ep.005 誰に向けるためのものかな?
いつの間にか、日が暮れようとしていた。
ライたちは港街で一番高い場所に来ていた。リンツェルンの街は燦々たる斜陽に化粧され、眠りにつく寸前の美女の如き美しさに満ちている。建物の焼かれた白さが、宝石をまぶしたように輝く凪いだ海が、緩やかな丘に咲くコスモスの群生が、ライの目には眩しく映った。
静寂を揺らす汽笛の音が、トランペットのように重厚で優しい。
「いい景色でしょう?」
口火を切ったネリネの声は歌うように優しかった。
「……綺麗だよね世界は。ここに来て、夕焼けに沈んだ街を見るたびにいつもそう思うんだ」
ライは答えなかった。食い入るように夕焼けの街へ顔を向けている。空っぽの暗殺人形の青い瞳は、純粋に光を映す。またしても余計なものに目を奪われていたが、ライは目を離すことができなかった。
ネリネは何も言わなかった。ライの気が済むまで世界を見せようと、穏やかな静謐のゆりかごにライの純なる魂を乗せる。何もしないまま、赤ん坊を揺らす乳母の如き優しさを示しているようだった。
何度か汽笛が鳴ってから、ライはようやく目を伏せた。まるで裸の女神像を見つめてしまったことを恥じるような生真面目さで、人としての当然の喜びを否定する機械的な不健全さで、美しい景色を緩やかに拒絶した。
ライの表情の変化を、ネリネがどう思ったのかはわからない。彼女はただ何も言わず、ライの頭を撫でると、やがて口を開いた。
「あー、それにしてもいっぱい食べたねえ」
わざとらしく腹を叩き、口元をほころばせる。
「……食べ過ぎだ」
淡々としたライの言葉は、己の非合理に対する自己批判も含んでいた。
ネリネにつられる形で、よりにもよって腹いっぱい食べてしまったのだ。作戦行動中の食事は腹六分程度で抑えないと、内臓の膨張により弾丸を受けた際の死亡リスクが高まるというのに。
そう理解しているのに、なぜか食べる手が止まらなかったのだ。ネリネが次々と差し出してきた香しい食べ物を見るたびに、合理的な考えがうまく働かなくなった。どれもこれも美味しかった。ライの味覚がこれほどまでに多彩な反応を示したことはかつてない。今まで口に入れてきたものはすべて粘土だったと言われても信じられるほどだ。
「ライの食いっぷりはよかったね。お腹空いてたんでしょ?」
「別に。空腹を感じていたわけではない」
「ふうん。あの食べっぷりでねえ……」
ニヤリと笑うネリネ。
「なんというか、君はもう少し自分の欲求に正直になった方がいいと思うぞー? 美味しいものを腹いっぱい食べることは別になにも可笑しいことじゃないし、誰でもお腹なんて空くんだから空いているなら空いていると認めてもいいんだよ。そっちの方が、もっともっとご飯も美味しく感じられるさ」
「そうなのか? なぜ?」
「お姉さんがそうだからだ」
ネリネは胸を張って、「えっへん」とわざとらしく擬音を使って表現していた。変な人間だ、相変わらず。
「ネリネの言うことは妙だな。合理性が上手く見つけられないし要領を得ない」
「そうかい? まあ、私は非合理なほどに美しく優しいお姉さんだからね。感情任せやなんとなくで物を言うことは多いよ」
「珍妙だ、やはり。ネリネはおかしい」
「それ、思ってても本人に言う? まったく容赦ないガキンチョだなあ、このこの〜」
ツンツンとライの頬を突きながら、ネリネは悠々と笑っている。反撃できないのは相変わらずだからさして気にしない。
ライの円な瞳は、ネリネの笑顔を映していた。
暗殺人形は疑問を抱く。
――ネリネは喜んでいるのだろうか?
人間の笑顔はこれまで何度も見てきたが、その中の誰と比較しても彼女のそれは輝いているように感じられた。感情というものはよくわからないが、だいたいの人間の感情には欲とつながった濁りがあるらしい。彼女のそれは、濁っているようには見えなかった。
まるで汽車の中で見た海のように、夕焼けに沈んだリンツェルンのように。
そうした景色を、レグルスもエルシオも……そしてネリネもこう表現していた。
「綺麗だ」
突然のライの言葉に、ネリネが目を見開く。
「え? なにが?」
「ネリネの笑顔は綺麗だ。輝いているように見える」
「と、突然なに?」
「露店の人々はあなたの笑顔を見ると、同じように笑っていた。みんなそうだった。みんなあなたに親近感をもっているように思えた。それはあなたの笑顔が綺麗だからではないのか?」
「は、はあ……っ? ちょっとやめてよね、いきなり褒め殺しするの!」
「俺はただ事実を述べているにすぎない。俺の知り合いが、女性の笑顔は花に例えられると言っていたが、その意味が俺にも少しだけ理解できた気がする」
汽車に乗っているとき、紅葉に燃える山を見る人々はみな笑顔だった。おそらくはそれと同じことなのだろう。綺麗なものは、人間に笑みを与える。ならば人間に笑みを与えるものは、おそらく綺麗なのだ。
「……これは将来が怖ろしいねえ。いったい何人の女の子を泣かせることになるんだろ」
「……?」
「本人に自覚が無さそうなのが尚の事タチ悪いなあ……」
「なんの話だ?」
「いーや、なんでも。ライはきっとすごい男になるんだろうなって思っただけだよ」
ネリネは少しだけ皮肉っぽく言いながらも、照れくさそうに破顔する。
「でも、ま……ありがと。君に言われるのは、わりと嬉しいよ」
「そうか」
「……うん。私ね、初対面だけど君のことけっこう好きだよ。あ、もちろん友達になりたいって意味でね」
「……」
「……だからこそ、普通に出会いたかったね」
ぽそり、とネリネが呟いた。
普通とは何か? いつもならそうやって曖昧さを打ち消す定義を求めていただろうが、ライは何も言わなかった。
いや、言えなかった。
突然、ネリネの表情が陰ったからだ。橙色の陽光を背負った彼女は、薄暗く沈んだ浅葱色の瞳をライの腰辺りに向けて、小さく一笑する。
潮風が吹き抜ける。靡いたライの銀髪がネリネの薄桃色の髪に触れたのは、彼女がライの耳元に顔を近づけてきたからだった。
花びらが――。
風に乗って舞う花びらが、一瞬視えた。
「その銃は、誰に向けるためのものかな?」
「――」
ライの腕が動いた。ほぼ反射といっていい速度で心臓に向けて貫手を放とうとしたが、その前にネリネが身体を離していた。
中空で止まる貫手をみて、ネリネは悲しげに眉根を下げる。
「……なんだか寂しいね。あれだけ一緒にご飯を食べたのに」
「……」
「君が何者かは知らないけど、今日のところは見逃してあげる。美味しいグルメを楽しんだ日は、人とは争わないって決めてるんだ」
「……あなたは、何者だ?」
ネリネは少しだけ憂いを帯びた、悪戯っぽい微笑みを浮かべ、ライを見た。
「ただの陸軍軍人だよ」
答える気がまるでないということか。ネリネは伸びをしながら、公園を我が物顔で歩く猫のような足取りで、ゆっくりと歩き出した。
懐から拳銃を出さなかったのは、ここで彼女と事を荒立てることを良しとしなかったからだ。作戦行動に著しい支障が出る恐れがある。
それほどまでに、ネリネという少女の底が見えなかった。
「……君が探していた知り合いにもよろしく伝えてね。
ひらひらと手を振るネリネは、最後に振り返った。
その瞳の闇の深さは、夕焼けさえも飲んだ。
「……どうか、祈っているよ。君たちが、私の殺したいやつじゃないってことをね」
「……」
ネリネが去った後を、ライは冷たい瞳で見つめていた。暗殺人形にしてはらしくない迷いと反省が頭から離れない。
撃つべきだったのではないか?
ネリネは見逃すといっていたが、そんな保証はどこにもないのだ。あの娘が自分たちの正体をスパイと仮定し憲兵や秘密警察に通報すれば、ライたちは動きにくくなる。いや、それ以前に暗殺人形であるライですら初動を見逃すほどの実力者が、マトモな人間であるはずがない。彼女の言葉どおり「ただの陸軍軍人」であることはあり得ない。得体は知れないが、だからこそ彼女は作戦遂行にあたっての脅威になるのではないか?
「……とんでもねえ姉ちゃんだったな」
隠れていたエルシオが、音もなく現れた。
「ええ。……撃つべきでしたか?」
「いや、撃たなかったのは英断だと思うぞ。あの姉ちゃん、お前の動きだけじゃなく、隠れている俺の動きにまで注意を払っていた。今まともにやり合えばこちらも無事じゃ済まなかったはずだ。仮にあの姉ちゃんを倒せたとしても……な」
「何者でしょうか? あの戦闘力、間違いなくガンマの構成員に匹敵します」
ライは言いながら、ある人物の名称を頭に浮かべていた。彼女の正体が、それだったとしてもなんの不思議もない。
「……いや、下手をすると」
エルシオはライの瞳を見つめて、小さく息を吐いた。
「とりあえず潜伏先を変えよう。作戦までまだ一日近くある。これからは出歩かないようにして、大人しく指令が来るのを待つのがいいな。……俺もはしゃぎすぎた」
「そうですね」
頷きながら、ライは海の方へと目を向ける。風が、丘に生えたコスモスの群生を穏やかに揺らしていた。
――あのとき視えた花びらは、一体何の花だったのだろうか?
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