軒先の姫様

@manukehanage

軒先の飲んだくれ

「ふぁ~あ」

 5月。ここ数日降り続いた雨は止み、少し濡れた川沿いの遊歩道は気化熱もあいまって、足元からうっすらとした冷気が感じられた。こんなに涼しく、居心地の良い日はいつぶりだろうか。木製の白いミニチェアにゆっくりと腰掛けながら、この涼し気な日中を堪能する。あくびをしながら大きく伸びをすると、背もたれがきしんだ。


「こんなところで油を売っていいのかい?少年」

 瞬間、首筋にピタッと張り付く感触がした。そのあまりの冷たさと突然さに身をすくめて振り向くと、見慣れた女性が顔をのぞかせてこちらを見ていた。

「今朝は学校がなかったのかい?」

「行こうと思ったんですけど、やめたんです」

「そうだったのかい」

 女性は僕の行いを咎めるでもなく、そのまま向かい側の椅子に座った。ところどころ塗装の剥がれた白い椅子どうしは、白い丸テーブルを挟んで向かい合っていた。もともとはパラソルが刺さるはずであったのだろう、テーブルの中心にはぽっかりと穴が空いていた。向かい側に座る女性は優雅に背を伸ばして座っている。

「そうやってここにくるなんて、よほどつまらない授業なんだろうね」

 白い鍔広帽子つばびろぼうしを斜めに被り、そこからストンと落ちるように艶のある黒髪が垂れ、純白のロングドレスの腰辺りまで届いている。純白のその服は、ただのワンピースと呼ぶには似つかわしくない、中世ヨーロッパの貴族が好んできていたような気品があった。

 僕の眼前はほとんどが真っ白に埋め尽くされていた。なぜなら彼女の気品あふれる顔立ちも、ドレスから伸びる手足も、雲の切れ目から少し差している陽光を跳ね返すごとく純白であったからだ。その一帯はすべてが透き通るような清らかな美しさがあり、しかし同時に白く強い光を発していた。

「ここにくるとなんだか落ち着く気がするんですよ」

 小さな通りに面したこの異世界から、前を通り過ぎる郵便バイクを見届けながらそう答えた。けたたましくも弱々しいエンジンの音が通り過ぎてから、彼女の艶のある薄ら赤い唇はこう動く。


「すまないんだけど、ちょっと一杯やってもいいかい?」

 おずおずとした素振りから放たれる、その美しい声音の意味不明な言葉を、僕は少しの時間理解ができなかった。彼女の伸びた手の先、テーブルの上に目を落としてすぐに理解した。彼女の手には切られたレモンの断面図が握られていたのだ。この純白の世界から明らかに浮いているそれは、彼女が愛飲しているものだった。

「平日のお昼ですよ???」

 美しい女性はプルタブの開かれたレモンサワーを手に持って。

「私は酒屋の娘だからね。無論、正午から酒を飲むのはたしなみでもあり特権でもあるのさグビッ」

 喋り終えながら勢いをつけてロング缶を傾けて飲む彼女の姿は、先週も、先々週も見た姿だ。ついさっき、恐る恐る許可を得てきた態度と打って変わって、グビグビと喉を鳴らして酩酊しようとしている彼女の姿は、立派な飲んだくれの娘だった。

「これがいい大人の姿ですか」

「グビグビグ・・・プハァッ、学業模範生がなんでこんなところにいるんだ?」

 何も言い返せない。

「平日の昼間じゃないか、已上真継いじょうまさつぐ少年」

 何も言い返せない。眼の前でふんぞり返りながら酒を仰ぐこの人は、なんでこんなに偉そうにできるのか。僕はつくづく思う。みやびさんはこの幻想的で儚げな美しさがあるのに、いつも飲んだくれているのがもったいなすぎると。最近では美貌や美声なんかより、酒臭さやジジイ臭さを先に感じることが多くなってしまっている。神は二物を与えなかったのが実に残念でならない。


「私も君も同類どうしなのだから。まあ、ここで暇をつぶしていくがいいさ」

 どこから取り出したかわからないが、みやびさんは競馬新聞を広げていた。


 京都・上賀茂かみがもで400年続く”正院酒屋しょういんさかや”の軒先だけが、時間がまったりゆっくり流れている。裏寂れたこの路地に、末裔の正院しょういんみやびは、いつも座っている。

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