターの準備しとくから」

「はあい」

 気の抜けた返事に反して、その背筋はぴんと伸びている。彼女を初めて見たときは、その凛としたいでたちに、優秀そうな派遣社員が入ってきたと勘違いしたくらいだ。軽やかな足取りで会議室を去る彼女の背中に「急ぎでな」と声を掛けた。


 翌週の彼女はさすがに学習したらしく、資料を多めに印刷してきた。それを一部ずつ丁寧に机に並べていく様は、ランウェイを歩くモデルが観客に優雅に手を振るようだ。こうして黙っていれば、彼女にはどこか人を惹きつける魅力があるように思う。珍しく彼女のミスがなかったおかげで、俺たちは予定より早めに会議の準備を終えた。

「飯野さん、モデルの方が向いてるんじゃないの」

 何となくそう言ってから、もしやこれはセクハラの類いに入るのだろうか、と俺は心配した。

「え、なんでですか?」

 彼女が手を止め、黒髪を耳にかける。その仕草は、髪を掬う指先の一本いっぽんまで計算されたように美しい。もし俺が画家なら、彼女の姿をスケッチしただろうし、もし俺が小説家なら、彼女が主人公の小説を書いただろう。

「いや、背が高くてすらっとしてるし、モデルなら資料を印刷し忘れる心配もないだろうし」

 適当に話題を流そうとして、俺はまた墓穴を掘る。こういう要らぬことを口に出してしまうのは俺の悪癖だ。

「やだ、嫌味なこと言わないでくださいよ」

 彼女は俺のセクハラじみた発言など気にしない様子で、ころころと笑った。それから、すうっと真剣な顔をして右手を高く上げると、足を交差させた。何の決めポーズだ? そう聞く前に、彼女が静かに言った。

「モデルには興味ないけど、実は、ダンサー目指してるんです」

 彼女は少し顎をくいと上げ、挑発的な視線を俺に向けた。その迫力に圧倒され、俺は言葉が出ない。すると、彼女は軽く息を吸い、突然踊り始めた。何というジャンルの踊りかは分からなかった。ただ、それが美しいということだけは分かる。しなやかに動く四肢。上体の動きに合わせ、艶やかに揺れる黒髪。熱を帯びたかと思えば次の瞬間、物憂げに変わる表情。その全てに俺は釘付けになる。窓から差しこむ西日は、まるで彼女を照らすスポットライトのようだ。ここが会議室だということも忘れ、俺は束の間、彼女の舞台に呑まれていた。


「どうでした?」

 そうはにかむ彼女は、姿勢とスタイルのよい、ただ少し仕事のできないいつもの彼女に戻っていた。

「……よかった、と思う。俺はダンスとか詳しくないけど、なんていうか、よかった」

 俺の口からは、つまらない感想しか出てこなかった。頭の中では、踊る彼女の美しさを表現するいくつもの言葉が浮かんでいたが、それを口にするのは躊躇われた。

「ありがとうございます」

 彼女は演者が客にするように、丁寧なお辞儀をしてみせた。

「関口さんは、なりたいものとかないんですか?」

 その問いかけに、言葉が詰まる。

「……俺にそんな大層な夢はないよ。この仕事に満足してる」

 彼女にはそう答えたが、俺は実のところ、自宅の隅に追いやられた小さなデスクを思い出していた。本棚に入りきらず、平積みにされた文庫本。アイデアのかけらをメモした付箋で分厚くなったノート。そして、書いては消してを繰り返し皺のついた原稿用紙。俺にも、かつては夢にしがみついていた日々があった。だがその日々は、彼女の踊る姿を見るまで、埃をかぶって忘れ去られていた。

 派遣社員の仮面を被り、ダンサーを目指す女の小説。それもいいかもしれない。

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会議室にて 津川肇 @suskhs

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