ep.003 綺麗な世界

 



 海を、はじめて見た。


 ――広い紺青の海原と遥か先の水平線に溶ける光。


 汽車の車窓から見えたのは、レグルスが教えてくれたとおりの光景だった。無限に続く青。果てしない青。空との境がわからなくなるほどの青。そして水平線を彩る陽光の煌めき。


 これ程までに透き通った青を、ライは知らなかった。汽笛の音さえも遠く聞こえるほどに、ライの意識はその世界に移ろい、溶けていた。


「……随分と夢中だねえ兄弟。サンドイッチをとられたことにも気づかないなんて」


 向かいに座るエルシオが、ライから奪った昼食を頬張りながら笑う。ライは一瞥して、すぐに車窓へと視線を戻した。


「海を見るのは初めてか?」


「ええ。エルシオは、見たことがあるのですか?」


 名称に階級を付けなかったのは、向かう先が「敵国」だからだ。


「んー、あんま見たことはないけど、初めてじゃねえな」


「そうですか」


「綺麗だろ?」


「綺麗……? これが、綺麗ということなんですか?」


 レグルスも言っていた。海というものはとても綺麗なのだと。綺麗。その意味がわからなかった。色や光は、光彩が錯覚する科学的反応に過ぎないはずだ。それだけのものに、何か他の価値観を見出す感覚がライには理解できない。


 わからないはずだ。


 では、なぜ目を離せないのか?


「……アイツが見たら喜ぶだろうな」


「なにか?」


「いや、別に大したことじゃねえよ。ただレグルスのおっさんは勿体ねえことをしたなって思っただけさ。こんないい光景を見逃してんだからな」


「? レグルスは海を見慣れていると言ってましたが?」


「……海はな。きっと、そうなんだろ」


 勿体ぶったエルシオの言い方は、なにか言外の記号を含んでいるように感じられた。状況的に特殊な暗号を送っているわけでもないだろうから、おそらくは然程気に留めなくて良いことだ。


 汽車が鉄橋を超える。


 途切れなく続いていた青は消え、次に現れたのは、紅葉に彩られた森林だった。木々が火もなく燃えているようにさえ見えた。風に揺らめく枝々から葉が零れ落ち、舞い上がる。


 汽車の中で感嘆の声があがった。乗客がみな、車窓の方を向いていた。


「みろよ、ライ。すげえ綺麗だぞ」


 海にはあまり反応しなかったエルシオも車窓に齧りついていた。言葉を返さなかったのは無視したからではない。なんと返せばよいのかわからなかったからだ。


 ライは目を細める。日差しはさほど強くないのに、太陽を直接みたときのように刺激的な眩しさがあった。


「……」


 なにをやっているのだろうか?


 今は、任務中だというのに。余計な思考ばかりを頭に浮かべ、余計なものにばかり目を移している。暗殺人形にあってはならない無駄と非合理だ。本来、徹頭徹尾考えなくてはならないのは、命令をいかに遂行するかということのみ。


 そう。敵国に潜入し、「ブルーメン」の情報収集に努め、その上で殲滅するという命令。


 アリアに与えられたものに、集中すべきなのだ。


 人形は人形らしく。


「……」 


 紅葉の道は、やがて終わりを迎える。切り替えた意識に同調するように、景色は簡素な土と緑になっていく。剥き出しの土の色が、ひどく冷たく感じられる。


「……あー、来たのが春だったらなあ」


 エルシオが、残りのサンドイッチを口に放り込みながら残念そうにいった。


「知ってるか? ここら辺アイリスの花畑で有名なんだよ。有名な画家が絵にも描いていることでも知られてる。開花時期じゃないから見れなかったな」


「そうですか」


 ライは関心もなく冷たく返した。


 エルシオがライを見つめ、小さく息をつく。


「……景色ぐらい、楽しめよ」


 そのぼやきは、冷たく沈んでいく深海のごとき瞳を少しも揺るがさなかった。







 駅に汽車が止まった。


 港街リンツェルンに辿り着いたのだ。巨大な軍港を擁する共和国の要所であり、経済基盤の一つといってもよい商業的価値の高いこの街に、当然帝国側からの直通便はない。そのため、ライたちは国境の監視の薄い場所から潜入し、二日以上をかけて歩き、共和国側から汽車に乗り込んで遠回りするという複雑なルートを経ることになった。戦時輸送体制にあるため一般客が乗れる汽車は極端に少なく、その分余計時間もかかった。


 当然、あまり休息を取れてはいない。移動しっぱなしだからか、少しだけ筋肉が硬直しているのを感じた。だが、この程度なら運動能力に支障はない。エルシオはやや疲れている様子だが、彼もガンマの一員だ。問題はないだろう。


 ライたちは改札の前で列をなす人々の中に入り、憲兵たちの身体検査を受けた。今は戦時中だ。スパイや違法入国者に対する調査と取締は厳しくおこなわれる。そのため偽造の身分証を用意し、服装も怪しまれないように私服を着用、当然だが武器も持参していない。


「よし! 通れ」


 やや尊大な物言いの憲兵から許可が出て、ライたちはリンツェルンの街に足を踏み入れた。人臭い駅では感じにくかった潮の香りが、鼻腔を心地よくくすぐる。海猫の声。穏やかな空気が漂う、カラフルなレンガの街並み。


 ライが初めてまじまじと見る昼間の街の景色。だが、今度は余計な考えに囚われることはない。


「……さて、昼食でも行くか。せっかくリンツェルンに来たんだからアンチョビのピザがくいてえ」


「異論はありません」


 さっきサンドイッチ食べたばかりだろう、と無駄な指摘をしなかったのは、あるピザ屋に向かうよう指令を受けていたからだ。


 ライたちは指定されたピザ屋へ向かう。


「にしても、オマエの格好……どこぞの貴族様のお坊ちゃんみたいで様になってるな。いささか目立ってるような気もするけど……」


 たしかに、すれ違う女性たちがこちらをちらちら見てくる。


「ミラちゅ……ミラが、選んでくれたんです。『アンタが地味な格好をすると逆に目立つ』と指摘され、この服装を着るよう命じられました」


「アイツ……ライを着せ替え人形にして楽しんでいただけだろ絶対。呑気なものだぜ」


「そうですか」


 ライたちは他愛もない会話をしながら、街を歩く。行き交う人々の顔がどこか慌ただしく感じられたのは、戦時中であることときっと無縁ではない。リンツェルンは共和国の要所であるため、帝国内でも最重要攻略拠点の一つに数えられている。硝煙の香りが近くから漂っていることを、彼らもきっと知っているのだろう。


 そのせいか、または軍港だからか、歩いているのも軍人が多い。鋭い目つきで周囲を睥睨し、油断ない足取りをしている。十分に気をつけねばなるまい。おそらくは、秘密警察や憲兵もこの中に潜んでいる。


 ピザ屋についたのは、それから十数分してからだった。水の都とも称されるリンツェルンは、街中に水路が走っており、移動も舟に乗っておこなうことが少なくない。小舟にのり、辿り着いた青色の建物……そこにアンチョビを象ったピザ屋の看板がかかげられていた。


 ライたちは店内に入る。


 カラン、とベルの音がなり扉が閉まった。ウッド調に統一された、クラシックな店内が出迎える。客の数は少ない。ピザ生地を叩く音だろうか。小気味よい音が、奥から微かに響いていた。


 やる気がなさそうにカウンターへ座る髭面の親父に、エルシオは声をかける。


「注文いい?」


「ああ、どうぞ」


「トマトとアンチョビのたっぷり入ったを食べたいんだけど、ある?」


 ぴくり、と親父の眉が動いた。


「……飲み物はなにかつけるかい?」


で。あとこいつの分も」


「了解した。二階で待ってな」


 太い親指を立てて、親父は上を示した。エルシオの口角があがる。そこで話をつけようということだ。


 ライたちは二階にあがる。そこにはいくつか席が用意されていたが、当然誰もいない。二人は適当な席に腰掛けて、親父が来るのを待った。


 数分ほどして、小麦粉を入れる麻袋を抱えた親父が現れた。


「……待たせたな。しかし、今度の来客がこんなガキ二人とはねえ」


「おっと。詮索はなしだぜ親父。それがお互いのためだ」


「わかってるよ。治安局にしろガンマにしろ怒らせるのは怖えからな。とくにガンマはな」


 けらけらと笑いながら、親父は麻袋を机の上に乱暴に置いた。


 まさか、この二人がそのガンマの中枢をなす構成員だとは夢にも思わないだろう。この親父は帝国が送り込んだ諜報員の一人で、潜入した諜報員たちのサポート役にあたる。捕縛され拷問されるリスクもあるから、お互いの情報については一切与えられていない。だから、親父はライたちの正体を帝国から送られた諜報員ということ以外なにも知らないし、逆もしかりだった。


「……武器はその中か?」 


「ああ。小麦粉まみれなのは勘弁してくれよ」


「おいおい、ちゃんと包んでるだろうな?」 


「そんなポカやると思うか? ほれよ」


 親父は小麦粉袋から、次々と小さな包みを取り出して机に置いた。エルシオがそのうちの一つを手に取り、包みを破く。


 現れたのは共和国製の拳銃だった。


「……よく手入れされているが、少しだけ歪んでいるな。だいぶ中古品だろこれ」


 親父が口笛を鳴らす。


「ほう、大した目利きだな。しかし、ワガママいわれたってどうしようもないぞ。共和国の憲兵や秘密警察の目を盗んで武器を用意するのがどれだけ大変なことか……」


「別に文句はないよ。少し直せば十分に使える。いい銃だ。あとは狙撃用の小銃も――」


 親父とエルシオが言葉をかわしている間に、ライは包みをいくつか破いて中身を確認していた。サバイバルナイフに、投げナイフ、暗器各種……。それらを懐に仕舞っていく。銃のシリンダーをずらし、チャンバーに弾が入っていることを確認する。


「……」


 この無機質な手触り。これこそが暗殺人形に相応しい冷たさだ。武器を見ると、自分の使命を改めて思い起こされ、冷酷な血を全身に張り巡らせることができる。


「……で、親父。この街に共和国の暗殺部隊が入り込んでいるのは間違いなさそうなのか?」


 エルシオが親父に尋ねる。


「絶対とは言えないが、かなり確度が高い情報であることは間違いない。あと二日で、和平の使者としてメリダ・ローデンコートが訪問する予定だからな。……共和国側の動きも活発になっているようだ」


「……やはりそうか」 


 エルシオが顎に手を当てて言った。


 メリダ・ローデンコートは有名な宗教家であり、貧困にあえぐスラム街の救済に尽力したことで聖人として列せられたことでも知られている女傑だ。帝国民と共和国民のどちらからも人気が高く、和平のかけはしとして期待される人材でもある。終わりの見えない帝国と共和国の戦争に終止符を打ちたいと公言して憚らないため、当然邪魔に思う人間も多い。とくに戦争を続けたいと思う連中にとっては、目の上のタンコブだろう。


 事実、メリダ・ローデンコートは何度か暗殺されかけてその度に運良く危機を脱している。共和国と帝国のそれぞれの暗殺者を差し向けられて生きているのだから、神に愛された強運と言わざるを得ないだろう。


 しかし、だからこそ――その天運のせいで、業を煮やした共和国から最高の暗殺部隊をさしむけられることになった。


「……ブルーメンが動く、か」


 エルシオの言葉に、親父が頷く。


「それだけじゃねえぜ。きっとあいつが来る」


「『鮮血の百合ブラッディ・リリー』だな」


 鮮血の百合ブラッディ・リリー


 それは、ブルーメンの中で最も名が知られた暗殺者にして、共和国の中でも三本の指に入ると讃えられるほどの最高戦力。彼の行く先には、血と臓物だけが花が咲いたように残ることからつけられた異名だという。噂ではガンマの構成員に匹敵する戦闘力を有するらしいが――。 


「……」


 ライの最優先目標だ。


 アリアはブルーメンの殲滅を命じたが、本命は間違いなく『鮮血の百合ブラッディ・リリー』だ。彼一人が帝国に与えた損害は計り知れない。共和国の力の象徴の一つを手折ることは、ガンマの威光を示すだけでなく、帝国にとっても大きな利益になる。


「行きましょう」


 ライは、冷たい声でエルシオに言った。


「準備はできたのか?」


「ええ。抜かりはありません」


 ライとエルシオは立ち上がる。


「……水の都が血に染まるか」


 親父の言葉を背に聴いて、二人はピザ屋から退店した。


 戦争が始まる。


 ガンマと、ブルーメンの全面戦争が。





 

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