第5話 僕の望み

(お兄様に会いたい……お兄様……)


 イリスは学園を出ると従兄弟のジェレールのもとに走った。ジェレールはイリスの家にお祝いに行くための準備をしているところだった。ジェレールはイリスの登場とそのただならぬ気配に驚いた。


「イリス? どうしたんだい? ドレスに付いたそれは……まさか血かい?」


 イリスはジェレールにすべてを打ち明けた。


「イリス、ツラい想いをしていたんだね。 以前イリスが打ち明けてくれた時に僕がちゃんと動いていれば……」


 ジェレールはそう言うとイリスのことを強く抱きしめた。そしてイリスにひとつの質問をした。


「イリスはこれからどうするつもりなんだい?」


 イリスは数秒の沈黙の後、自分の考えをゆっくりと伝えた。


「わたくしは本当に愚かなことをしてしまいました。 自覚があります。 怒りに身を任せて暴力に逃げました。 ですからお父様お母様に会って事情を話した後、罪を償いたいと思います」


 ジェレールは抱きしめていたイリスの体を少し離し、イリスの両肩に手を添えて目を見て話し始めた。


「確かに暴力は絶対に許されないことだね。 償いも出来るのであればするべきだ。 でもその罪の償いは最悪の結果になるかもしれないよ。 ルイ様のお父上は彼を激愛している。 イリスをこの世から消すことだって出来る人なんだよ? しかも聖女の力を利用しようとする人間もこれから近付いてくるだろう……だからイリス、僕と一緒に逃げよう」


 イリスは考えてもいなかった提案に驚いた。


「え、お兄様とですか? でもそんな……。 そんなことをすればお兄様にどれほどのご迷惑がかかることか。 罪を犯したのはわたくしです。 わたくしはそれを望んではいけません」


「違うよイリス、イリスが望むんじゃない。 僕がきみと一緒に生きていくことを望むんだ」


「お兄様がそれを望まれているのですか? でも……」


「イリス、今きみにこれを言うのは混乱をさせてしまうだけかもしれない。 卑怯なことなのかもしてない。 でも言わせて欲しい。 僕はイリスが好きだ。 妹みたいな存在としてではなくひとりの女性として好きなんだ。 だから君と共に生きたいんだ」


 ジェレールの真剣な眼差しにイリスは冗談ではないことを悟った。


「お兄様……わたくしはお兄様に愛していただく資格なんてありません。 わたくし自身もすでに黒いモヤに包まれているんです」


 イリスは泣きながらジェレールから目を反らした。


「愛に資格なんて必要ないよ。 仮に資格が必要なのだとしたら、それは愛し守り抜くと誓う僕の方にこそ必要なものだよ。 イリス、今は僕を選んでくれとは言わない。 今はきみのお兄様でいよう。 ただ僕の気持ちがわかってくれたのなら一緒に逃げて欲しいんだ。 きみを失うのが怖いんだ」


「いいのですか……わたくしがそれを望んでも?」


「違うよイリス、イリスが望むんじゃない。 僕がきみと一緒に生きていくことを望むんだ。 さっきも言ったじゃないか」


「そうでした。 お兄様……とても自分本位で都合がいいお願いだと思います。 一緒に逃げてくださいますか?」


「それなら急いで準備をしないとね」


 イリスとジェレールは最低限の荷物を手に王都へと向かった。人が多く身を隠すのに最適だと思ったからだ。イリスの目から涙が消えた頃、体を包んでいた黒いモヤは段々と薄くなっていた。



 ◇ ◇ ◇



 あの事件から五年が経過した。逃げてから数年は息子を公衆の面前で殴られた公爵が血眼になってイリスを探していたらしい。イリスは父と母に裁きの矛先が向けられることを恐れていたが、残念なことにその心配の通りになってしまっていた。しかし、幸いにも両親は罰金だけの比較的軽い罪で済んだという。暴行の事実はあっても外傷がないという前代未聞の事態をどう裁けばよいのか誰にもわからなかったのだ。


 イリスとジェレールはあれからずっと一緒に生活をしている。元貴族だとは思えないほど質素な生活。それでも二人はとても幸せそうに見えた。


「あなた……わたくし子供が出来たみたいなの」


 ある夜、仕事から帰ってきたジェレールにイリスはそう告げた。イリスがさすっているそのお腹にはまだ膨らみがなく、別の命が存在することなどわからないくらいであった。


「本当かい!? まったく気が付かなかったよ! なんて素晴らしいんだ!」


 ジェレールは興奮してイリスを抱きしめた。しかし、すぐにお腹に負担がかからないようにと抱きしめるのをやめた。


「でもわたくしだけこんなに幸せになっていいのかしら? みんなに迷惑をかけて、お父様とお母様はきっと寂しい想いをしているはずなのに」


 ジェレールは前に一度、状況を確認するために故郷に帰った。その時にイリスの両親が寂しい想いをしていること、イリスに殴られたルイが女性恐怖症になり、シャルロットが廃人のように精神的に不安定になってしまったことを知った。だがそれをイリスに言うことはなかった。絶対に言ってはならないと心に決めていた。


「いいんだよ。 幸せになってはいけない人なんていないよ。 僕のためにも、僕らの子供のため、何よりもきみ自身のためにもイリス、きみは幸せになるべきだ」


 ジェレールに優しくそう言われるとイリスは安心し、その言葉を受け入れた。ジェレールの言葉はいつもイリスに安心を与える。ジェレールの存在はいつもイリスを癒してくれる。


「そうね。 ありがとう。 幸せになる、ならないと」


 そうしてイリスは故郷に帰ることなく逃げた先の王都を終の棲家とし、幸せに暮らした。


 王都では故郷にいる時よりも悪意の黒いモヤを見る機会が多かった。だが愛するジェレールと共に生活しているとそんな悪意の黒いモヤは気にならなくなっていた。


 イリスの体が黒いモヤに包まれることはもうないだろう。

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【完結】聖女の私は悪役令嬢として断罪されたので、婚約者とヒロインを泣きながらボコボコにしてお兄様のもとへ逃げることにした 新川ねこ @n_e_ko_

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