冬が起きますように
一野 蕾
【冬を尋ねて何光年】
「すまないね、ここにはもう冬は来ないんだよ」
じりじりと焦がされるような日差しの下で、凍り付いたように固まった。
「え?」
頬を伝った汗が親指の付け根に落ちた。ここしばらくで小麦色に焼けてしまった肌は、汗の雫の輪郭をじわりと滲ませた。
笠を付けた老婆は申し訳なさそうにそう言った後、苦笑いを浮かべながら自身の汗を拭って、私の手の中を再び覗き込んだ。そっと握り込んだ両手の内側には、氷像が横たわっている。私の両手で隠せてしまうほど小さなそれは、今も確かに人の形をしていた。爪楊枝か綿棒のような細い腕は胸元に添えられ、かつて青く光っていた瞳は固く閉じられている。全身を包めるほど長い髪は、私の不注意で、ここに至るまでの間に一部が欠けてしまった。
二人分の影に覆われていてもなおかすかな燐光をまとっている氷像を、老婆は穏やかな表情で拝んだ。
「いやはや、氷なんて久々に見たよ。やはりいいものだね。雪も氷も、昔はあんなに憎らしかったのにね……」
「……」
ハッとして、老婆は眉尻を下げた。
「力になれなくてすまないね、お嬢ちゃん」
「い、いいえ。少しでも情報をいただけて良かったです」
氷像を絹にくるみ、鞄へとしまう。体の芯まで熱を帯びているのに、心が宿る場所だけは
「冬は、もうこの星にずっと来ていないんでしょうか」
「そうだね。あたしが幼い頃は毎年来ていたよ。だけどいつだったか、年の終わりが近づいても雪が降らなかったんだ。それからはずっとこうさ」
「そうですか……ありがとうございました」
礼儀だけはちゃんと通さなくてはならない。私は落胆の収穫を得て、それでも老婆へ頭を下げた。私が立ち去る寸前、老婆は「今日は特に暑いから」とお茶の入った竹筒を渡してくれた。青々と伸びた田園風景の隙間を、私はふらふらと進んだ。
中央部の町は栄えていた。そこにいる人達も、暑さに負けない活気があった。この星の文化なんだろう、建物にも衣類にも、緑や赤の色彩が使われていた。そう言えば老婆の着る服も緑色だったことを思い出した。彩度こそ低く設定された二色なのに、よく澄んで晴れた空の下では眩しく見えた。
聞き込みを続けた結果、やっぱりこの星には、もう何十年も冬は訪れていないらしかった。氷も雪も見たことがないと話す人が多かったので、氷像を見せるのはやめた。きっと誰もが氷に手を触れてみたくなるに違いない。それは、私としては嫌だった。
「でまかせを掴まされたな……」
湿気を含んだ青色を、脱力感に襲われながら見上げる。再び田園地帯の一角を訪れた私は、平積みされた角材に腰掛け、町で買った昼食を食べていた。お昼の時間はとっくに過ぎていた。
中に魚の身が入っている握り飯には海苔が巻かれていて、程よくまぶされた塩が私の体を休めた。この星はご飯が美味しい。
老婆に頂いたお茶はとっくに飲み干してしまったので、今は新しく冷水を入れていた。
握り飯の残りを口に放り入れ、氷像を取り出す。幸い溶けてはいなかった。
竹筒の水を、ゆっくり、ほんの少しずつ氷像にかける。うっかり割れてしまわないように――水圧に負けるほど脆くはないとわかっていても、手付きはいつも慎重になる。
氷像はかけた分の水分をすぐに吸い取った。一瞬びしょ濡れになった私の片手も、振り払えばすぐに乾く程度になった。
「……ここにも、冬はないんだって。また駄目だったね」
返事が返ってくることも、動き出すこともない。冷たく凍てついた小さな体は、私の手の中でずっと眠っている。昔は私と同じくらいの背丈だったのに、随分小さくなってしまった。初めて全身が氷になった時でさえ私の身長の半分くらいはあった。おかげで運ぶのに凄く苦労した。
ふと空に目をやった。蒼穹の下を雲が流れていく。悠然と、風のように時が移ろう。あの日ももう随分と前になる。
「もう長くないみたいだ、おれは」
いつものように遊びに行って、突然。顔も見ずに告げられた。
「な、に言ってるの?」
動揺を隠さない私を、ようやく振り返った友人は、いつものようにたおやかに笑った。
友人はとても綺麗な人間だった。両の瞳が氷の洞窟みたいに真っ青で、透き通った髪は足首まで伸びていたのに、手ですくった新雪のように滑らかだった。私も友人も性別がないけど、私はどちらかと言うと女性寄りだったのに対して、友人はどっちでも筋が通るような容姿をしていた。
端麗で、
「どうしたの。体調が悪いの、顔色が良くないよ」
「それはいつもだよ」
私が隣にやって来るのを待った友人は軽口をたたきながらも、私が横に腰を落ち着けると、おもむろに話を始めた。
「夏が長くなってきているんだ。冬が抗えていない。もう時期、この土地から冬は消えると思う」
「冬が消える?」
「おれには、そう長い間夏を耐えしのげるほどの強さはない。体が雪でできてるようなものだからな」
「じゃあ、ここよりもっと寒い場所に引っ越そうよ。それなら平気でしょ?」
故郷の星は、土地ごとに気候が異なっていたから、私たちが暮らす場所よりも気温が寒い場所はあると私は思った。
だけど友人は、
「駄目なんだ。おれには限界が近い」
内臓が締め上げられているみたいに痛んだ。五臓六腑が小さな悲鳴を上げている気がした。私は緩やかな曲線に切り取られた頬に落ちる木漏れ日を、ふと凝視してしまう。冬そのものとも呼べるこの友人が、熱気と日光に苛まれて、ついには融解する様まで、ありありと想像してしまった。黙りこくった私を見やって、片や友人は快活に笑う。
「ははは。そう怯えるなよ! 別に死ぬわけじゃない。それに見てくれ」
唐突に着物の裾をめくりあげる。その足は。
「凍ってる……」
キラキラと日差しを反射する片足は、完全に氷と化していた。足の指や爪の形を丁寧に再現した氷の人形のようだった。
「考えたんだ。これで耐えられる」
ふん、と得意げだ。しかし私の胸中には、不安な影が差していた。
「でも動けないよね、この足じゃ」
「もちろんだ。でも片足があるし」
「これでこの先の夏をずっと耐えれるの?」
「それは、まだなんともだなあ。もっと広がるかもしれない」
「……いつかは全身氷になることもあり得るって訳でしょ。そんなの、私いやだ」
ついに言葉になって出た気持ちは、本当にシンプルで飾り気も可愛げもなくて、でも友人には届いたらしかった。私の肩を叩いたあの手は、今はもう冷たい。
その日以降、友人は少しずつ凍っていった。一応は長引く夏に対抗できているらしい。正直私は気が気じゃなかったけれど、当人は満足そうだったので、それ以上はしつこく言わないことにした。
でもある日。
「わぁ。小さくなったね」
友人は私よりもうんと体が小さくなっていた。幼くなったっていうことじゃなく、縮尺が縮んだのだった。
「ははは。いやぁそろそろ限界みたいでな」
幾分小さくなってしまった手が、何故か照れ臭そうにうなじを撫でる。
私も、覚悟を決めなくてはいけないようだ。
やっぱり、その日も暑くて。故郷の星から夏は去らなかった。冬は、やって来なかった。どの星にもその現象が起きていると知ったのは故郷を出てからだ。
青々とした緑の重なりが、その葉擦れの奏でる音楽が憎らしくなった。小さな、もうほとんど半身が氷になった友人は、いつものように笑顔を浮かべる。白い頬に霜が這う。
「またな。しばらくおれは眠ることにする。達者でいろよ」
「待って、まだいやだ」
「冬が来たら起こしてくれ。おやすみ」
両手を胸の辺りでクロスさせると――というより、胸に両手を触れると、友人の体を覆っていた氷がみるみるうちに全身に伝い、私が急いで駆け寄って、倒れる体を抱き留めた時には、もう友人は氷の像となってしまっていた。ぐでりと腕の中で
茹だるような夏の暑さの、更に鬱蒼とした蒸し暑い森の中。冬はついに眠ってしまった。
「あれから何個も星を渡ったのに、いまだに冬に辿り着けないね……」
故郷の星とは頻繁に連絡を取っている。今日もうんざりするほど暑いそうだ。そして、故郷に残っていた何人かの冬――友人と同じ冬の性質を持つ彼ら彼女らも、とうとうみんな氷像になったと言っていた。
宇宙中の星から、冬がいなくなってしまった。夏に押し潰された。
「早く起こしてあげたいなぁ」
手の中の氷像を優しく握りしめる。冷たい。手の平を突き刺す冷たさは、私の熱い体温を溶かすようにこちらに触れてくる。
生ぬるい風が吹いた。空全体がうっすらと桃色を帯びて、東の空が紅葉の色になりつつあった。
「日が傾いてきた。次の便が来るね。他の星に行くよ」
氷像をまた絹に包む。
語りかけても返事はない。氷は溶けない。
次の星へ向かう為のターミナルへ足を運ぶ。私は前だけ見ながら、薄く汗をかきながら、それでも声をかける。
「話したいことが沢山あるの。この旅の終わりに全部話すよ。これまで見て来た星のこと、
起こしてあげるから、来ないならこっちから迎えに行くから。だから早く起きて、冬。
『冬が起きますように』/終
冬が起きますように 一野 蕾 @ichino__
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