ep.006 『鮮血の百合』

 窓から差し込む月明かりが、ベールピンクの髪を艶めかせ、まるで濡れた花びらのように見せていた。


 ネリネは半目を開けて眠りについていた。ベッドは使わず壁に背をあずけ、愛用のボウイナイフを祈るように握りしめて。その様は死んでいるようでもあり、精巧なビスクドールのようでもあった。きっと今の彼女を見たものは、彼女が生きた人なのか魂のない人形なのかを判別するのに苦労するだろう。


 彼女のそばにあるマホガニーの箪笥。その上に置かれたガラス細工の花瓶には、ダイヤモンドリリーが生けられていた。ネリネの髪と同じ色をしたその花は、星の瞬きを吸っているかのごとくキラキラと輝いている。


 その儚い光に祝福されるように。


 ――ネリネは、夢を見ていた。


 それはかつて、ネリネの側にあった幸福。 


 自分と同じ色の髪をもつ青年が、幼いネリネに一房の花を差し出して微笑んでいる。素敵な笑顔。こんな風に笑えるようになりたいと、憧れてならなかった人。 


 ――ネリネ。この花はね、お前と同じ名前なんだ。


 その人の浅葱色の目は、誰よりも優しくて。


 ――こんなにも綺麗な花と一緒なんて、誇らしいな。


 その人の言葉は、誰のものよりも心をくすぐり。


 ――素敵な女性になるんだよ。お前は、誰よりもキレイなんだから。


 その人が頭に置いてくれた手は、誰よりも誰よりも温かい。


「……兄さん」


 ダイヤモンドリリーの花びらが一枚、ひらりと落ちる。ネリネの頭に柔らかく乗っかったそれは、まるで彼女を慰めているようだった。


 ネリネは目を開いた。


「……、……『ダリア』か」


 いつの間にか窓が開いていた。ふわりと揺蕩うカーテンの陰から、闇に紛れる黒尽くめの少女が現れた。ネリネの前に膝をつき、頭をたれる。


「は。睡眠中に申し訳ありません、ネリネ・ブルーメフェルト大尉」


「……ネリネでいいよ。前も言ったでしょう? その苗字は捨てた」


「失礼いたしました。ネリネ隊長」 


「報告かな? 作戦について何か変更でもあった?」


 ネリネは音もなく飛び起きて、ネコ科動物のような柔らかさで立ち上がる。夢から醒めた彼女の瞳は、見るものに呼吸を忘れさせるほど美麗で、冷淡だった。


「は、はい。……これを」


 一瞬ネリネに見惚れていた『ダリア』が、すぐに我に返って紙を差し出してくる。


 ネリネは紙を受け取ると、その内容に目を落とした。暗号化されているが、間違いなく上層部からの追加の報告および命令書だ。潜入中の諜報員から、ブルーメンの殲滅を目的として、ガンマがリンツェルンに潜入中との情報が寄せられたという。


 こんな機密性の高い情報をもたらせるのは一人しかいない。


「……情報源ソースはレグルス兄だね?」


「さようでございます」


「ふうん、なら間違いないね。あいつら……とうとう動いたか」


 溜息をつきながら、ネリネは湧き上がる歓喜に身体を震わせた。報告には、ガンマの暗殺人形が動くとあった。


 暗殺人形。暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形暗殺人形、あの暗殺人形が。憎くて憎くてたまらない、あの暗殺人形がここに来ている――。


 殺せるんだ、とうとう。


 ネリネからすべてを奪った暗殺人形を。


「……しかし、お偉方も無理を言うよねえ。メリダの暗殺を完遂しつつ、ガンマを返り討ちにしろなんて」


「お言葉ですが、嬉しそうですよ?」


「あ、わかる? いやあ、感情を表に出すなんて暗殺者として有るまじきことだねえ。でも……でもね、『ダリア』さ。私はこのときのために生きてたんだよ。暗殺人形とガンマのやつらをぶっ殺してやるために。そのときが来たんだから、喜ばずにはいられないさ」


「……ええ、そうですね。あなたは、そのために『鮮血の百合ブラッディ・リリー』と成られた」


「そう」


 ネリネはボウイナイフを振り回しながら、くるりと舞う。その無駄がない動きと、空気を引き裂く刃先が生んだ銀の閃光は、虚空に絵を描き出してしまうような奇跡の体現だった。


 ボウイナイフが止まる。


 ダイヤモンドリリーの花が、斬首されて床に転がった。


「……レグルス兄にも戻ってきて欲しいしさ。あの人に無理ならどの道私がやるしかないよね」


「レグルス少佐は機を伺っているのでは?」


「伺いすぎなんだよ。なにをそんなに躊躇してるんだか。情に厚いところがあるからさ、あの人」


「まさか……少佐に限って」


「ま、ホントのところはわかんないけど。こればかりは本人に聞いてみないとね」


 これ燃やしといて。


 ネリネは『ダリア』に紙を渡して、ボウイナイフを背にしまった。瞬きをする間に『ダリア』が音もなく消える。


「……今日はもう寝れないね」 


 ネリネはひとり酷薄に笑う。


 どの道、そんなに睡眠は必要としない。身体をいじられた際に、寿命とともに睡眠時間も削れていった。暗殺人形を殺すための代償としては安いものだ。


「……」


 それにしても、やはり――。


 ネリネはふと、今日顔を合わせた銀髪の少年のことを思い返していた。レグルスの情報に近い見た目をしていたから、まさかと思いながらも気になって助けた少年。情報を探るために連れ回したグルメツアーで、彼が武装していることと隠しようもない高い身体能力を持っていることに気づいた。また相当な練度を感じさせる何者かの高度な尾行も相まって、少年に対する疑いを深めていった。


 だが、あの少年は色のないガラス玉のように透明だが純粋だった。純粋すぎるほどに純粋と言ってもいいだろう。クッキーを食べた時の可愛らしい反応も、いま思えば同世代の子供にしては異常なのかもしれないが、どうにもネリネがずっとイメージしてきた暗殺人形の姿とは似つかない。


 たしかに、伽藍堂ではあった。暗殺人形にはこころがないというレグルスの報告とも相違はない。銃を誰に向けるのか尋ねたときに繰り出した攻撃も、死の気配が漂っていた。


 しかし、あの子が……?


「……でも、そうだとしても関係ないよ」


 あれが、あの少年が、本当に暗殺人形だとして、殺すことを躊躇う理由にはならない。


 暗殺人形は、最愛の人を奪った憎き存在。


 ただ、それだけだ。







「……おそらくは港だ」


 エルシオが、地図に指差して言った。


 暗がりに沈んだ室内。カンテラの明かりを頼りに、ライとエルシオは作戦の確認と情報の共有を行っていた。


「やつらは、間違いなく軍港でメリダを暗殺しようとする。ここなら記者や一般人はまず近づけないし、共和国にとって身内しかいないからな」


「しかし、リンツェルンの軍港は海軍のテリトリーです。陸軍の一部隊であるブルーメンに、それほどの行動の自由が許されるのでしょうか? メリダ・ローデンコートが会談する相手も、共和国議会の穏健派で知られる元海軍大将のグランツ・リーンです。海軍の支持者も多い古老と伺っていますが」


 グランツ・リーンはディエゴ・マクハティン独裁体制の中で、唯一といってもいい対抗馬だ。元副大統領の経歴もあり、政治的手腕に優れ、外交にも多大な影響力をもつためディエゴが手を出せない数少ない政治家だったはず。そんな人物が、自分の古巣である海軍のお膝元で、そのような勝手な振る舞いを許すはずがない。


「……海軍がグルになるとは考えにくいと言いたいんだろ? お前の言いたいことは尤もだよ。グランツが生きていればな」


「どういうことです?」


「裏切りだよ。グランツは間違いなく死ぬ。いや、もしくはすでに殺されてる」


 ライは眉根をひそめる。


「まだ話してなかったな。さっき、ガンマの情報部隊から電報が入ったんだよ。共和国議会のタカ派はグランツ暗殺のために相当な根回しをしていたらしいな。海軍将校やグランツ支持の穏健派を抱き込み、彼の影響力を少しずつ削いでいっていたようだ。タカ派にとって……いや、ディエゴにとって今回の作戦は一石二鳥ってわけだな。あとは、何も知らないメリダを四面楚歌に追いやって殺すだけだ」


 エルシオは、親指を立てて首を切るポーズをとった。瞬きを繰り返したライは、小さく手を挙げる。


「しかし、それほどの根回しができているなら、ブルーメンを動かす理由がもはやないと思います。力のないただの老婆を刈るなど、そのあたりの一兵卒でも容易いです」


「たぶん、やつらの本命はもうメリダじゃない」


「……ガンマですか?」


「そうだ。どうやってかは知らないが、やつらは俺たちが動いたことを掴んでいる。ガンマを誘い出してブルーメンとぶつける気だ。つまり、ガチの戦争をする気なんだよ。俺たちとな」


「愚かですね」


「ああ、愚かだ。やつら、俺たちをナメてる。いや、正確にいえば高く評価はしているが、自分たちの戦力を過大評価しているんだ」


「……では、アリア様はやはりガンマ全体の導入をお考えで?」


「だろうな。下手をうつと国が傾く戦力だぞ。恐ろしいことになってきた」


 エルシオが戯けた様子で、おおこわいこわいと自分の身体を抱いていた。エルシオの表現には多少の誇張はあるが、しかしガンマが一個師団くらいなら軽く滅ぼしかねない戦力であることはまず間違いない。だからこそ、共和国もなんとしてもガンマを潰したいのだろうが。


「……」


 ライは、今日会った少女のことを頭に浮かべる。


 彼女も来るのだろうか? ネリネがいるのなら、いかにガンマといえど苦戦を強いられる可能性がある。実力を隠してはいたが、それだけの潜在能力を感じさせる強者だった。


 間違いない。


 間違いなく彼女が『鮮血の百合ブラッディ・リリー』だ。


 ネリネこそ、ライの最優先目標。


 必ず殺さなければならない相手だ。


「……?」


 ライは胸に手を当てる。鼓動がやや不規則になっていた。胸のうちに違和感というか、歯車がズレたような言いようもない不快感が滞留している。


 不具合か? レグルスと接しているときに稀に感じる、身体の誤作動。


 なぜ……?


 ――私ね、初対面だけど君のことけっこう好きだよ。


 ネリネの言葉が、井戸に石を落としたときのような反響を頭の中に生んでいた。なんだこれは。こんな不具合、今まで経験したことがない。


「……レグルス」


 ライは無意識に呟いて、はっとした。


 エルシオが訝しそうにこちらを見ている。なにを勘違いしたのか、ニヤニヤと笑いながら肘で突いてくるフリをしてきた。


「そんなにレグルス叔父さんが恋しいかあ? 心配すんな、今回の作戦はレグルスも参加するみたいだから、近いうち会えると思うぜ」


「……そうですか」


 ライは釈然としないまま、返事をする。


 胸の鼓動がうるさかった。







 

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