愛のしるし
津川肇
愛のしるし
私の恋愛は至って順調なはずだ。彼は学もないし、安定した職もないが、若くて正直な男だ。両親へ紹介するタイミングは掴めずにいたが、結婚後のたらればを二人で語り合うこともあった。今では彼専用になった空の助手席を見つめ、私は車を走らせた。
「――いやぁ、清純派女優として知られる彼女が、グラビアアイドルと熱愛報道とはねぇ。なんでも、グラビアの子の方は、肌を修整し忘れていた昔の写真から、異常性愛者じゃないかって疑われてたらしいですけどねぇ」
ねちねちとしたコメンテーターの声が耳に入り、私はラジオのチャンネルを変えた。これからデートだというのに、気分の悪い話だ。
仕事終わり、彼の職場まで迎えに行く。彼はいつも、運転のお礼にと私の分まで缶コーヒーを用意して待っている。今日はこの道、次はこの道と、ただ一時間車を走らせたわいのない会話をする。そして最後に彼の家まで送り届ける。アルバイトを三つ掛け持ちする彼と、新店舗のオープンに忙しい私。そんな仕事に追われる二人にとって、このドライブがささやかなデートだ。
「あれ、祥子さん、こんなところにほくろあったっけ」
彼を乗せてしばらくしてからだった。彼がそう言ったのは。
「やだ、どこ」
「ほらここ、左のほっぺ。ちょっと薄茶色の」
彼の人差し指が私の頬に触れる。今日会った他の人たちにも見られてしまったかもしれない。そう思うと、内臓がふわっと浮いた気がした。このほくろの存在だけは、誰にも知られたくはなかった。
「急に触らないでよ。運転中」
そう彼をたしなめる私の声は、かすかに震えていた。
「あ、照れてるんですか、お姉さん」
彼がわざと丁寧な口調で言う。いつもはかわいらしく感じるその小生意気な喋り方に、今は乗ってやれる元気がない。赤信号で左頬を確認すると、丁寧に塗り込んだはずのコンシーラーがいつの間にか剥がれて、小さな薄茶の点が露になっていた。
「ほくろのある祥子さんも、色気があって俺は好きだな」
私の沈んだ表情に気付いたのか、彼が呟いた。ちらりと横を見やると、彼はそのセリフが恥ずかしかったのか、慌てて顔を逸らした。その右頬に、小さな、ほくろ。彼は自分にも新たなほくろができていることに気付いていない。それが、わたしのほくろと同時期にできたものであることも、もちろん知らない。ニュースを見ない彼は、そのほくろの理由すら知らないのだろう。彼の周りにそれを非難する心無い人間がいなかったことだけが唯一の救いだ。
「……ありがとう」
私がやっとそう返した時、信号が青に変わった。時刻は午後六時。受付にはまだ間に合う。
彼に了承も取らず、私は近くのコンビニに車を止めた。
「ごめん、行くところがあるから、今日はここで解散させて」
「え?」
彼は状況が呑み込めない様子だ。
「向かいの駅からなら、最寄りまで一本でしょ?」
「俺、なんか怒らせるようなこと言った?」
彼が私の顔を覗き込む。彼の目が、飼い主に縋る子犬のようにこちらを見つめている。
「家まで送ってあげられなくてごめんね」
「そういうことじゃなくて……」
彼が口をつぐむ。スピーカーからは、三十年前に流行ったラブソングが流れている。中学の頃、毎日口ずさんでいたのが懐かしい。だけど、この曲のタイトルも、何のドラマの主題歌だったかも、彼は知らないだろう。年齢が離れている、性別が同じである、肌の色が異なっている、そんなくだらない壁を前に、どれほどの数の恋人たちが泣く泣く別れを決めたのだろうか。
「ただでさえあんまり会えないのに、こんなすぐ解散って。本当に急いでるなら引き留めてごめん。でも、俺……」
無知な彼は知らない。一般的に好ましくない相手と付き合い続けていると、その恋愛指向の異常性が、肌の異常となって現れる。恋人と互いに反対の頬に、小さなほくろとして。そして、右頬にほくろのある方が、遅かれ早かれ別れを告げてしまう。数年前に科学的に証明されてしまったその残酷な事実は、常識のある人なら皆知っている。
私はね、今の時間ももちろんだけど、これからあなたと過ごしていける時間はもっと大事なの。そう伝えようか迷ってやめた。彼には無知なまま、私を愛し続けてほしいから。
「仕事で呼ばれたの、ごめんね」
私がそう言うと、彼は「終わったら連絡してね」と優しく言って、車を降りた。大きく両手を振る彼を横目に、私はアクセルを踏んだ。
その足で私は一番近くの美容外科へ向かった。コンビニほど美容外科の数があることに、この時ばかりは感謝した。
簡易的な手術室で仰向けになっている間、わたしはほくろについて考えを巡らせた。これは、私が彼を愛しているしるし。二十以上の歳の差があろうと、そこに愛がある証拠だ。だからただ化粧で隠すだけにして、大事に秘めてきた。私たちがこれから一緒に過ごしていくうちに、このほくろはもっと黒く、大きく、愛とともに成長していくはずだった。だけどこれは、私が彼を愛すべきではないという残酷なしるしでもある。
そんなことを考えているうちに、私を悩ませていたほくろはあっけなく除去された。かつてほくろがあった場所は、小さくへこんでいた。少し心が軽くなったと同時に、私は寂しさを感じた。
「再手術は一割引きでできますので、またいつでもお待ちしております」
帰り際に受付の女が機械的な声でそう言った。
愛のしるし 津川肇 @suskhs
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